三章
「クルーヤ、もう大丈夫なの? つらくないの?」
「ああ、平気だ。ありがとう」
「そう、ならいいんだ」
ポーエが細い腕で頬を撫でてきて、クルーヤは、自分が心配される立場にいることに妙な感慨を覚えた。
一族が滅び去ったため、真に心を許せる相手などいないとばかり思ってきたが、どうやらそうでもないようなのだ。クルーヤのことを気にかけている者は、見渡せばすぐそばにいる。
その事実を、こうしてゆっくりと実感できていることが、驚きだった。
「スペルステス、悪かったな。もしかして、ほとんど俺に付きっきりだったのか?」
ポーエの頭を撫でながら問う。スペルステスは、水差しに新しい水を入れてきたばかりで、腰かけるところだった。
「そんなに気にすることはない。僕もじっとしていたかったから、ちょうどよかった。それに、ネイファはあちこち診療に出かけていて、彼女から留守番も頼まれていたからな」
そう言いつつスペルステスは、大胆にも水差しに直接口をつけ、こくりと水を飲んだ。先ほど、クルーヤがしたのと全く同じ動作だ。
間接的に唇が触れ合ってしまった、という事実になぜか動揺してしまう。
「お、おい、茶碗を使えよ。直接飲んだら、こぼれるかもしれないだろ」
早口でまくしたてるが、スペルステスは不思議そうに目を丸くしただけだった。
「ずっとこうしてたが、こぼしてなんかないぞ。だから構わないだろ?」
「いや、その、何て言うかさ、あー……」
何と言えばいいのか、いやそもそもこれ以上文句を言う必要があるのか、墓穴を掘る可能性があるから黙った方がいいのか――と、目まぐるしく思考する傍らで、スペルステスがとんでもない劇薬を投下した。
「お前に水を飲ませた時も、口移しでやったが、ほとんどこぼさなかった」
たっぷり十秒ほど固まってしまった。
「…………………へ!?」
すっとんきょんな声を上げたクルーヤを、スペルステスはまるで不可解そうな目で見る。クルーヤの内心の混乱を、どこまでも理解できていない表情だ。
「仕方がないだろ。お前はほとんど気を失っていたし、茶碗だと沢山こぼれて服が濡れるだろ? 口移しが一番確実だったんだ」
滔々と解説するスペルステスの言葉が、遠くで響いていた。
クルーヤは、熱にうなされていた時の記憶を懸命に引き起こす。 水を飲んだ覚えが、かろうじて残っている。貪るように求めた、冷たい潤い。そういえばその際、唇に柔らかいものがふれていた、ような……。
「わああああああああああああっっっ!!」
クルーヤは大声をあげ、頭から毛布をかぶって寝台にうずくまる。ポーエの驚いた声が、毛布越しに聞えてくる。
「クルーヤ、どうしたの? どこか苦しいの!」
ポーエが体の上でぴょんぴょん跳ねているのがわかったが、それに反応を返しているどころではない。
クルーヤの脳裏に、夢で見たスペルステスの姿が容赦なくたちあがる。 現実では、口移しで水を飲ませてくれた彼女。夢の中では、悲しい目をしながら裸ですりよってきた彼女。
そう、夢で見たスペルステスの肢体は、白くて、やわらかそうで、その唇は甘そうで――
『僕は女だから、お前を受け入れる。お前の思うようにすればいい。』
「だあああめえええだああああああっっっ!!」
これ以上のことを連想すると、感情が制御できずにどこまでも飛んでいきそうだった。
喉が裂けるほど叫んで雑念を吹き飛ばし、クルーヤはがっちりと毛布にくるまって、そのままだんまりを通すことに決め込んだ。
ここで顔をあげたら、どこまでも真っ赤になった頬を、スペルステスに見られてしまう。 それだけはどうしても、避けなければならない。
暴れる胸の鼓動を、知られるわけにはいかない。
「クルーヤ? 不快にさせたなら謝る。お前の許しもなしに、悪かった」
毛布の外で、スペルステスが歩み寄ってくる音がする。ポーエも相変わらず、クルーヤの体の上で跳ね上がっているままだ。
夜があけるまで、顔は出さないでおこう。そう固く心に誓った、クルーヤだった。