一章
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スペルステスは、ただ叫び続けることしかできなかった。
「ユーグレラ様! 逃げてください! 僕なんかほうっておいて、逃げてください!」
抱き抱えられながら身をよじる。
両手がふさがっているこの状態で背を向けては危ないはずなのに、ユーグレラはスペルステスを放そうとはしなかった。
それがあまりにもふがいなくて、悔しかった。
五歳のスペルステスは、頭の片隅でおかしいと思っていた。
これは、昔よく見た悪夢なのだ。
緑色に染め上げられた光が充満する森の中。斧を持った大男が、自分を追いかけまわす。そういう夢。
そして最後はいつも、ユーグレラが助けてくれる。そういう夢だった。
けれど、今回はなぜか違うのだ。
違う。違う。スペルステスは叫ぶ。違う。これは、違う。
大男は、こんなにしつこく追いかけまわしてはこなかった。
ユーグレラは、こんなに傷だらけにはなっていなかった。
彼はいつも、さっそうと助けてくれたのに。
大男から逃げ惑うスペルステスを背にかばい、果敢に立ち向かって退治する。
いつも、そうやって夢は終わるはずなのだ。
けれどどうして、今回は、こんな悪夢を見させられているのだろう。
「ユーグレラ様……」
スペルステスは、ユーグレラを仰ぎ見た。
憂いと甘さが溶け合った美貌は血で薄汚れ、あちこちに負った裂傷や切り傷のせいで、苦悶の表情を浮かべている。
息は荒く、先ほどから足取りも頼りなかった。
それでも、ユーグレラはスペルステスを見放そうとはしない。
ユーグレラはさっと後ろを窺うと、右へ方向転換し、木の陰に飛び込んだ。
そのまま息をひそめ、大男が遠くへ行ってしまうまでやりすごすと、ぐったりと背を幹にあずける。
そして、泣きそうになっているスペルステスの頭をなでると、静かに言った。
「スペルステス、早く逃げるんだ」
「いや……いやです!」
ほとんど半狂乱になって叫ぶ。
違う。これは違うから。あなたも僕も助かるんだ。
大男はあなたがやっつけるんだから。だからこれは、違う。
「スペルステス、僕はもう、動けない……」
ユーグレラが、スペルステスの望みとはまるで正反対の事を言う。
抗議しようとしてふと、何も言えなくなってしまった。
青ざめた端正な顔。しなやかな肉体には鮮血がしたたりおち、右腕と左の脇腹がひどくえぐれている。
「……う………うう……」
スペルステスは、身を切り裂かれそうな悲しみと、怒りにも似たものを感じた。
どうして、こんなになっていたのに、僕をかばったのですか。
どうして、こんなにひどいけがをしているのに、僕を見捨てなかったのですか。
そうだ、僕を見捨てていれば。
あなたは、助かったんだ。