書を捨て、コートへ出よう

あの子ーぉのことーぉは好きーぃだけっどー
あの子ーぉの彼ーぇは嫌ーぁいなのー
あの子ーぉはそーのこっとに気づいてなーい
彼のぉーこーとーしっか見ってないからーねぇー

不機嫌な歌詞を調子よく歌いながら、万里は私の目の前にココアの入ったマグカップを置いた。ハーシーのココアをちゃんと練って作ったやつに、はちみつを少しだけ。万里のこういうところ、本当にマメだと思う。
私はお礼を言ってからカップを口元まで持ってくる。表面の湯気を飛ばすように吹いて、慎重に唇をつける。とろりと香ばしいそれは、ゆっくりと胃に落ちていった。
万里は私の身体にストールを巻きつけると、ソファの隣に腰を下ろして、肩を抱いた。大丈夫?と顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、ありがとう」
生理2日目なのだ。今日は学校でも1日使い物にならなかった。万里は大概私に甘いけど、生理の時はそれはもう極甘で、必ずうちに来て料理から後片付けから明日の朝食の準備まで甲斐甲斐しく全てやってくれる。おまけに最近はこのしちめんどくさいココア作りにはまっている様子。
「いい彼氏でしょ?」得意げな顔。
「それはもう。…蘭子ちゃんもその辺わかってくれてると思うよ?」
「どうだかねぇぇ」
不満そうに言って、自分もココアの入ったマグを傾ける。
例の一件以来、蘭子ちゃんは万里に対して遠慮がなくなった。憚ることなく『チャラ男先輩』と呼び、部室に万里が来るたびにひとしきり掛け合い漫才みたいなやりとりをしている。
「小此木さんと俺は夜子を取り合うライバルだからね」
負けらんないのよ、となぜか握りこぶしだ。側から見たらただの仲良しにしか見えないけど。

あの日、万里と飯田さんの間にどんな会話があったのかは知らない。万里も「もう大丈夫だよ」と言っただけで、今日まで確かにファンクラブに絡まれることもなく、あの噂にちなんだ何かが起こるわけでもなく、平穏な日々が続いている。蘭子ちゃんは後日橋本さんから謝罪を受けたと言っていた。どんな魔法を使ったんだろう。でも私はなんとなくそのことについて万里に言及できていない。噂に触れるのが嫌だからだ。小さなプライドだとは思うけど、どうしていいのか、正直自分自身でもわからないのだ。
「明後日球技大会大丈夫?」
「うん、今日がピークだから…万里、バレー?」
「そう。現役は部活の競技出られないからさ。夜は結局何になったの?」
「バスケ」
ソフトボールは「休憩が多い」という、男子とは違うベクトルで激戦だったのでフィールドに上がる気力が湧かず、緑のしごきが怖かったのでバレーは断念、自動的に残りのバスケに出ることになった。バスケなんて授業でやっただけだけど、そもそも球技は割と得意な方。よく万里がうちでNBAチャンネルを観ているので、目だけは肥えている。なんとかなるだろ。
「教えてあげようか?手取り足取り♡」
ジャージでイチャイチャするのもいいよねえ、なんて言いながら万里は私の膝を撫でる。結構です、とその手を払いのけてやった。
万里はちょっと笑って、抱き寄せたままの手で私の髪を梳きながら、機嫌よくココアを飲んでいる。なんとなくたまらない気持ちになって、私は彼の身体に腕を回して抱きついた。
「…どしたの」
なんでもない、と言ってその胸に顔を埋めた。くす、と万里は笑って、私の頰をつついて顔を上げさせる。
唇と舌。ココアのせいで少し苦い。歯、吐息。身体はだるいのに求めたくなってしまう。離れそうになる顔を両手で引き止めて少し激しく舌を絡めた。
「こら、今日はしないよ。そんなに誘わないで」
唇を離して、万里が困ったように笑った。頭をよしよしと撫でられ、もう一度肩を抱き直して顔を覗き込まれる。綺麗な親指が私の頰をそっと撫でた。
「どした?なんか不安?」
生理の時は少し情緒不安定になる。万里はそれをよく知っていて、いつもなだめるようにずっと私の身体を触っていてくれる。私は黙って首を振って、また抱きついた。
「…俺が噂、信じると思った?」
顔を上げると、ぎゅっと鼻をつままれる。
「見損なうなよな、一緒にいるようになってもう1年半以上経ってんだよ?あんな噂出鱈目だってすぐわかるよ」
鼻をつまんでいた指はそのまま頰を包む。私は小さく首を振って、その手を触った。骨ばって大きい手。出会った頃ともう全然違う。
「…強くて綺麗な自分になりたかったの。人に悪口言われたくらいでグラグラしてるところ、万里に見られたくなかったから…」
「悪口ってレベルじゃないじゃん。あんな週刊誌にまで書かれて。どんなに強い人間だってあんなの耐えられないよ」
「でも、万里が好きになってくれた私じゃないんじゃないかって…」
あ、なるほど、と万里は初めて合点が言ったように頷いた。そして笑う。
「確かに俺は夜子の強いところとかかっこいいところが好きだよ。でも弱いところがあることだってちゃんと知ってる。もしかして夜子の中の俺ってさ、実際の俺よりヘタレなんじゃないの?」
「え、そう、かな…?」
「絶対そう。俺だってオトコノコよー?好きな女の子守りたいと思ってますよ。全部見せて、甘えて欲しいよ。辛いことは辛いって言って。できれば俺に、1番に」
うん、と私が言うと、彼はおでこにキスをくれた。気持ちがふわりと軽くなる。「万里は綺麗な私が好き」と断じてしまうということは、彼を信用しないということだ。生身の私を好きだと言ってくれる彼を。
彼の中の私が、実際の私と少し違うのと同じように、私の中の彼も、実際の彼とは少し違う。そのフィルタの残酷な働きに流されて見誤ってしまうところだった。
「夜子は十分強くて綺麗だよ。でもちょっと人に夢を見させすぎるところがあるかもしれないね。小此木さんだって、アリスだってそうなんだと思う。みんな夜子に頼って欲しいと思ってるよ。甘えてあげるのもまた愛ですよ」
でも1番は俺ね、絶対ね、と彼は念を押した。ライバルが多すぎる…と真剣な顔で言うので、なんだかおかしくなってしまう。その首に腕を回してよじ登るようにして、どす、と抱きついた。おう、と衝撃に声を漏らしてから、万里も私の身体を優しく抱きしめてくれる。ついでに耳を甘噛みされた。
「…今日はできないからね?」
「わかってます。あのね、そういう我慢もちゃんとできるんだからね?」
大体先に誘ったのはそっちじゃんか…とぶつくさ言う。たまらず私が笑い出すと、彼も笑った。抱き合って、笑いながら触れるだけのキスを繰り返す。暖かいスープが身体中に満ちるみたい。ずっとこうしていたい。ずっとこの人を独り占めしていたい。
「お母さんみたいになりたいの」
「砂胡さん?」
「うん、強くて明るくて優しくて、お父さんヘタレの泣き虫だったから、いっつもお母さんが励ましたり甘やかしたりしてて、太陽みたいだった」
「3兄弟みんなナーバスなのか」
呆れたように万里が言うので、もっと笑えてしまう。
「そうだよー!ケンちゃんいなかったらこの家やばいよ。私だけじゃあのナーバス兄弟どうにもできない」
ぎゃはは、と万里が笑う。
「会ってみたかったな、砂胡さん」
「うん、私も、会いたいな…」
正直に言うと、私を抱きしめたままの万里の腕に力がこもった。
きっと夜子みたいな人だったんだね、と万里が言ってくれて、たまらず泣いてしまった。
彼は私の涙が止まって、そのまま泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと私を抱きしめていてくれたのだった。
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