魔女の領分
9月と言えど、まだ日差しは厳しい。盛夏の頃よりは柔らかいであろう陽の光に照らされて、それでもなおアスファルトに落ちる葉の影は濃い。私はじわりと汗の滲んだ額をハンカチで拭った。ベンチに両手をついて仰け反ると、空を仰いでため息をつく。
「ほれ、お疲れさん」
目の前に350mlのペットボトルが差し出された。おそらく中身が冷たいであろうそれは、外気との温度差で表面に汗をかいている。お礼を言って受け取ると、白いボトルキャップをひねった。ぱきりと音を立てて回転したキャップを取り去って、中身を煽る。透明な緑色の液体がつるりと喉を通り過ぎた。胃に落ちる感覚がわかるほど冷たい。はぁぁ、と私は再びため息をついた。
「だらしねぇなぁ。残暑じゃねぇかよ」
「うるさいな、暑いの苦手なの!」
龍星は呆れたように私を見ている。
「だったら中にいりゃいいじゃんか。エアコン効いてるぞ」
「エアコンの風も苦手なの。長時間いらんない…」
わっがまま!と毒づく龍星の左足を蹴飛ばしてやった。いてぇな!凶暴女!と喚く。
「龍星先帰ってなよ。私ちょっと休んでから帰るから」
「具合悪い女置いて帰るほど鬼じゃねぇんだよ、俺は。別にこの後予定あるわけじゃないから。送ってってやるよ」
「いいって。大丈夫」
「大丈夫な顔じゃねぇだろ。人の好意は受けとけよ。俺だって仲間の心配くらいすんの!」
そう言って、本当に心配そうな顔をする。
「なんか…急に大人になったわねあんた…」
私は思わず感心してしまう。ついこの間までガキ臭い絡み方ばっかりしてきたくせに。
「…もうお前に虚勢張る必要もねぇからな。ワンランク上の男になった?」
唇の端をあげてわざとらしく髪をかきあげる。おどけた仕草に私は笑った。こいつの隣でこんなに自然な気持ちでいられる日が来るとは思わなかったな。
「その、『仲間』って、いいね」
「『ライバル』のがいいんじゃね?」
「残念でした。私の足元にも及ばないね」
舌を出してやると、可愛くねぇ、と舌打ちをされた。
ボランティア演奏はひとまず成功。全年齢向けに聴きやすい曲ばかりを用意したのが功を奏して、オーディエンスは増える一方だった。吹き抜けのあるエントランスが会場だったけど、あれよあれよという間に用意していたパイプ椅子は埋まってしまい、上の階まで人が鈴なりだった。
龍星はやっぱり素人でも人に聴いてもらえるのは楽しかったようで、調子に乗ってアドリブを飛ばしたり、最後にはリクエストも受け付けたりした。普段からは想像もできないほど奔放に弾いてくれて、合わせる私が結構大変だったけど、楽しかったのはこちらも同じなので、よしとする。
しかし私の方は病院特有の効きすぎる空調にあてられてしまい、この有様だ。しかも外気は外気でじっとりと暑くて鬱陶しい。お陰でバテて動けなくなっていると言うわけ。情けない。
「叔父さん呼ぶか?」
「みんな今日は仕事で遅いんだよね…」
「彼氏は?」
「うーん、今日ちょっと怪我してて…入院するって言ってたから…」
「は?何それ、大丈夫かよ…」
眉をひそめる龍星に、私は曖昧な笑みを返した。
万里は今日、階段から落ちて肋骨と足を骨折した「ということにして」入院した。実際には捻挫と脳震盪と切創(これはまた別件)なんだけど、曰く「俺をこんな目に合わせてくだすった犯人をおびき寄せるための罠」だそうだ。あちらもごちゃついているようなので、あまり心配かけたくない。無駄に連絡なんかしたら計画なんてうっちゃって飛んできてしまいそうだし。
明日まで待てば多分解決するということなので、私もこうして放課後予定通りボランティア演奏に来たわけだ。
「タクシー呼んで帰るか…お前んち方南町だよな?」
「うん…ありがとう。でもだいぶよくなったから歩いて駅まで行けそう」
「ほんとかよ、無理すんな…」
「あっ、さっきの」
背後から声をかけられた。不意打ちに、口を「よ」の形にしたまま龍星の表情が止まる。私たちが振り返ると、そこには入院着の少年が立っていた。
背丈は私より頭半分大きいくらい。痩せた体躯。短い髪の毛が無造作にツンツンしていて、気が強い印象。でも目は大きくて色が白くて、可愛らしい顔立ちだ。
「ピアノの」
「あ、はい」
にこにこしながら両手でピアノを弾く真似をする。私は反射的に返事をしてから、龍星と顔を見合わせた。
「そっちはバイオリンの兄ちゃんか。あんたら面白かったよ」
「ありがとう」
褒められた。嬉しい。私が笑顔を作ってお礼を言うと、龍星も「…っす」と頭を下げた。
「いくつ?中学生?」
「はい。3年生です。こっちは高1」龍星を指差す。
同い年かー、と彼は呟いた。どっちと同い年だろう。一瞬考えていると、入院着の彼は私に顔を近づけた。
「さっきも思ってたけど、あんたかっわいいねー。近くで見るとますますイイね」
大きな目を瞬かせて言う。私は彼から身体を離すべく、一歩後ずさる。容姿の話をされるのはあまり好きじゃない。こういう話し方をする奴は大概…。
「ね、あんた俺と付き合わない?」
ほらね。
「嫌です」毛が逆立ってしまう(イメージ)。
「即答かよ」
「やめとけ。そいつ男いるよ」
龍星が私をかばうように口を挟んだ。入院着くんのあまりに軽いノリに、若干呆れたような声音。
入院着くんは龍星の方を見た。彼らはだいたい同じような身長。特に攻撃的でも友好的でもない、ごく普通のテンションで視線を合わせる。
「男ってお前?」
「ちげーよ」
「じゃイイじゃん。俺は彼女に聞いてんの♪」
にっこり笑って、また私に近づく。
「だから、お断りします」
「えーなんで?」
「初対面の人とそんな風になれるわけないでしょ」
「そんなのわかんないじゃん。付き合ってみてわかることもあるかもよ?」
「私はそういう人間じゃないの」
「えー、なんだよお堅いなぁ。どうしても?」
「どうしても」
「じゃ、1回だけ♪」
何をだよ。私が舌打ちをすると、龍星が少し怯えたような表情を見せた。なんであんたがビビるんだよ!
「さっきこの人が言ったでしょ!付き合ってる人がいるの!」
「なーんだ、つまんね」
怒鳴りつけても、入院着くんはどこ吹く風だ。私はイライラとペットボトルの蓋を締めて、バッグに突っ込んだ。龍星の腕を掴む。
「龍星、帰ろ」
話すだけ無駄だ。人をキーホルダーみたいに扱いやがって。私は龍星を引きずるようにして歩き出した。龍星はヨレヨレと足をもつれさせる。
まーたねー、と呑気な声が背後からかけられて、不快に拍車がかかった。なんだよあいつは!失礼な!
「お前もう大丈夫なのかよ…」
龍星が情けない声を出した。掴んでいた腕を放してやると、爪が食い込んでいてぇよ…どら猫め…と悪態をついた。
「おかげさまで吹っ飛んだ。帰ろ。気分悪っ」
思い出すだけで腹が立つ。久しぶりにあからさまにモノ扱いされた。顔だけでよくあんなことが言えるな。鞄にでもぶら下げるつもりかよ!
早足で歩く私の横に龍星が並んだ。
「こえぇなぁお前…知ってたけど…彼氏結構苦労してんじゃねぇのぉ?」
機嫌の悪い私によくそんな言葉がかけられるな。容赦無く蹴飛ばしてやった。
ああ、万里に会いたい。
私は特大のため息をついた。
「ほれ、お疲れさん」
目の前に350mlのペットボトルが差し出された。おそらく中身が冷たいであろうそれは、外気との温度差で表面に汗をかいている。お礼を言って受け取ると、白いボトルキャップをひねった。ぱきりと音を立てて回転したキャップを取り去って、中身を煽る。透明な緑色の液体がつるりと喉を通り過ぎた。胃に落ちる感覚がわかるほど冷たい。はぁぁ、と私は再びため息をついた。
「だらしねぇなぁ。残暑じゃねぇかよ」
「うるさいな、暑いの苦手なの!」
龍星は呆れたように私を見ている。
「だったら中にいりゃいいじゃんか。エアコン効いてるぞ」
「エアコンの風も苦手なの。長時間いらんない…」
わっがまま!と毒づく龍星の左足を蹴飛ばしてやった。いてぇな!凶暴女!と喚く。
「龍星先帰ってなよ。私ちょっと休んでから帰るから」
「具合悪い女置いて帰るほど鬼じゃねぇんだよ、俺は。別にこの後予定あるわけじゃないから。送ってってやるよ」
「いいって。大丈夫」
「大丈夫な顔じゃねぇだろ。人の好意は受けとけよ。俺だって仲間の心配くらいすんの!」
そう言って、本当に心配そうな顔をする。
「なんか…急に大人になったわねあんた…」
私は思わず感心してしまう。ついこの間までガキ臭い絡み方ばっかりしてきたくせに。
「…もうお前に虚勢張る必要もねぇからな。ワンランク上の男になった?」
唇の端をあげてわざとらしく髪をかきあげる。おどけた仕草に私は笑った。こいつの隣でこんなに自然な気持ちでいられる日が来るとは思わなかったな。
「その、『仲間』って、いいね」
「『ライバル』のがいいんじゃね?」
「残念でした。私の足元にも及ばないね」
舌を出してやると、可愛くねぇ、と舌打ちをされた。
ボランティア演奏はひとまず成功。全年齢向けに聴きやすい曲ばかりを用意したのが功を奏して、オーディエンスは増える一方だった。吹き抜けのあるエントランスが会場だったけど、あれよあれよという間に用意していたパイプ椅子は埋まってしまい、上の階まで人が鈴なりだった。
龍星はやっぱり素人でも人に聴いてもらえるのは楽しかったようで、調子に乗ってアドリブを飛ばしたり、最後にはリクエストも受け付けたりした。普段からは想像もできないほど奔放に弾いてくれて、合わせる私が結構大変だったけど、楽しかったのはこちらも同じなので、よしとする。
しかし私の方は病院特有の効きすぎる空調にあてられてしまい、この有様だ。しかも外気は外気でじっとりと暑くて鬱陶しい。お陰でバテて動けなくなっていると言うわけ。情けない。
「叔父さん呼ぶか?」
「みんな今日は仕事で遅いんだよね…」
「彼氏は?」
「うーん、今日ちょっと怪我してて…入院するって言ってたから…」
「は?何それ、大丈夫かよ…」
眉をひそめる龍星に、私は曖昧な笑みを返した。
万里は今日、階段から落ちて肋骨と足を骨折した「ということにして」入院した。実際には捻挫と脳震盪と切創(これはまた別件)なんだけど、曰く「俺をこんな目に合わせてくだすった犯人をおびき寄せるための罠」だそうだ。あちらもごちゃついているようなので、あまり心配かけたくない。無駄に連絡なんかしたら計画なんてうっちゃって飛んできてしまいそうだし。
明日まで待てば多分解決するということなので、私もこうして放課後予定通りボランティア演奏に来たわけだ。
「タクシー呼んで帰るか…お前んち方南町だよな?」
「うん…ありがとう。でもだいぶよくなったから歩いて駅まで行けそう」
「ほんとかよ、無理すんな…」
「あっ、さっきの」
背後から声をかけられた。不意打ちに、口を「よ」の形にしたまま龍星の表情が止まる。私たちが振り返ると、そこには入院着の少年が立っていた。
背丈は私より頭半分大きいくらい。痩せた体躯。短い髪の毛が無造作にツンツンしていて、気が強い印象。でも目は大きくて色が白くて、可愛らしい顔立ちだ。
「ピアノの」
「あ、はい」
にこにこしながら両手でピアノを弾く真似をする。私は反射的に返事をしてから、龍星と顔を見合わせた。
「そっちはバイオリンの兄ちゃんか。あんたら面白かったよ」
「ありがとう」
褒められた。嬉しい。私が笑顔を作ってお礼を言うと、龍星も「…っす」と頭を下げた。
「いくつ?中学生?」
「はい。3年生です。こっちは高1」龍星を指差す。
同い年かー、と彼は呟いた。どっちと同い年だろう。一瞬考えていると、入院着の彼は私に顔を近づけた。
「さっきも思ってたけど、あんたかっわいいねー。近くで見るとますますイイね」
大きな目を瞬かせて言う。私は彼から身体を離すべく、一歩後ずさる。容姿の話をされるのはあまり好きじゃない。こういう話し方をする奴は大概…。
「ね、あんた俺と付き合わない?」
ほらね。
「嫌です」毛が逆立ってしまう(イメージ)。
「即答かよ」
「やめとけ。そいつ男いるよ」
龍星が私をかばうように口を挟んだ。入院着くんのあまりに軽いノリに、若干呆れたような声音。
入院着くんは龍星の方を見た。彼らはだいたい同じような身長。特に攻撃的でも友好的でもない、ごく普通のテンションで視線を合わせる。
「男ってお前?」
「ちげーよ」
「じゃイイじゃん。俺は彼女に聞いてんの♪」
にっこり笑って、また私に近づく。
「だから、お断りします」
「えーなんで?」
「初対面の人とそんな風になれるわけないでしょ」
「そんなのわかんないじゃん。付き合ってみてわかることもあるかもよ?」
「私はそういう人間じゃないの」
「えー、なんだよお堅いなぁ。どうしても?」
「どうしても」
「じゃ、1回だけ♪」
何をだよ。私が舌打ちをすると、龍星が少し怯えたような表情を見せた。なんであんたがビビるんだよ!
「さっきこの人が言ったでしょ!付き合ってる人がいるの!」
「なーんだ、つまんね」
怒鳴りつけても、入院着くんはどこ吹く風だ。私はイライラとペットボトルの蓋を締めて、バッグに突っ込んだ。龍星の腕を掴む。
「龍星、帰ろ」
話すだけ無駄だ。人をキーホルダーみたいに扱いやがって。私は龍星を引きずるようにして歩き出した。龍星はヨレヨレと足をもつれさせる。
まーたねー、と呑気な声が背後からかけられて、不快に拍車がかかった。なんだよあいつは!失礼な!
「お前もう大丈夫なのかよ…」
龍星が情けない声を出した。掴んでいた腕を放してやると、爪が食い込んでいてぇよ…どら猫め…と悪態をついた。
「おかげさまで吹っ飛んだ。帰ろ。気分悪っ」
思い出すだけで腹が立つ。久しぶりにあからさまにモノ扱いされた。顔だけでよくあんなことが言えるな。鞄にでもぶら下げるつもりかよ!
早足で歩く私の横に龍星が並んだ。
「こえぇなぁお前…知ってたけど…彼氏結構苦労してんじゃねぇのぉ?」
機嫌の悪い私によくそんな言葉がかけられるな。容赦無く蹴飛ばしてやった。
ああ、万里に会いたい。
私は特大のため息をついた。