魔女の領分

よぉ、と龍星が片手をあげると、私はあからさまに眉を顰めてやった。春に横浜で偶然会ってから半年。久しぶりに見る彼は、少し背と髪が伸びていた。

一生顔を合わせないくらいの気合いで避けまくっていた龍星と、なぜこうしてコンビで行動しなければならなくなったのか?発端は私が師事しているヴァイオリンの先生にある。
芸高にもコンヴァトにも行きたくない、でも芸大には行きたい、と半年かけて駄々をこねまくった結果、先生は遂に折れてくれた。ただし条件として、『ボランティアの演奏活動および指定されたコンクールへの出場を拒まないこと』が提示された。加えて『ボランティア演奏のパートナーは選べないこととする』。

約30年前、演奏家としての自分の才能を早々に見限った我が師匠は、代わりに音楽教育に心血を注いだ。演奏家としては頭一つ抜きん出ることができなかった彼だが、しかし教育者としては目覚ましい才能を発揮した。現在世界で活躍している日本人ヴァイオリニストの1/3が先生の門下生であると言っても過言ではない。
その筆頭が父だった。たった16で世界の名だたるコンクールで賞を総なめにし、カーネギーホールでのデビューコンサートには、あふれんばかりの観客が詰めかけた。その才能を見出し育てたのも、佐庭弥三一先生その人なのだった。
たった1年半後に、「子供を育てたいからヴァイオリンをやめる」と言い出した父に、左庭先生はただ悲しい顔をしただけだったと聞いている。責めるでもなく、引き留めるでもなく、ただ悲しい顔をして「わかりました」とだけ言って疎遠になってしまった、と。
再会はそのまた3年後。初めて会った時、先生は跪いて私の手を取り、そして立ち上がって黙って父を抱きしめた。その光景は、今でもはっきりと思い出せる。小さなお爺さんが、父に抱きつき静かに泣いていたのがとても印象的だった。
先生は私にヴァイオリンの全てを、ゆっくりと丁寧に教えてくれた。彼の指導法はとても優しい。絶対に声を荒げたり罵ったりなどしない。その代わりとてもしつこい。意図を理解できるまで何度でも、じりじりと身体に染み込ませるように教えてくれる。何週間も同じフレーズを弾かされ続けることもザラだ。
私は先生のその真摯な態度も紳士的な対応も大好きで仕方ない。本当に心から尊敬している。
先生も私をとても可愛がってくれ、特に目をかけてくれていた。事故の後、口がきけなくなり、外にも出れなくなり、ただひたすらヴァイオリンとピアノを狂ったように弾き続ける私の元にも足繁く通ってレッスンをつけてくれた。

でもその頃から先生はずっと気付いていたはずだ。私の心がクラシックにはないということを。そのことだけは本当に申し訳なく思う。先生からしたら親子二代に渡って裏切られたのだ。愛想をつかされても仕方ない、そう思っていた。
ただひとつ気になるのは、龍星に言われた門下生の間での『噂』。
私は断じて万里の為に音楽を捨てるなんてことはしていない。誰になにを言われてもかまわないけれど、先生にだけはきちんと本当の気持ちを伝えたかった。

「先生」
「なんですか?夜子さん」
私の我儘を先生が認めてくれた日。レッスンの終わりに先生とお茶を飲んだ。普段なら佐庭先生にヴァイオリンのレッスンをつけてもらった後、奥様の美和先生からピアノのレッスンを受ける流れなのだが、その日はお休みにしてもらったのだった。
私は美和先生が淹れてくれたアールグレイをゆっくりと飲み干して、最後に切り出した。
「私は誰かの為に音楽を捨てるということはしません。誰かの為に音楽を続けるということもしないでしょう。ただ、好きなだけです。クラシックではない音楽が。分かって頂けませんか?」
先生もティーカップに口を付けた。ゆっくり喉を湿らせるようにひとくち飲んでから、長い長いため息をついた。
「門下生たちの噂のことなら、私は気にしていませんし、信じてもいません。ただ…そうですね、私のエゴなのです。私はあなたの才能に執着しています。あなたが世界の舞台で弾く姿が見たい。あなたが本気でクラシックに挑めば、きっと100年に1人の奏者になれるでしょう。それを私が望んでしまっているだけなのです」
先生は静かな口調で語る。その瞳は穏やかだ。
「ですから、あなたがクラシックではない道を選びたいと言うのなら、本来止める権利はありません。あなたがあなた自身の進む道をもうきちんと見据えていたというのに、私の我儘であなたを困らせていました。申し訳ない。こんな老人が若者に駄々をこねるなんて情けない話ですね」
自嘲気味に笑う。私は慌てて両手を振った。
「そんなこと言わないでください。私は先生にずっと育ててもらったのに、こんな恩を仇で返すようなことをしてしまって、本当にごめんなさい。その…親子二代に渡って…先生を…」
裏切って、と言葉にできなかった。
「私は、できればずっと先生にヴァイオリンを習っていたんです。芸大には行きたいと思っていますし、音楽は、多分、一生、どんな形になっても続けたいと思っているので…。もちろん、門下生はみんな演奏家を目指している人ばかりだということはわかっています。そこから外れる私がいつまでも先生の門下にいれば、それだけみんなの時間を削ることになることも…でも…どうかお願いします」
私は椅子に腰掛けたまま頭を下げた。テーブルの木目が至近距離にある。その曲線。
私の頭にそっと、先生の指が触れた。頭をあげなさい、と静かな声。私は首をゆっくりと起こしてから、もう一度先生と向かい合う。
「約束をしてください」
「はい」
「…絶対に音楽を捨てないこと。学生の間は今まで通り週に1回レッスンにいらっしゃい。芸大には必ず入りましょう。外部から器楽科を受験するのは狭き門です。あなたでも相当努力しないと難しいですよ」
「はい」
「そこを卒業して、あなたがどんな道を歩むことになっても、月に1度はあなたの音楽を聴かせに来てください…私が生きている限り」
「…はい」
そこで先生は、あ、と言って破顔した。
「折角ですからボランティア演奏を積極的に手伝ってください。ピアノ伴奏も込みで。クラシックでなくともミュージシャンになる可能性があるなら場数は踏んだ方がいいですよ♡」
ボランティア演奏は結構頻繁で、曲選びやアレンジまで任せられるので、結構面倒臭い。門下生の持ち回りだが、役を振られるのをみんな密かに恐れている。ちゃっかり押し付けたな。
私は、はぁい、と返事してちょっと肩をすくめた。先生はちょっと意地悪そうに笑った。彼は時々、こういうチャーミングな面を見せる。
「私はね、あなたの音楽が好きなんです。演奏家として、大胆でユニークだ。見た目に似合わず野蛮なところがあるのも本当に面白い。確かに、クラシックをやるのは、あなたには窮屈かもしれませんね…瀬名君もそうだった」
お父さんは私を育てる為に高校とヴァイオリンを辞めた。でも、本当はクラシック奏者としての自分に疑問を抱いたからでもあったのだ、と幼い頃の私に話してくれていた。
「瀬名君の音楽も私は本当に好きだったんです。クラシック奏者だった頃も、プロデューサーになってからも、ずっと好きだった。それを彼に言ってあげられなかったことが、唯一心残りです」
そう言って、先生は少し肩を落とした。そうしていると、ずっと小さなお爺さんになってしまったようで、私は切ない気持ちになった。
「先生」
私が呼びかけると、彼は視線を上げた。その瞳を捉えて、私は発声する。
「父は…瀬名は、幸せでした。あなたが彼に音楽を与えてくれたからです。私も、先生に音楽をもらったから、今まで生きてこれたんです。そう思っていたから、父は私をあなたに預けたんじゃないでしょうか」
先生は何かを言おうとして、結局言葉を紡ぐことが出来ずに唇を歪めた。骨ばった手で顔を覆うと、呻くように息を漏らす。その指の間から、静かに涙が流れるのを、私は黙って見つめていた。

「そんな嫌な顔すんなよなぁ…ほら、さっさと始めようぜ」
そう言って龍星は弓をひとつ振ると、Aを弾いた。私もそれに合わせて人差し指でAの白鍵を叩く。全音符ひとつ分でチューニングは終了。龍星は確かめるように和音をいくつか弾いて、譜面台の高さを調節した。
ボランティア演奏は2日後、先生が懇意にしている総合病院のサロンで行われる予定。おそらく子供が多いとは思うけど、あからさまに童謡やアニメには寄せず、万人がわかる映画音楽を中心にセットリストを組んだ。アナ雪だとか、セリーヌ・ディオンだとか、まあその辺。今は全曲を1、2回タイミングと構成を合わせて確認する程度のリハーサルを、先生の教室を借りてやっているところ。
私と龍星の仲が悪いのは先生も重々承知。それを踏まえてあえて組ませたんだろう。何だろう、仲直りして欲しいのかな。こればっかりは大きなお世話だ。とはいえ演奏は別。人に聴かせるんだから、私情は廃してちゃんとしたものにしないといけない。最低限の礼儀だ。

予想に反して練習はスムーズに進んだ。なんだかんだ龍星は上手い。技術は確かだし、結構繊細な表現が得意だ。クラシックに固執しているくせに演奏自体は柔軟でポップスにもよく馴染む。もっと解釈や奏法でぶつかるかと思ったら、悔しいくらい文句が出なかった。
ひとしきり演奏すると、龍星は楽器を下ろして椅子に腰掛けた。はー、とため息をついて自分の二の腕を揉む。
「お前ピアノ上手いなあ。ちゃんと伴奏出来るんじゃん。もっと野獣みたいに勝手に弾くかと思ってた」
「あんたにとって私はなんなのよ…」
「気ぃ強えぇからなあ夜子は…なあ今度のコンクール、伴奏やってくれよ」
「嫌。プロに頼んでよ」
「高ぇんだもん」
「私だってお金取るよ。入賞料も取ってやる」
「ケチ」
紙くずを投げつけると、更に「ブス!」と言ってきた。こういう典型的な小学生男子みたいなところが嫌なんだ!
「…彼氏とはうまくいってんの?」
「あんたに関係ない」
「そうツンケンすんなよ。悪かったよ絡んで」
意外にも素直に謝ってきた。伸びた前髪を掻き上げながら椅子の背にだらしなく寄りかかる。
「…ほんとに芸高こねーのかよ」
龍星は今、芸高の1年生だ。留年しなければ、私も今頃高校生だったんだな、とぼんやり思った。
「行かない」
「彼氏と同じ高校受けんの?」
「だから、あんたに関係ない」
「競争相手がいねーとつまんねんだよ。期待して入ったのに下手くそばっかり」
吐き捨てるように言う。お前が1番上手いのに、と小さな声で付け加えた。
「へー、そんなに認めてくれるの?」
「…そうだよ。お前がいないとつまんない。お前が転校してからずーっとつまんない」
不貞腐れた子供みたいな言い方だ。不意に、万里の言葉を思い出した。『あいつは夜子が好きなんだと思うよ?』
龍星は椅子の背に首をのけぞらせて、組んだ片足をぶらぶらさせている。私には関係ないし、そもそもこいつのことなんか嫌いだし、でも曖昧にさせておくのは気持ち悪い。
「龍星」
「あー?」
「あんたって私が好きなの?」
どた、と大きな音を立てて龍星が椅子ごと後方にひっくり返った。私はびっくりして思わず立ち上がってしまう。
「ちょっと、大丈夫!?」
駆け寄って顔を覗き込むと、龍星はいででで…と後頭部を抑えながら身を起こした。もー、気をつけてよ…と言いながら私は彼の後頭部に触れた。至近距離で視線が合うと、龍星は慌てて私から身体ごと後ずさって視線を外す。
「べ、べ、別にお前のことなんか好きじゃねーよ!アホか!」
「だって彼がそう言うんだもん…やっぱりそうだよね、あんた私にウザ絡みしかしないもんね。憎まれ口ばっかりだし」
「そんなこと言ってたのかよ!いけ好かねー男だな!あんな見るからにチャラチャラした男の何がいんだよ馬鹿じゃねーのお前」
「確かにチャラチャラしてるかもしれないけど、あれで結構誠実なんですぅ。私が好きなんだからそれでいいの。大きなお世話!」
舌を出してやる。龍星は舌打ちをしてから立ち上がって、起こした椅子に腰掛け直す。それからちょっと考えるように腕を組んで、ふ、と笑った。
「…何よ」
「いや、お前はいいな、はっきりしてて。なんか生きる力に溢れてるっつーか、ブレないっつーか…安心して扱えるところがいいんだ。俺、女の「察して大事にしろ」みたいなのほんと苦手だからさ。お前くらい丈夫で力強いのがよかったんだ」
「…それ褒めてんの?貶してんの?」
ばぁか、と龍星は笑った。そんな風に優しげに笑うのを見るのは初めてだった。
「褒めてるっつーか…告ってんの!わかんねーの?男の純情踏みにじってんじゃねーよ」
誰かに言われたようなセリフ。同時に『告ってる』に少しどきりとしてしまう。龍星は真っ直ぐにこちらを見ている。
「最初っからお前は強くて真っ直ぐでさ。『ああ、こいつもこいつの音楽も信用できる』って思ってたんだよ。だから負けたくなかったし、お前がいつも俺の前を走ってたから、安心して追いかけていられたんだ。お前が見てると思えば、どんな広い舞台にも立てる気がしてた。でも、まぁ、俺の勝手な思い込みだったんだ。お前も人間の女なんだもんな…ジャズもやるし男も作るし」はぁぁ、とため息をつく。「しかもそっちの方が全然いいんだもん。俺、お前んとこの文化祭観に行ったんだ。知ってた?」
えっ、と私は思わず声を上げる。全く姿を見かけなかった。私の反応に、龍星は面白そうに笑う。
「東一中のジャズ研、前から上手いって結構有名なんだぜ。ジャズ科の奴らが噂しててさ。『突然途中入部した美女がえげつないピアノ弾く』って、絶対お前のことだろ? 観に行ったらエロい衣装着てピアニカ速弾きしてるし。なんなのお前?あれ、めちゃくちゃかっこよかった」
突然まっすぐ褒めてくる。あ、ありがとう、と返すと、龍星はふん、とふんぞりかえった。
「お前は俺のこと『クラシックに固執してる石頭の馬鹿』って思ってるかもしんないけど、そもそもはジャズやるはずだったんだ。親父がステファン・グラッペリの大ファンで、そんでヴァイオリン始めたんだもん。なんだかんだクラシックに落ち着いちゃったけど、こう見えてジャズは結構詳しいんだぜ」
「なにそれ。そんなこと1回も言ったことないじゃん」
「言わなかったんだよ。なめられると思ったし。したらお前さっさとジャズに鞍替えすんだもん。煙みたいにいなくなるし。俺のことは避けまくるし。やっと会えたと思ったら男作ってるし。クラシックやめるって言うし。最悪」
「そんな勝手な…」
「そんでジャズやってる時のが全然楽しそうだし。演奏はかっこいいし。あいつと歩いてる時死ぬほど可愛い顔してるし」
まじでなんなのお前、とため息まじりに言って、龍星は視線を床に落とした。
「俺は野獣みたいにカプリース弾いてるお前を追っかけてたかったんだ。でもお前はモンク弾いてんだもん。しかもピアノで。あーあ、だからもうこれでこの話は終わり!」
そう言って龍星はさっさと楽器をケースにしまい始める。ん?なんかこれ…。
「…つまり、私のことが好きだったけど、クラシックやらない私に用はないと?」
ん?と言って、弓を振って松脂を飛ばしていた龍星が振り向いた。
「まぁ、結果的にはそうなるかな…?今までありがとう?」
「えー!なにそれ!なんで私が振られたみたいになってんの!?」
私が地団駄を踏んで抗議すると、龍星は、ぎゃははざまみろ!と言ってゲラゲラ笑った。なんだか納得がいかない。龍星がやけにスッキリした顔をしてるのが悔しい。
「音楽はやめないんだろ?」
「やめないよ。てゆーか今すっごい悔しいから、絶対あんたには負けない!」
はは、いいねぇ、と龍星は笑う。
「いいよ、どこにいても、どんな音楽やっててもお前はブレずにいてくれよ。俺も絶対負けねぇから」
言って、左手を差し出す。
「ひとまず明後日、よろしくな」
左手かぁ、とため息をついて、私はその手を握る。私よりずっと大きい手。きっとこれからこの手が沢山の音楽を紡ぐんだろう。フィールドが違っても、私たちは同じ音楽家だ。初めて龍星に親しみに近い感情を覚えた。
握手して、離れようと緩めた手を強く引き寄せられた。私がその衝撃につんのめるようにして前に一歩進むと、龍星は身を屈めて私の額にキスした。
龍星はびっくりした私の顔を見て満足そうに笑うと、間抜け面!ブース!と言い放って楽器ケースを担いだ。そのまま軽やかに教室を出て行ってしまう。片方の靴を脱いでその背中めがけて投げつけたけど、間一髪扉が閉まってしまう。靴は虚しく扉にぶつかって、溢れるように床に転がった。

やっぱり嫌いだ、あんなやつ。
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