一章


*****

スペルステスは、ただ叫び続けることしかできなかった。

「ユーグレラ様! 逃げてください! 僕なんかほうっておいて、逃げてください!」

抱き抱えられながら身をよじる。

両手がふさがっているこの状態で背を向けては危ないはずなのに、ユーグレラはスペルステスを放そうとはしなかった。

それがあまりにもふがいなくて、悔しかった。

五歳のスペルステスは、頭の片隅でおかしいと思っていた。

これは、昔よく見た悪夢なのだ。

緑色に染め上げられた光が充満する森の中。斧を持った大男が、自分を追いかけまわす。そういう夢。

そして最後はいつも、ユーグレラが助けてくれる。そういう夢だった。

けれど、今回はなぜか違うのだ。

違う。違う。スペルステスは叫ぶ。違う。これは、違う。

大男は、こんなにしつこく追いかけまわしてはこなかった。

ユーグレラは、こんなに傷だらけにはなっていなかった。

彼はいつも、さっそうと助けてくれたのに。

大男から逃げ惑うスペルステスを背にかばい、果敢に立ち向かって退治する。

いつも、そうやって夢は終わるはずなのだ。

けれどどうして、今回は、こんな悪夢を見させられているのだろう。



「ユーグレラ様……」

スペルステスは、ユーグレラを仰ぎ見た。

憂いと甘さが溶け合った美貌は血で薄汚れ、あちこちに負った裂傷や切り傷のせいで、苦悶の表情を浮かべている。

息は荒く、先ほどから足取りも頼りなかった。

それでも、ユーグレラはスペルステスを見放そうとはしない。

ユーグレラはさっと後ろを窺うと、右へ方向転換し、木の陰に飛び込んだ。

そのまま息をひそめ、大男が遠くへ行ってしまうまでやりすごすと、ぐったりと背を幹にあずける。

そして、泣きそうになっているスペルステスの頭をなでると、静かに言った。

「スペルステス、早く逃げるんだ」

「いや……いやです!」

ほとんど半狂乱になって叫ぶ。

違う。これは違うから。あなたも僕も助かるんだ。

大男はあなたがやっつけるんだから。だからこれは、違う。

「スペルステス、僕はもう、動けない……」

ユーグレラが、スペルステスの望みとはまるで正反対の事を言う。

抗議しようとしてふと、何も言えなくなってしまった。

青ざめた端正な顔。しなやかな肉体には鮮血がしたたりおち、右腕と左の脇腹がひどくえぐれている。

「……う………うう……」

スペルステスは、身を切り裂かれそうな悲しみと、怒りにも似たものを感じた。

どうして、こんなになっていたのに、僕をかばったのですか。

どうして、こんなにひどいけがをしているのに、僕を見捨てなかったのですか。


そうだ、僕を見捨てていれば。

あなたは、助かったんだ。
 
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