一章
昨日の夜から雪は降っていない。
だから、今朝以降に目が覚めたスペルステスの足跡がついていないというのは、自然現象に反している。
なのに、現実にはそれがない。
(どういうことだ……?)
雪に足をとられつつ、周囲を見渡す。
人間たちの目からスペスルテスを守ると啖呵を切った手前、捜索の助けは得てはいけない気がしたので、誰にもこのことは言っていない。
が、せめてエランには助力を乞うたほうがいいのではないかと思えてきた。
「やばい、もう日が沈む……」
空の端が赤と橙に染め上げられ、その反対側からは夜の色彩がしのびよっている。
冷え込みも厳しくなってきて、漂う風が体をなでるたびに外套の襟首を押さえる。
「スペルステス……」
焦燥に駆られてその名を呼んだ。
まだ言葉を交わしたことのない〈アンプロセア〉の少年は、一体どこにいるのだろうか。
クルーヤは、日中自分がいた場所とは反対の方角を探すことにした。木の茂みや木陰にも注意をはらうが、それらしい気配は見受けられない。
寒さのせいで足の感覚も指の感覚もなくなり、だいぶ時間が経ってしまった。
空には青白い満月が浮かび、地面に積もった雪の表面は照らされてほの淡い光を帯びている。
いよいよ村はずれのそのまたはずれに来てしまい、クルーヤは極度の疲労を感じていた。
いい加減にひきかえさないと、ネイファとポーエが心配しているはずだ。なのに、クルーヤの体はずんずんと前へすすんだ。
誰かがささやいていたのだ。あともう少しだけ、このあたりを探したい、と。
クルーヤは何かに突き動かされるまま、足を動かした。
そして、耳がかすかな音を拾った。
息を殺し、慎重に気配をさぐる。右の方向だ。
(水の、音?)
水滴が、水面にしたたり落ちる澄んだ音。
自然がたてる音にしては、少し大きい。何か手掛かりがあるかもしれない。クルーヤはその方向へとまっすぐ進んだ。
(こっちって確か、泉があったんだっけか……)
水が足りなくなった時、村人たちが使う水源が村の外にはいくつかあるが、そのうちのひとつかもしれない。
生い茂る木と草の向こうに、月を写した水面が見えた。
そしてクルーヤは、あまりの驚愕で息がとまった。
この季節、しかも雪が降っているというのに、泉で沐浴している人影がある。
背はこちらに向いているので、顔まではわからないが、腰までしっかりと水につかり、肩や長く伸びた髪に水をかけている。
月明かりのもと、その人影が、赤い髪をしているのがわかったとたん、クルーヤは声をあらげた。
「な、何やってんだよ!」
しげみをかきわけて飛び出すのと同時に、スペルステスがばっと首だけふりむいた。
「馬鹿! 今すぐあがれ!! 傷を負っているくせに風邪までひくつもり……なの………か………ん?」
ゆっくりと、体ごとふりむいたスペルステスと目があう。初めて見る青い瞳には、剣のような冷えた敵愾心が宿っていた。
しかしクルーヤは、その視線の険しさの理由を探るよりも、自分の混乱を収めるのに必死だった。
さて、目の前の彼は、彼とネイファが看病していた、スペルステス・アンプロセアのはずだ。何度もその寝顔を見ていたので、それはさすがにわかる。
わからないことは、ひとつ。
スペルステスはあきらかに、どこをどう見ても、女の体をしていた。
「ふえ……?」
クルーヤはわれ知らず、間抜けな声をあげていた。