四章
アウローラは、固く唇を結んだまま、震える手で剣を降ろした。
その刃を見て、ユーグレラは天を仰ぎたくなる。
血の色に染まった、父の剣。おそらくは、誰かの命を吸い取った後なのだ。
(母上は、もう……)
「ユーグレラよ」
嘆く暇などなく、背に緊張が走る。手負いの獣を仕留めるより、よっぽど注意しないといけないと、本能で悟る。
自分の背に、声を押し殺した少女が必死でしがみつくのを感じた。ユーグレラは少女の片手をとり、強く握り返す。
「その子供が、どういう出自なのか理解していて、庇うのか?」
なけなしの理性で、アウローラはかろうじて威厳を保っていた。
だが、それは今すぐに崩れてもおかしくないほど、危ういものだ。
ユーグレラは、こくりと息を込んだ。
「この子は――母上の子であるけれど、父上の子ではありません」
血濡れた切っ先が、一瞬のすきをついてユーグレラの喉元につきつけられる。
「知っていたのか。二人で、私をたばかっていたのか?」
声を荒げないのは、さすがは冷静と謳われるだけのことはある。とユーグレラは場違いながらも感心した。
アウローラはその身にすさまじい激情を秘めながら、凍った水面のごとく動じず、己の衝動を上手く飼いならすことのできる男だった。
(だが、さすがの父上でも、家族の裏切りを許すことはできなかった……誰もそれを、責められない)
「僕は、母上から何も聞いてはおりません。様子がおかしいとは思っていましたが、問いただしたことも、調べたこともありませんでした」
だがその判断が、結局は裏目に出てしまったのかもしれない。ユーグレラは唇をかむ。
しかし、こうなることは、時間の問題だったのだ――王の妻が、王以外の男を選んでしまった時点で、破滅の道は開けてしまっていた。
「ですが父上、この幼子を手にかけることだけは、やめてください」
なおも背にすがるあたたかみを意識しながら、ユーグレラは頭を下げる。
「裏切りのあかしを、放っておけというのか?」
「この子に罪があるでしょうか? ただ、生まれてきてしまっただけです。それだけで、死ななければいけない理由になどなりません。どうか父上、この子供をお許しください」
ユーグレラは頭を下げながら、全神経を集中させて、この後の顛末を予測する。
もし、父がこの少女の生存を許可しないとなると――自分は、どこまで抗うことができるのだろう。
王の命令は、絶対だ。だが戦でもないのに命を絶つなど、ましてや幼子となればなおさら、ユーグレラは認めることはできなかった。
本音は、それだけではなかったけれど。
ユーグレラは、腰に佩いていた剣を、できるだけ遠くへ投げ棄てた。
「僕にとって、この子を殺すことは、兄弟を亡くすことと同じです」
どれほど効果があるかはわからないが、なるだけ反抗の意思がないことを示す。同時にユーグレラは、父を遠回りに脅していた。
もしここで剣を振り上げれば、文字通り自分の身を盾にすることもありうるのだ、と
アウローラは黙ったきりだった。王として、男として、そして父として、あらゆる立場の上でどう振舞うべきか、探っているような鋭い目つきで、ユーグレラを睨んでいた。
動くものは、時折遠慮がちに吹く風に揺れる、木々のみ。
「……条件がある」
呼吸さえはばかられる雰囲気の中で、ようやく王は発言した。ユーグレラは、唾を飲み込む。
「ひとつ、その不義の子は、決して王族とは認めない」
それは予想できたことだ。まだ王は続ける。
「ふたつ、記憶を奪え。名も奪え。そして、お前が半分血の繋がった兄だと、決して教えるな」
後半は、悲しいが納得できることだった。だが、命の代わりに名や記憶をもぎ取るのは、あまりに残酷といえた。
(だめだ、反抗はしてはいけない)
「最後に、その子に新たに与える名は、私が決める。そしてその決めたことに、異議は唱えるな」
数瞬の沈黙ののち、ユーグレラは注意深く王を窺う。