愛を乞うひと

「万里のバカちん!」
小学校低学年並みの捨て台詞を残して去った幼馴染を追いかける気力もなく、俺は玄関にごろりと仰向けになった。
馬鹿は平だ。俺が俺の身体を使ってやったことなのに、自分が傷ついたような顔をして。
ポケットに裸のまま入っていたチョコレート菓子を口に含む。歯で噛み締めると甘い香りが広がった。

『好きな子いるくせに』

夜子を思い出す時、まず最初に匂いが出てくる。甘い、果実みたいな香り。それから吸い付くみたいな肌の感触と、しなやかな髪の手触り。アンニュイな話し方とアルト。自慰する時はここから喘ぎ声とか胸の感触だとか前戯の時の反応なんかにシフトするんだけど、どんな時も顔が出てくるのは最後の方だ。
でも今日、最初に思い浮かんだのは、キスする寸前に見える、震える睫毛と唇の感触だった。

聖北の女を追い払うために、最も暴力的で手っ取り早い方法を使ってしまった。
正直もっと気持ちいいと思ってた。キスなんて、気持ちが伴わなければ、ただの皮膚接触だ。そもそも俺はキスという行為自体が好きだし(いつも求め過ぎて夜子に怒られるくらい)、今までしてきたいろんな女の子たちとのキスも、もれなく気持ちよかった。
でも今日のはだめだ。鳥肌が立つほど気持ち悪かった。触れるだけの簡単なキスだったのに、派手なコロンの匂いがまだ残ってるみたいだ。

夜子に会いたい。

俺は起き上がって玄関を飛び出すと、制服のまま自転車を駆った。
夜子の家に行く時、俺は必ず夜子にLINEする。俺と夜子の間で合意が取れると、今度は夜子が必ず叔父ズ保護者に俺を家に上げることを報告する(許可制ではないのであくまで報告。その権利はすでに獲得している)。それは俺たちの礼儀であり、自然発生したルールだ。そのはずなのに、スマホを取り出す心の余裕がないまま、もう俺は彼女の家に到着しようとしている。

自転車を静かに降りて、さて、と俺は逡巡する。電気は点いているから、きっと夜子は在宅しているんだろう。ゴルフがないから、七瀬さんはいないようだ。清瀬さんかケンジさんがいるだろうか。そもそもこの時点でルール違反だ。やっぱり出直すか、と迷っているところで、万里?と頭上から声が降ってきた。振り仰ぐとルーフバルコニーに夜子の姿があった。
彼女はぱくぱくと何事か口を動かすと、身を翻して部屋の中に戻る。ほどなくして戻ってくるのと同時に、ポケットの中のスマホが振動した。
「…もしもし」
「どうしたの?何かあった?」
「いや、ごめん。ちょっと顔が見たくなっただけ。もう帰るよ」
待って待って!帰らないで!と慌てたように夜子は言って、また姿を消す。スマホからぱたくたと足音やドアを開け閉てする音が聞こえて、門が解錠され、同時に玄関が勢いよく開いた。溢れるみたいに夜子が出てきて、そのまま走って門扉を開ける。道路に降り立った姿は、ふわふわの部屋着(ちょうかわいい)に足元は靴下だけ。
「夜、足…」
俺の台詞を無視して、腕を掴んでグイグイと引っ張る。なすがままに門扉をくぐって、玄関に押し込まれてしまった。
夜子は三和土に上がって、俺はスニーカーのまま玄関先に立って向かい合う。
「はい、どうしました?」
夜子が俺を見上げる。なんでもない、なんてもはや言える空気ではない。そうだよな、今更カッコつけたってしょうがない。要するに俺は夜子に甘えに来たんだ。
「ごめん、さっき別の女の子とキスした」
夜子は面食らった様子で目を見開いた。眉間にしわを寄せて少し考える。それから神妙な顔で口を開いた。
「舌入れた?」
ぶは、と思わず噴き出す。ああ、やっぱり夜子は最高だ。返しが抜群。
「入れてない」
言って、笑いが止まらなくなった。腹が痛くなるほど笑い続けてしまう。肩で息をしながらまだ笑う俺に、夜子は、ちゃんと説明してよぉ、と不満げにした。
「うん。聞いてくれる?すんごい気持ち悪かった」
背中に腕を回して抱きつくと、よしよし、と髪を梳いてくれた。


夜子の体を抱き寄せて、肩に額をつけて、事の顛末をぼそぼそと話す。
その間中、夜子は俺の背中をとんとんと優しく叩いてくれた。
「暴力に暴力で返してどうするの。馬鹿万里」
ため息をつきながら、心底呆れたように言う。
「だってなんか腹立って…」
「それで自分が一番傷ついてるんだから世話ないね」
そうか、俺は傷ついたのか。好きでもない女の子とキスして、自尊心が傷ついた。なんだか踏みにじられたような気持ちになった。
「こんなことで傷つくと思わなかったな…」
「当たり前でしょ。あなたは私が好きなんだから」
何を今更、と言わんばかりだ。うん、そうだね、と俺は呟いた。顔を上げると、夜子はにっこりと笑ってくれた。
「A組の不登校の子、久我城君がいじめてるんだね。なんかまだ信じられない。人は見かけによ寄らないなんて、痛いほどわかってるつもりなのに、私もまだまだだな…」
「夜子、久我城のこと知ってるの?」
ん?と夜子は一瞬、曖昧な態度をとった。それから、2年の時同じクラスだったからね、となんでもないような調子で言う。
「そんなことより、天野君と仲直りしてね」
はい、と俺は素直に頷く。いい子ね、と夜子はまた俺の頭を撫でた。
「上がってく?」
俺は首を振った。
「アポなしで来ただけでもルール違反だから。今日は帰るよ」
そういうとこ好き、と夜子は言って、俺の顔を両手で包むと背伸びをした。かぷ、と唇に食いつかれる。薄い舌が歯の裏を丁寧になぞってくれる。俺の舌をつついて舐めて、一度離れて上唇を食む。
「はい、これでチャラ」
こういうところ、すごく好き。俺は夜子の身体を一瞬だけきつく抱きしめて、また離れた。
「ありがとう夜子。愛してる」
「どういたしまして」

夜子は俺を強くしてくれる、唯一無二の恋人だ。
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