序章
その、ほんのしばらく前のこと。
静謐な冬の気配のなかに、大木の前に佇んでいた彼は、不吉なにおいを感じ取った。
「……これは……!」
予感を運んでくる風にまぎれる、かすかな血のにおい。
夏の青空のごとき、抜けるような青色を髪と瞳に宿すクルーヤは、一瞬その身をこわばらせた。
ともすれば震えだしそうになるその体を、なんとかなだめる。
「………ばかやろ。これくらいで、怖がるんじゃねえよ」
小声でわが身を叱咤し、クルーヤは迷いを振り払うようにきっと顔をあげる。
と、流血を感じた方向から、こぶし大の丸くて黒いものがいきおいよくごろごろと転がってきた。
積雪の上に細長い轍をつけてやってきたそれは、この島ならどこでもお目にかかれる、トム・ティトンという生き物だ。
そう、だから、黒い石ころのようなトム・ティトンが転がっている姿など、別段珍しくもないのだった。
問題は、転がってくる、その速さだった。
「あ、れ……?」
まっすぐ自分へと向かってくるトム・ティトンは、減速する様子などまるで見せない。
時折勢いよく空中にはねて、また積雪した地面へと着地し、なめらかに迅速に転がってくるが、どう考えても、このままでは自分と正面衝突する。
しかし、よけてしまっては、後ろの木に激突してしまうだろう。
クルーヤは危険を感じながらも、大声で注意を促そうとして、
「おい、ちょっと待てよ………うわっ!! こら、と、止まれ!! 止まれってばっ!! うわあっ!!!」
仲良く、顔面衝突したのだった。
「……どこのトム・ティトンか知らないが、自分で止まれないなら、もっと気をつけて進め」
仰向けに倒れて雪まみれになったクルーヤは、鼻を押さえて恨みがましく言う。
しかし、当のトム・ティトンはクルーヤの忠告などひとつも聞かず、細い手足をばたばたさせて喚き散らすばかりだった。
びーびーと、あまりにも耳障りな声で泣くので、クルーヤは腹いせに、その小さな体を思いっきり横に引きのばしてやろうかとまで思った。
「助けて……お願い!! スペルステスを助けて!!」
が、救助を求める声に、はっと我にかえる。
そうだ、こいつはきっと、先ほど感じた血のにおいの理由を知っているのかもしれない。
「おい、何があったんだ? 誰か怪我してるのか!?」