流れよ我が涙、と彼女は言った
お屋敷を出て長い砂利道を歩いてその先の門をくぐる。そこからまた鬱蒼とした森の中で舗装されたアスファルトの上をとぼとぼと歩いた。なにこれどこまで私有地なの。お金持ちってほんと、際限がない。
緩やかな坂を下って下って、最後に現れる腰の高さくらいの小さな柵。ようやく公道に出るそのサインに、細長い影が腰掛けていた。グレーのコートに、学ランのスラックスの黒。茶色い革のリュックサック。背後からの気配を逃さない彼が立ち上がって振り向く。少し伸びた髪。綺麗な相貌。笑う時に下がる目尻。
私は残りの数メートルを駆け出し、その胸に飛び込んだ。抱き止めてくれた腕がそのまま私の背中を優しく包む。一方の私は、彼のリュックサックの下に腕をねじ込んで、背中を力一杯締め付けた。うわあ、いてててて、と万里はうめく。相変わらず優しく私の身体を抱きしめたまま、長い指が髪を梳いてくれる。
「…ちゃんと会えた?」
私は黙って抱きついたまま、こくりと首を縦に動かした。
アリスが帰ってきてすぐさま会いに行きたかったけど、アポイントを取るのに1週間かかった。それも、白百合の生徒ではないこと、アリスの困った夜遊び仲間であると認識されたことによって最初は門前払いだったものが、花島田君の計らいによって特別に許可されたのだ。因みに男性などもっての外、と一喝され、万里に至っては面会謝絶であった(実際、男性は身内である花島田君以外は会えないそうだ)。そんなわけで私達2人は放課後、はるばる海辺の街まで赴き、広大な私有地をえっちらおっちら歩いて(しかも万里は最初の門をくぐることすら許されずに)彼女に会いに来たというわけなのだ。
会見は、あまり良いものではなかった。表面的にはアリスは元気で、念入りに手入れされた身なりも容姿も全く変容することなくそこにいたけれど、彼女の中ではっきりと何かが終わっていて、それはとてもじゃないけど私が介入することなんて到底できないくらいの大きな穴で、何よりそれを彼女はもう全部抱えて生きていくんだと決めた後で、悔しくてたまらなかった。首にかじりついて代わりにそうしてやると言わんばかりにわざとらしく(でも本当に、心からの涙だった。誓って)泣いてやったけど、もうびくともしなかった。1人で決めさせてしまった。最初から最後まで1人で。血が出ている生の傷口を無理矢理塞いでいらないところは全部削ぎ落として捨てて残った思い出の核の部分だけ持って生きていくなんてことを。たった17で。たった17歳なのに。
万里に全部洗いざらい話したいのに言葉が何も出てこない。涙も出ない。ただぎりぎりと彼の背中を締め付けながら黙って胸に顔を埋めている私を抱きしめたまま、万里は私の左耳にかかる髪をかき分けて、耳元で囁いた。
「夜、こっち向いて?」
唇を堅く引き結んだまま、私は顔を上げた。万里はその顔を見て、ふは、と吹き出す。
「はは、ブスな顔。超かわいい」
「なにそれ。どっちだよ…」
「可愛いよ。世界で1番可愛い」
アリスを思った。この人を手に入れてしまった私が、あの子に何を言えるだろう。幸せなくせに。好きな人を失う気持ちなんてわからないくせに。
ぎりり、と歯軋りする。その頬を万里は軽く摘んで、目尻にキスを落とした。
「散歩しよ。海までどれくらいかな」
顔を近づけたまま言う。私は彼の背中を抱きしめていた腕を緩めて、コートの布地をそっと掴んだ。
「ここ、そんなに海近くないよ。歩いて20分くらいかかる」
「いいじゃんそんくらい。行こ」
万里は預けていた私のリュックサックを右肩に引っ掛け、反対の手で私の右手を握った。少し強引に引っ張られて、よろけるように歩いた。私の様子を見て彼は少し笑うと(それはもう、欲目ではなく美しい笑顔で)、腹減ったなーなんかおやつ食べよー、と呑気な声を出すのであった。
ワッフル、クレープ、回転焼き。万里は気の向くまま、といった風情で次々と買い食いして歩く。
うちで食事を共にする時もそうだけど、彼は実によく食べる。男の子はよく食べるという話は知識としては知っていたけど、実際目の当たりにすると驚愕する。あの大きな身体を動かすために必要なエネルギーは大変なものなのかもしれないけど、その上バスケなんてやっていたらいくら食べても足りないのかもしれないけど、もういっそ気持ちいいくらいの量を食べるのだ。しかも食べる姿がなんとも不思議で、端的に言えば無駄がない。箸使いはすごく綺麗だし、今日の一連のおやつ(と呼ぶのが憚られるくらいの量だけど)みたいに道具を使わないジャンクフードを食べる時も、二口三口で消えてしまうのに、えらく上品に見える。変な人。
私はワッフル(ふわふわで、中に美味しいクリームが挟まってるやつ)だけ付き合って、あとは傍観者に徹する。新しいおやつを買う度に差し出される「ひと口」だけで、充分お腹いっぱい。公衆の面前で、私の唇の端に付いた(と万里が主張する)クリームを舐め取ってくれたので、思い切り耳を引っ張ってやった。
手を繋いで、全然関係ないおしゃべりをしながらゆっくり歩く。空気が少しずつ磯の香りを含んできて、絡まるように吹く風が肌にまとわりつくようになった頃、視界の先に灰色の水平線が見えた。
海、と万里が呟いた。絡められた指に少し力がこもった。興奮が抑えきれない、とばかりに歩調が速くなる。まっすぐ前を見つめる瞳がきらきら輝く。たまらず私が噴き出すと、万里はすかさずこちらを軽く睨んだ。
「なんだよ、ガキ臭いと思ってるんだろ」
膨れっ面だ。珍しい。私は笑顔のままかぶりを振った。
「万里、可愛い」
言うや、手を引かれた。唐突に走り出す。コンクリで舗装されていたはずの道に砂が侵入し、程なく砂ばかりになる。スニーカーの底が重たく沈む。それでもお構いなしに走った。砂に足を取られそうになりながら、ふたり走って、走って、波打ち際で止まった。繋いだままの手を空高く上げて、万里はもう1度、今度はまあまあ大きな声で、海だー!と叫んだ。私もつられて、わー!と水平線に向かって大きな声を出した。それから2人で顔を見合わせて笑った。なんだかおかしくてたまらなくなって、お腹を抱えてしばらく笑い続けた。
波打ち際で少し遊んで、砂浜を歩いて大きな流木を見つけた。並んで腰掛けてまた、海を眺める。潮の匂い。寄せては返す波が白く泡立っている。さっきまで同じ地点でスニーカーの足を洗うほどだった波はもう、2m程後方にある。引き潮なんだ、とぼんやり思った。
万里は話さない。私も、話したい事は山程あるのに言葉がなかなか出てこない。もどかしくて、少し悲しくて、しばらくただ、海と空を眺めていた。こういう時、何も言わずに私の言葉をじっと待ってくれる彼が心底好きだと思った。
「アリスね、」
ようやく言葉を紡ぎ始めることができたのは、もう日が傾きかける頃だった。砂浜には誰もいない。私と万里だけ。
うん、と彼は喉の奥で小さく相槌を打った。
「イギリスに行くんだって。全寮制のお嬢様学校」
「そっか」
日本にいると悪さばっかりするからさっ、とアリスは笑った。その瞳が揺らぐのを私は見逃さなかった。
「…そんなとこ押し込めたって、絶対意味ないよね」
ね?、と万里を見ると、全く馬鹿らしいよな、と真顔で言った。少し笑った。
「庭野さんはいなくなっちゃったって」
「そうだろうね」
「こ…殺されたりとか…」
「いや流石にこの程度のことじゃそんなことまでしないでしょ。金握らせて厄介払いしたんじゃないの?」
そのへんはハナシマダの方が詳しそうだな、と万里は言って、身を屈めた。砂を長い指でいじって、何かを拾い上げる。砂を払って、私にくれた。
万里のくれたそれは、青い石だった。そら豆みたいな形で、磨りガラスみたいな質感。何度も波にさらわれたであろうそれの、元の姿はなんなのか想像ができない。私はくるくるとそれを手の中で何度かひっくり返してから、太陽にかざした。内側に光を含んだみたいにほのかに発光する。その青。
ふたりで覗き込むように石を眺めた。少し目線をずらして万里の顔を盗み見た。静かに石を見つめる瞳が綺麗。細い鼻梁。形の良い唇。少し伸びた前髪を指で払ってやると、瞳がこちらに動いた。焦茶色の虹彩。おおきなてのひらが私の頬を包む。
「夜子、目の色薄いよね」瞳を覗き込まれる。
「そう?」
「うん。初めて会った時から綺麗だなー、と思ってた」そんで見てたらキスしたくなっちゃってさ、と笑う。
「そんな理由で人のファーストキス奪ったの?最低。ほんと女ったらし。やんなるわ」
そっぽ向いて拗ねたふりをしたら、彼は苦笑して、ごめんごめん、と私の髪を撫でた。
「アリスも瞳が茶色いよね。綺麗なの」
「あれカラコンだぞ」
「えっほんと?知らなかった…」
マジかよなんで知らないんだよ!と万里は大笑いする。肩を拳で軽く殴ってやる。なぜか抱き締められた。
「そゆとこほんと可愛い。はー…好き…」ため息混じりに言う。意味がわからん。この辺りのツボが私と全く違う。
抱き締められたまま、彼の肩に少し頭を預けると、また髪を撫でてくれた。
「…ほんとそう。なんで知らなかったんだろ。私、アリスのこと何も知らなかったんだな…。全然、なんにも、気づかなかった」
彼女の恋も、偽の瞳も、何も。
「ときどき、自分がものすごく馬鹿で嫌になる」
呟いたら、万里は身じろぎして、私の目尻を撫でた。
「…離れないようにしなよ。馬鹿でもなんでも、わかってなくても、アリスが好きなんでしょ?だったら遠慮しちゃダメなんだよ。聞きたいことは全部聞いて、言いたいことは全部言わなきゃ。どこへ行ったって、会えなくたって、友達じゃん」
喉元に耳をつけているせいで、万里の声が骨を伝って深く響く。
「いいのかな」
声が掠れた。万里が首を傾けて、私の声を拾おうと耳を寄せるのがわかった。
「私が、好きって言っていいのかな。アリスを知りたいって、離れててもそばにいたいって、言ってもいいの?」
ずっと怖かった。自分の気持ちの方が重たかったらどうしよう、気持ちをぶつけることで相手に顔を顰められたら、戸惑われたら、そう思うと怖くて、ずっと他人と強い関係を築くことが出来なかった。
「いいんだよ。あいつはすんごい夜子が好きなんだから」
「そうなの?」
「そうなの。わかってるでしょ?なんだよ、俺には『好きって言いなさい』なんて強気に出たくせに、なんでアリスに対してはそんな乙女なのさ」
拗ねる。笑ってしまった。
「だって万里はヘタレだから、私がいなきゃダメだと思ったんだもん」
鼻をつままれた。目を合わせて笑う。万里は笑うともともとタレ目なのに更に目尻が下がって、幼くなる。
「アリスもきっと、かっこつけすぎて今頃後悔してるよ。こういう時が女の子同士の腕の見せ所じゃん。言ってやんなよ。『絶対離れねぇぞ』って」
綺麗なアリス。優しいアリス。全部決めて飲み込んでしまったアリス。私の大好きな友達。でも言わなきゃ伝わらない。
よくがんばったね。えらかったね。あなたのどんな選択も全て、あなたにとって正しい。ずっと大好き。どこにいたって、何を選んだって、ずっと。
万里と手を繋いで帰ったその夜、私は彼女に電話をかけた。ありったけを、言葉をもって伝えた。熱を持ったスマートフォンの奥で、アリスは出会って初めて泣いた。庭野さんが好きだと、一緒に暮らした3週間が自分の全てだと。私は彼女の長い話を全部全部聞いて、一緒に泣いた。
この夜をもって、私たちは一生の友達になったのだった。
緩やかな坂を下って下って、最後に現れる腰の高さくらいの小さな柵。ようやく公道に出るそのサインに、細長い影が腰掛けていた。グレーのコートに、学ランのスラックスの黒。茶色い革のリュックサック。背後からの気配を逃さない彼が立ち上がって振り向く。少し伸びた髪。綺麗な相貌。笑う時に下がる目尻。
私は残りの数メートルを駆け出し、その胸に飛び込んだ。抱き止めてくれた腕がそのまま私の背中を優しく包む。一方の私は、彼のリュックサックの下に腕をねじ込んで、背中を力一杯締め付けた。うわあ、いてててて、と万里はうめく。相変わらず優しく私の身体を抱きしめたまま、長い指が髪を梳いてくれる。
「…ちゃんと会えた?」
私は黙って抱きついたまま、こくりと首を縦に動かした。
アリスが帰ってきてすぐさま会いに行きたかったけど、アポイントを取るのに1週間かかった。それも、白百合の生徒ではないこと、アリスの困った夜遊び仲間であると認識されたことによって最初は門前払いだったものが、花島田君の計らいによって特別に許可されたのだ。因みに男性などもっての外、と一喝され、万里に至っては面会謝絶であった(実際、男性は身内である花島田君以外は会えないそうだ)。そんなわけで私達2人は放課後、はるばる海辺の街まで赴き、広大な私有地をえっちらおっちら歩いて(しかも万里は最初の門をくぐることすら許されずに)彼女に会いに来たというわけなのだ。
会見は、あまり良いものではなかった。表面的にはアリスは元気で、念入りに手入れされた身なりも容姿も全く変容することなくそこにいたけれど、彼女の中ではっきりと何かが終わっていて、それはとてもじゃないけど私が介入することなんて到底できないくらいの大きな穴で、何よりそれを彼女はもう全部抱えて生きていくんだと決めた後で、悔しくてたまらなかった。首にかじりついて代わりにそうしてやると言わんばかりにわざとらしく(でも本当に、心からの涙だった。誓って)泣いてやったけど、もうびくともしなかった。1人で決めさせてしまった。最初から最後まで1人で。血が出ている生の傷口を無理矢理塞いでいらないところは全部削ぎ落として捨てて残った思い出の核の部分だけ持って生きていくなんてことを。たった17で。たった17歳なのに。
万里に全部洗いざらい話したいのに言葉が何も出てこない。涙も出ない。ただぎりぎりと彼の背中を締め付けながら黙って胸に顔を埋めている私を抱きしめたまま、万里は私の左耳にかかる髪をかき分けて、耳元で囁いた。
「夜、こっち向いて?」
唇を堅く引き結んだまま、私は顔を上げた。万里はその顔を見て、ふは、と吹き出す。
「はは、ブスな顔。超かわいい」
「なにそれ。どっちだよ…」
「可愛いよ。世界で1番可愛い」
アリスを思った。この人を手に入れてしまった私が、あの子に何を言えるだろう。幸せなくせに。好きな人を失う気持ちなんてわからないくせに。
ぎりり、と歯軋りする。その頬を万里は軽く摘んで、目尻にキスを落とした。
「散歩しよ。海までどれくらいかな」
顔を近づけたまま言う。私は彼の背中を抱きしめていた腕を緩めて、コートの布地をそっと掴んだ。
「ここ、そんなに海近くないよ。歩いて20分くらいかかる」
「いいじゃんそんくらい。行こ」
万里は預けていた私のリュックサックを右肩に引っ掛け、反対の手で私の右手を握った。少し強引に引っ張られて、よろけるように歩いた。私の様子を見て彼は少し笑うと(それはもう、欲目ではなく美しい笑顔で)、腹減ったなーなんかおやつ食べよー、と呑気な声を出すのであった。
ワッフル、クレープ、回転焼き。万里は気の向くまま、といった風情で次々と買い食いして歩く。
うちで食事を共にする時もそうだけど、彼は実によく食べる。男の子はよく食べるという話は知識としては知っていたけど、実際目の当たりにすると驚愕する。あの大きな身体を動かすために必要なエネルギーは大変なものなのかもしれないけど、その上バスケなんてやっていたらいくら食べても足りないのかもしれないけど、もういっそ気持ちいいくらいの量を食べるのだ。しかも食べる姿がなんとも不思議で、端的に言えば無駄がない。箸使いはすごく綺麗だし、今日の一連のおやつ(と呼ぶのが憚られるくらいの量だけど)みたいに道具を使わないジャンクフードを食べる時も、二口三口で消えてしまうのに、えらく上品に見える。変な人。
私はワッフル(ふわふわで、中に美味しいクリームが挟まってるやつ)だけ付き合って、あとは傍観者に徹する。新しいおやつを買う度に差し出される「ひと口」だけで、充分お腹いっぱい。公衆の面前で、私の唇の端に付いた(と万里が主張する)クリームを舐め取ってくれたので、思い切り耳を引っ張ってやった。
手を繋いで、全然関係ないおしゃべりをしながらゆっくり歩く。空気が少しずつ磯の香りを含んできて、絡まるように吹く風が肌にまとわりつくようになった頃、視界の先に灰色の水平線が見えた。
海、と万里が呟いた。絡められた指に少し力がこもった。興奮が抑えきれない、とばかりに歩調が速くなる。まっすぐ前を見つめる瞳がきらきら輝く。たまらず私が噴き出すと、万里はすかさずこちらを軽く睨んだ。
「なんだよ、ガキ臭いと思ってるんだろ」
膨れっ面だ。珍しい。私は笑顔のままかぶりを振った。
「万里、可愛い」
言うや、手を引かれた。唐突に走り出す。コンクリで舗装されていたはずの道に砂が侵入し、程なく砂ばかりになる。スニーカーの底が重たく沈む。それでもお構いなしに走った。砂に足を取られそうになりながら、ふたり走って、走って、波打ち際で止まった。繋いだままの手を空高く上げて、万里はもう1度、今度はまあまあ大きな声で、海だー!と叫んだ。私もつられて、わー!と水平線に向かって大きな声を出した。それから2人で顔を見合わせて笑った。なんだかおかしくてたまらなくなって、お腹を抱えてしばらく笑い続けた。
波打ち際で少し遊んで、砂浜を歩いて大きな流木を見つけた。並んで腰掛けてまた、海を眺める。潮の匂い。寄せては返す波が白く泡立っている。さっきまで同じ地点でスニーカーの足を洗うほどだった波はもう、2m程後方にある。引き潮なんだ、とぼんやり思った。
万里は話さない。私も、話したい事は山程あるのに言葉がなかなか出てこない。もどかしくて、少し悲しくて、しばらくただ、海と空を眺めていた。こういう時、何も言わずに私の言葉をじっと待ってくれる彼が心底好きだと思った。
「アリスね、」
ようやく言葉を紡ぎ始めることができたのは、もう日が傾きかける頃だった。砂浜には誰もいない。私と万里だけ。
うん、と彼は喉の奥で小さく相槌を打った。
「イギリスに行くんだって。全寮制のお嬢様学校」
「そっか」
日本にいると悪さばっかりするからさっ、とアリスは笑った。その瞳が揺らぐのを私は見逃さなかった。
「…そんなとこ押し込めたって、絶対意味ないよね」
ね?、と万里を見ると、全く馬鹿らしいよな、と真顔で言った。少し笑った。
「庭野さんはいなくなっちゃったって」
「そうだろうね」
「こ…殺されたりとか…」
「いや流石にこの程度のことじゃそんなことまでしないでしょ。金握らせて厄介払いしたんじゃないの?」
そのへんはハナシマダの方が詳しそうだな、と万里は言って、身を屈めた。砂を長い指でいじって、何かを拾い上げる。砂を払って、私にくれた。
万里のくれたそれは、青い石だった。そら豆みたいな形で、磨りガラスみたいな質感。何度も波にさらわれたであろうそれの、元の姿はなんなのか想像ができない。私はくるくるとそれを手の中で何度かひっくり返してから、太陽にかざした。内側に光を含んだみたいにほのかに発光する。その青。
ふたりで覗き込むように石を眺めた。少し目線をずらして万里の顔を盗み見た。静かに石を見つめる瞳が綺麗。細い鼻梁。形の良い唇。少し伸びた前髪を指で払ってやると、瞳がこちらに動いた。焦茶色の虹彩。おおきなてのひらが私の頬を包む。
「夜子、目の色薄いよね」瞳を覗き込まれる。
「そう?」
「うん。初めて会った時から綺麗だなー、と思ってた」そんで見てたらキスしたくなっちゃってさ、と笑う。
「そんな理由で人のファーストキス奪ったの?最低。ほんと女ったらし。やんなるわ」
そっぽ向いて拗ねたふりをしたら、彼は苦笑して、ごめんごめん、と私の髪を撫でた。
「アリスも瞳が茶色いよね。綺麗なの」
「あれカラコンだぞ」
「えっほんと?知らなかった…」
マジかよなんで知らないんだよ!と万里は大笑いする。肩を拳で軽く殴ってやる。なぜか抱き締められた。
「そゆとこほんと可愛い。はー…好き…」ため息混じりに言う。意味がわからん。この辺りのツボが私と全く違う。
抱き締められたまま、彼の肩に少し頭を預けると、また髪を撫でてくれた。
「…ほんとそう。なんで知らなかったんだろ。私、アリスのこと何も知らなかったんだな…。全然、なんにも、気づかなかった」
彼女の恋も、偽の瞳も、何も。
「ときどき、自分がものすごく馬鹿で嫌になる」
呟いたら、万里は身じろぎして、私の目尻を撫でた。
「…離れないようにしなよ。馬鹿でもなんでも、わかってなくても、アリスが好きなんでしょ?だったら遠慮しちゃダメなんだよ。聞きたいことは全部聞いて、言いたいことは全部言わなきゃ。どこへ行ったって、会えなくたって、友達じゃん」
喉元に耳をつけているせいで、万里の声が骨を伝って深く響く。
「いいのかな」
声が掠れた。万里が首を傾けて、私の声を拾おうと耳を寄せるのがわかった。
「私が、好きって言っていいのかな。アリスを知りたいって、離れててもそばにいたいって、言ってもいいの?」
ずっと怖かった。自分の気持ちの方が重たかったらどうしよう、気持ちをぶつけることで相手に顔を顰められたら、戸惑われたら、そう思うと怖くて、ずっと他人と強い関係を築くことが出来なかった。
「いいんだよ。あいつはすんごい夜子が好きなんだから」
「そうなの?」
「そうなの。わかってるでしょ?なんだよ、俺には『好きって言いなさい』なんて強気に出たくせに、なんでアリスに対してはそんな乙女なのさ」
拗ねる。笑ってしまった。
「だって万里はヘタレだから、私がいなきゃダメだと思ったんだもん」
鼻をつままれた。目を合わせて笑う。万里は笑うともともとタレ目なのに更に目尻が下がって、幼くなる。
「アリスもきっと、かっこつけすぎて今頃後悔してるよ。こういう時が女の子同士の腕の見せ所じゃん。言ってやんなよ。『絶対離れねぇぞ』って」
綺麗なアリス。優しいアリス。全部決めて飲み込んでしまったアリス。私の大好きな友達。でも言わなきゃ伝わらない。
よくがんばったね。えらかったね。あなたのどんな選択も全て、あなたにとって正しい。ずっと大好き。どこにいたって、何を選んだって、ずっと。
万里と手を繋いで帰ったその夜、私は彼女に電話をかけた。ありったけを、言葉をもって伝えた。熱を持ったスマートフォンの奥で、アリスは出会って初めて泣いた。庭野さんが好きだと、一緒に暮らした3週間が自分の全てだと。私は彼女の長い話を全部全部聞いて、一緒に泣いた。
この夜をもって、私たちは一生の友達になったのだった。
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