書を捨て、コートへ出よう
かた、と控えめな音がしてリビングのドアが開いた。
「ただーいまー…」
照明がワントーン暗いままなので、寝てるか映画を観てると思ったんだろう。七瀬さんは小声で、少し身を屈めながらリビングに入ってくる。
俺は読んでいた本をローテーブルに伏せて、泣き疲れて寝てしまった夜子を抱えたまま首だけ巡らせる。
「お帰りなさい」
俺が言うと、七瀬さんは、おう、と軽く手を上げて応える。そのままソファまで歩いてきて、俺にしがみついたまま寝ている夜子の顔を覗き込んだ。
「…泣いた?」
涙の跡を指で少しなぞった。
「うん、ちょっとお母さんの話してて…」
そか、と言って、七瀬さんはついでのように俺の頭をかき混ぜる。
「ご飯は?今日パスタなんだけど…」
「自分でやるよ、ありがとう」
立ち上がろうとするのを制されたけど、俺は身体に巻きついたままの夜子の腕を外して、慎重にソファに横たえた。ストールで身体を包んでやってから、立ち上がって、うーん、と伸びをした。小一時間ほど同じ体勢でいたから身体がみしみし言う。夜子は一度寝るとなかなか起きないから、もう少しこのままにしておいてやろう。
「すまんなあ、うちのムスメが…」
「いぃえぇ」
俺はそのまま地続きのキッチンまで歩いていって、大鍋に湯を沸かす。サラダを盛り付けていると、七瀬さんが戸棚からワイングラスを取り出した。フライパンを覗き込む。
「おー、ペスカトーレ。ちょっと飲んでもいいすかね?」
ワインセラー(5本も入らないような小さいやつがキッチンの隅にある)から赤ワインを取り出して示す。俺にもー、と言うと、未成年はジュースでも飲んどけ阿呆、と小突かれた。
パスタが茹る間、ダイニングテーブルに向かい合って座って、少し世間話なんかする。七瀬さんは俺にグレープジュースのソーダ割りと、ブルーチーズを振舞ってくれた。気分だけ家飲み。
出来上がったペスカトーレを褒めながら、七瀬さんは美味しそうに食べてくれる。ここんちは愛を伝えあうことに手抜かりがない。日々ローテーションで食事を作っていて、得意分野の違いは多少あれど、みんな料理上手だ。そして振舞われた方は必ず料理を褒める。そういう雰囲気がすごく好きだ。
「遅くならないうちに帰れよ。マリエさんは?」
「今日は12時前には帰ってくるみたいだから、それまでには帰るよ。夜子が起きるまで待ってるって約束したから」
時計はまだ9時前だ。多分夜子はあと1時間も寝ないだろう。再び七瀬さんが、うちのムスメがすまんなぁ、と言う。俺も再び、いぃえぇ、と返事した。密やかに笑い合う。
「…週刊誌に記事が出た頃って、酷かった?」
「なんだよ急に」
唐突な話題に七瀬さんが少々驚いた表情を作る。
「最近ちょっと学校でその噂、リバイバルしちゃってね…夜子しんどかったんだ」
それで最近元気なかったのか、と七瀬さんはソファの方を見た。
「ごめん、その噂流したの、俺のこと好きだって子で…」
「ファンクラブあるんだよな、万里」
俺は恐縮してしまう。俺が始めたことではなくとも、放置した責任はある。
「俺のせいで夜子が傷ついたんだ。本当にすいませんでした」
頭を下げると、うわーやめろやめろ!と七瀬さんが慌てる。
「別にお前のせいじゃねぇだろ。大体そういうのは我が家においては定期的にあるんだよ。夜子が生まれた時だろ、砂胡さんと瀬名が死んだ時だろ、週刊誌騒動から派生して我が家の家族構成もギャーギャー言われたし、それらが周期的にリバイバルする。もうしょうがねえよ」
「うん…」
「チームで戦うしかねぇの。でも正直お前がいてくれて助かってるよ。夜子も、俺たちも。もううちの戦力なんだから頑張ってよ」
ありがとう、と言われて、ちょっとグッときてしまった。柄にもなく泣いてしまいそうだ。
「夜子はよっぽどお前のことが好きなんだと思うよ。砂胡さんの話、自分からするなんて」
あんまりしたがらないからなあ、と言って七瀬さんはワイングラスを傾ける。
以前、夜子は「みんな気を使って両親の話題を避ける」と言っていた。多分お互いにどう扱っていいのかわからなくて避けてしまうんだろう。喪った人の存在が大きすぎる、特にこの家では。
「太陽みたいな人だったって」
「…そうだなあ。変な女だったよ。猫拾ったり、犬拾ったり、トカゲ拾ったり」
七瀬さんは思い出し笑いをしながら言った。
「トカゲ?」
「そう。『それは拾ったんじゃなくて捕まえたんじゃないのか』って言ったんだけど、『自転車に轢かれそうになって、慌てて私の身体をよじ登ってきたから“拾った”』ってな」
「飼ってたの?」
「そう。犬とか猫はさ、もうよれよれの拾ってきて、どっちも3年くらいしかいなかったかな。動物なんてさあ、みんな可愛がっちゃうじゃん。清瀬がペットロスでじめじめすんのよ。トカゲは夜子が小学校卒業するくらいまで生きてたよ」
「この家そんなに動物いたんだ…」
「夜子めちゃくちゃ可愛がってたんだよ。中学の入学式の直前に死んじゃって、もうすんごい落ち込んでさあ。だから入学式の写真すごい顔が暗いの。『しっぽ』って名前で…つけたのは砂胡さんだったんだけどね。『しっぽが可愛いから』」
俺が笑うと、七瀬さんは懐かしそうに目を細めた。
「何かを可愛がったり愛したりするのがすごく上手い人だったよ。我が家の『何でも言葉にして伝える』っていうのは、砂胡さんのポリシーなんだ。それを守ることで俺たちはずっと救われてる」
「…夜子、似てるよね?容姿だけじゃなくて」
七瀬さんは虚をつかれたような顔をした。少しの間空を見つめて、それから、ああ、と息を吐いた。
「そうだな、本来はそっくりなんだ。色々あってひねたからなぁ…。よくわかってるな万里は。砂胡さんはもっとテンション高かったけどな」
「テンション高い夜子?」
「そうそう」
ちょっと想像できない。俺は思わず笑った。
「…お前といるようになったからだな、夜子の中の砂胡さんが戻ってきたのは…やーもう、ほんと…」
七瀬さんは長いため息をついて、椅子の背もたれに深く身を預けた。からのワイングラスをくるりと回す。
ほんとにありがとう、と七瀬さんの口から小さく声が溢れて、俺はマジで泣きそうになってしまったのだった。
「ただーいまー…」
照明がワントーン暗いままなので、寝てるか映画を観てると思ったんだろう。七瀬さんは小声で、少し身を屈めながらリビングに入ってくる。
俺は読んでいた本をローテーブルに伏せて、泣き疲れて寝てしまった夜子を抱えたまま首だけ巡らせる。
「お帰りなさい」
俺が言うと、七瀬さんは、おう、と軽く手を上げて応える。そのままソファまで歩いてきて、俺にしがみついたまま寝ている夜子の顔を覗き込んだ。
「…泣いた?」
涙の跡を指で少しなぞった。
「うん、ちょっとお母さんの話してて…」
そか、と言って、七瀬さんはついでのように俺の頭をかき混ぜる。
「ご飯は?今日パスタなんだけど…」
「自分でやるよ、ありがとう」
立ち上がろうとするのを制されたけど、俺は身体に巻きついたままの夜子の腕を外して、慎重にソファに横たえた。ストールで身体を包んでやってから、立ち上がって、うーん、と伸びをした。小一時間ほど同じ体勢でいたから身体がみしみし言う。夜子は一度寝るとなかなか起きないから、もう少しこのままにしておいてやろう。
「すまんなあ、うちのムスメが…」
「いぃえぇ」
俺はそのまま地続きのキッチンまで歩いていって、大鍋に湯を沸かす。サラダを盛り付けていると、七瀬さんが戸棚からワイングラスを取り出した。フライパンを覗き込む。
「おー、ペスカトーレ。ちょっと飲んでもいいすかね?」
ワインセラー(5本も入らないような小さいやつがキッチンの隅にある)から赤ワインを取り出して示す。俺にもー、と言うと、未成年はジュースでも飲んどけ阿呆、と小突かれた。
パスタが茹る間、ダイニングテーブルに向かい合って座って、少し世間話なんかする。七瀬さんは俺にグレープジュースのソーダ割りと、ブルーチーズを振舞ってくれた。気分だけ家飲み。
出来上がったペスカトーレを褒めながら、七瀬さんは美味しそうに食べてくれる。ここんちは愛を伝えあうことに手抜かりがない。日々ローテーションで食事を作っていて、得意分野の違いは多少あれど、みんな料理上手だ。そして振舞われた方は必ず料理を褒める。そういう雰囲気がすごく好きだ。
「遅くならないうちに帰れよ。マリエさんは?」
「今日は12時前には帰ってくるみたいだから、それまでには帰るよ。夜子が起きるまで待ってるって約束したから」
時計はまだ9時前だ。多分夜子はあと1時間も寝ないだろう。再び七瀬さんが、うちのムスメがすまんなぁ、と言う。俺も再び、いぃえぇ、と返事した。密やかに笑い合う。
「…週刊誌に記事が出た頃って、酷かった?」
「なんだよ急に」
唐突な話題に七瀬さんが少々驚いた表情を作る。
「最近ちょっと学校でその噂、リバイバルしちゃってね…夜子しんどかったんだ」
それで最近元気なかったのか、と七瀬さんはソファの方を見た。
「ごめん、その噂流したの、俺のこと好きだって子で…」
「ファンクラブあるんだよな、万里」
俺は恐縮してしまう。俺が始めたことではなくとも、放置した責任はある。
「俺のせいで夜子が傷ついたんだ。本当にすいませんでした」
頭を下げると、うわーやめろやめろ!と七瀬さんが慌てる。
「別にお前のせいじゃねぇだろ。大体そういうのは我が家においては定期的にあるんだよ。夜子が生まれた時だろ、砂胡さんと瀬名が死んだ時だろ、週刊誌騒動から派生して我が家の家族構成もギャーギャー言われたし、それらが周期的にリバイバルする。もうしょうがねえよ」
「うん…」
「チームで戦うしかねぇの。でも正直お前がいてくれて助かってるよ。夜子も、俺たちも。もううちの戦力なんだから頑張ってよ」
ありがとう、と言われて、ちょっとグッときてしまった。柄にもなく泣いてしまいそうだ。
「夜子はよっぽどお前のことが好きなんだと思うよ。砂胡さんの話、自分からするなんて」
あんまりしたがらないからなあ、と言って七瀬さんはワイングラスを傾ける。
以前、夜子は「みんな気を使って両親の話題を避ける」と言っていた。多分お互いにどう扱っていいのかわからなくて避けてしまうんだろう。喪った人の存在が大きすぎる、特にこの家では。
「太陽みたいな人だったって」
「…そうだなあ。変な女だったよ。猫拾ったり、犬拾ったり、トカゲ拾ったり」
七瀬さんは思い出し笑いをしながら言った。
「トカゲ?」
「そう。『それは拾ったんじゃなくて捕まえたんじゃないのか』って言ったんだけど、『自転車に轢かれそうになって、慌てて私の身体をよじ登ってきたから“拾った”』ってな」
「飼ってたの?」
「そう。犬とか猫はさ、もうよれよれの拾ってきて、どっちも3年くらいしかいなかったかな。動物なんてさあ、みんな可愛がっちゃうじゃん。清瀬がペットロスでじめじめすんのよ。トカゲは夜子が小学校卒業するくらいまで生きてたよ」
「この家そんなに動物いたんだ…」
「夜子めちゃくちゃ可愛がってたんだよ。中学の入学式の直前に死んじゃって、もうすんごい落ち込んでさあ。だから入学式の写真すごい顔が暗いの。『しっぽ』って名前で…つけたのは砂胡さんだったんだけどね。『しっぽが可愛いから』」
俺が笑うと、七瀬さんは懐かしそうに目を細めた。
「何かを可愛がったり愛したりするのがすごく上手い人だったよ。我が家の『何でも言葉にして伝える』っていうのは、砂胡さんのポリシーなんだ。それを守ることで俺たちはずっと救われてる」
「…夜子、似てるよね?容姿だけじゃなくて」
七瀬さんは虚をつかれたような顔をした。少しの間空を見つめて、それから、ああ、と息を吐いた。
「そうだな、本来はそっくりなんだ。色々あってひねたからなぁ…。よくわかってるな万里は。砂胡さんはもっとテンション高かったけどな」
「テンション高い夜子?」
「そうそう」
ちょっと想像できない。俺は思わず笑った。
「…お前といるようになったからだな、夜子の中の砂胡さんが戻ってきたのは…やーもう、ほんと…」
七瀬さんは長いため息をついて、椅子の背もたれに深く身を預けた。からのワイングラスをくるりと回す。
ほんとにありがとう、と七瀬さんの口から小さく声が溢れて、俺はマジで泣きそうになってしまったのだった。