四章
緩慢に身を起こした少女は、赤く潤んだ目でユーグレラを振り返った。
ユーグレラは剣を地面に置き、両膝をついて、手を広げる。
「さあ、おいで」
無理に近づいても、少女はこちらを警戒するだろう。そう思って、ユーグレラは待った。
自分に出来ることは、あまりないような気がした。
王である父は、母の最期を語ろうとはしない。
だが、その時現場にいたであろう少女の心に、計り知れない深い傷を残したのは間違いないだろう。
母がいなくなってしまったこと、自分が見てしまったもの、それらすべてを、受け止めることが出来ているとは、到底思えない。
ユーグレラが彼女に対して出来ることは、傍にいることだけだ。
しかし――少女がユーグレラの手を取るか否かは、別の問題だ。
「外は寒いよ。このままでは風邪をひいてしまう。早く戻ろう」
一枚多く服を着てきたユーグレラですら、少し寒気を感じていた。それほど、空気は静謐に澄みわたっている。
半泣きに近い少女の顔が、流れてきた雲の影のせいで、一瞬わからなくなってしまう。
少女はふいに立ち上がり、駆けだした。ユーグレラとは反対側の、川の方へと。
「……! 待って!」
急いで立ち上がり、数歩駆け寄ったところで、足が止まってしまう。
清流に足首まで浸かった少女が、ユーグレラを睨んでいた。幼い子に、ここまでの激情が滾っていたことに、言葉を失ってしまう。
「……来ないで」
ユーグレラは、伸ばしかけていた両手を下ろした。頬に当たる夜風が、冷たい。
清流に浸かった少女の足先を、どれほどの冷気がむしばんでいるだろう。
口を開きかけたが、少女のか細い声が遮った。
「誰も、私を、見つけてくれないの……」
先ほどの激情は、どこへ行ってしまったのだろうか。両手をきつく握りしめ、何かに耐えるように、訴えるように、言葉を吐き出す。
「お母さん、ずっと家にいなかったもん。必ずどこかへ、行っちゃった。私がどれだけ泣いても、一緒にいてくれなかった……」
ユーグレラは、拳を握りしめた。叫びそうになったのを、辛うじてこらえる。
――母が可愛がっていたのは、自分よりも、目の前の少女だ。
心の底に、気づかないふりをしていた危うい熱が、吹き出しそうになる。
幼い頃から押し込め続け、存在を認めないように振る舞っていた感情がある。
ユーグレラはそれを他者に、家族にすら見せようとはしなかったし、周囲の誰もが、ユーグレラが求めているものに気がつこうともしなかった。
だがこの少女は、幼さゆえに、何も知らずに無邪気に渇望していたのだ―――
目の前が暗くなりかけたが、辛うじて己を現実に引き戻した。
感情を厳しく律することに慣れ過ぎていたからこそ、こんな状況でも平気で振る舞える。
心の波を感じながら、ユーグレラは口を開く。何となく、沈黙が長いのは良くないような気がしたのだ。
「でも……お母さんは、君のことが大好きだったはずだ。だからこそ会いに……」
「私のことが嫌いなんでしょう?」
問いで遮られ、文字通りユーグレラは息を止めた。
改めて少女を――血の半分繋がった妹を、見た。愕然とするユーグレラを、少女は涙に濡れた目で睨み返す。
その表情には、激しさのほかに諦観も混じっていた。
他者に受け入れられないことは、当然のことだとでもいうような、幼子がするにはあまりにも憐れな表情だ。
「あの魔法使いの人も、お兄ちゃんも、仕方がなしに私の面倒を見ているんでしょう?」
「違う! そんなことはない!」
ユーグレラは立ち上がりかけたが、同時に少女が川の奥へと後ずさる。
水しぶきがあがり、月のまろやかな光に飛沫が照らされ、きらきらと光が舞う。
「来ないで!!」
もう一度少女が吐いた、強い拒絶の言葉に、今度こそユーグレラは固まってしまった。
一人ぼっちで佇み、ぽろぽろと涙をこぼし、泣きじゃくる少女に、自分は何が出来るのだろう。
(……この子を父上から助けようとした。でも、何も解決していない。この子の心も、傷だらけのままじゃないか)
どれほど時間が経っただろう。泣き声はいつしか枯れ果て、少女は清流に腰を落とした。
流されるような深さではなかったが、このままでは体温がますます奪われてしまうだろう。
ユーグレラは、硬くなった体を何とか動かし、立ち上がった。川の流れに足を踏み入れると、寒さが足先を通して体を侵食してくる。
座り込み、泣き疲れてぼんやりしている少女へ歩み寄り、濡れた頬を片手で包み込んだ。
少女は、ユーグレラのほうを見向きもしない。