書を捨て、コートへ出よう

歓声を背中に、少し後ろ髪を引かれる思いで渡り廊下を歩く。私のせいではないんだけど、試合の流れを止めてしまったようで申し訳なかったな。
喉の奥に少し血の味がする。私は不快なそれを唾で飲み下した。角を曲がればすぐに保健室だ。少し休んだらまた試合を見に戻りたいな、なんてぼんやり考えていると、久々留があのさ、と言った。少し重たい声。私は不思議に思って、歩きながら隣の彼女の顔を見る。彼女はピタリと立ち止まった。2、3歩先に進んでしまって、私は慌てて足を巻き戻す。
「久々留、どうしたの?」
「夜子、好きな人いるって言ってたよね?」
唐突な話題に少し怯んでしまった。久々留は少し悲しそうな瞳で私を見つめている。
「…うん」
「誰だか教えてくれる?」
「どうしたの?急に…」
久々留はますます悲しそうにする。胸がぎゅっとなるような表情。
「あたしってさ、夜子の友達だよね?」
「うん」
「あたし、夜子大好き。だから、信用して欲しいんだ…」
「信用してるよ。私も久々留のこと、好きだよ。大事な友達だと思ってる」
「日下君と付き合ってる?」
え、と言ったまましばらく二の句が継げなくなってしまう。久々留は今度は決意したような目をする。まっすぐに私を見つめてくる。わぁぁ、と遠くで歓声が聞こえた。

『この子は夜子が好きなんだよ。そういう子にここで嘘をつくのは違うよ』

いつかの万里の台詞が蘇った。そうだ、ここで間違えたらいけない。
「…うん。黙っててごめん」
そか、と久々留は言って、深いため息をついた。そして改めてにやぁっといやらしく笑う。
「やっぱりそうだよね!ずっと前から日下君は夜子のこと好きなんだろうなー、って思ってたんだけどぉ」
さ、続きは保健室でねっ、と言って私の腕を引っ張って再び歩き出す。早足で歩いて角を曲がって、ちわっす怪我人でーす鼻血でーす!と元気よく保健室の引き戸を開ける。
保健医は他の生徒の処置で忙しそうにしていた。中断して私の手からタオルを取り去ると、顔を持ち上げてしげしげと眺める。もう血は止まっていて、鉄臭い匂いが残るだけ。保健医は私の鼻筋を確かめるように上から下になぞって、よし、折れてないな、と万里と同じことを言った。タオル絞って首の後ろを冷やしときなさい、と手短な指示をくれて、さっさと処置に戻ってしまう。
私たちは保健室の隅に椅子をふたつ並べて陣取る。久々留が保健医からタオルを借りて水で絞って持ってきてくれた。指示通り首の後ろに当てた。
すっかり上機嫌の久々留は、周囲に聞こえないように声を潜めた。
「いつから付き合ってるの?」
「3年になる直前くらいです…」
じゃあさ、と言ってにんまり笑う。久々留が猥談を始める時にする顔だ。うわ、何を言わされるんだろ。こわ。
彼女はもっと声を潜めて私に耳打ちした。
「修学旅行の時のキスマークってさぁ…」
ぎゃー、と叫びたかった。そんな話今更持ち出されると思わなかった。私は取り繕う余地もないくらい顔を赤くしてしまう。目を瞑ってひたすら無言で頷いた。
きゃああ、と久々留は頰を両手で抑えて足をばたつかせる。
「いーっぱい付いてたじゃーん!日下君て激しいのね♡」
そんなこと言われても基準が万里しかいないからわからない。勘弁して…と情けない声で懇願してしまう。そっかあ、もう夜子は大人の女なのね…なんて色っぽく言われてますます顔が赤くなってしまう。
「夜子」呼びかけと共に、両肩をばん!と叩かれた。
「今週末、夜子んち行くね♡お泊まり会しよ♡」
ぜーんぶ、洗いざらい、吐いてもらいますから!と宣言されて、私はもう降参する他になかった。
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