三章
「足跡は、わざと村から遠ざける形で残しておいたから、奴らも村にはしばらく近づかないだろう。ミリーナとリイカ、と言ったか? 全く恩を売るつもりはなかったんだが、二人が必要以上に僕を褒めそやすわ、長老には感謝のあまり泣かれるわで……はっきり言って、疲れたぞ」
ふてくされたように付け加えた一言に、クルーヤはおもわず噴き出してしまった。
スペルステスは、憮然と彼を睨みつける。
「どうしてお前が笑うんだ。納得できないんだが」
「いや、悪い悪い。そっか、俺が寝ている間に、そんなことがあったんだなあ」
そんないきさつがあるのなら、長老も滞在をうながすだろう。
それに、この話を聞く限りでは、他の者も面と向かって、スペルステスを追い出そうなどと言えなくなっているかもしれない。
彼女は確かに避けたい血族であるかもしれないが、まぎれもなく、二人の子供を人間の魔手から救っているのだから。
「ありがとな、スペルステス」
笑みを浮かべると、スペルステスが妙なものを見る目をした。
「どうして、お前が礼を言うんだ?」
「いや、ミリーナとリイカには、いろいろ世話になってるからさ。他の奴から何度も聞いたかもしれないけど、俺からも言っておこうかと思って」
「……そういう、ものなのか?」
「そうだよ、そういうことにしとけって。とにかくありがとな、スペルステス」
もう一度言うと、スペルステスはふいと顔をそむけ、「大したことじゃない」とつぶやいた。
と、家の扉がバアンと開け放たれる音がし、遠慮のない足音と共にスペルステスの名を呼ぶ声が響く。
「スペルステスおねえちゃーん、遊ぼっ。遊んでよー」
声の正体は、リイカだった。彼はポーエを両手でぐにぐにと弄びつつ、頬を上気させている。
にこにこ、と微笑む幼子とは対象に、クルーヤはひくりと頬がひきつった。
「お、おい、リイカ。スペルステスは、男だぞ? だから、お姉ちゃんじゃないんだ。わかったか?」
もちろんクルーヤは、スペルステスの真の生まれ持った性別を知っているが、本人はあくまで男としてふるまっているのだ。だから建前上、それを貫いてやらなければならない。
たとえそのことに関して、クルーヤが快く思っていないとしても、だ。
「そうなの?」
きょとんとするリイカは、まじまじとスペルステスを見上げる。そのすきに、ポーエが彼の手の中から脱出して、スペルステスの襟首にがっしりしがみついた。
どうやら、ポーエはさんざんリイカにもみくちゃにされたらしく、目に涙まで浮かべている。クルーヤはその様子を見て、思わず噴き出しそうになってしまった。
スペルステスは、リイカにうっすら微笑んだ。完璧な慈愛を浮かべたその笑みは、さすが〈ファンティーア〉一族らしく、あまりにも美しかった。
例えスペルステスが真に男だったとしても、この笑みに見とれない者がいるだろうか。そう思わせるほど、蟲惑的な花の笑みだった。
リイカは案の定、口を半開きにしてスペルステスを見上げている。
「ねえ、本当にお姉ちゃんは、お兄ちゃんなの?」
「ああ、そうなんだ」
スペルステスは、花の笑みのまま迷いなくうなずいた。
リイカはそれでも納得がいかないようで、座ったままのスペルステスの美貌をまじまじと見上げる。