流れよ我が涙、と彼女は言った

応接室の扉が開くと、あの華奢で可憐な姿が現れる。私はル・コルビュジエのソファから立ち上がると両腕を広げて笑って見せた。
夜子は一瞬その表情を崩すと、またぎゅっと薄い唇を引き結んで、大股で私の元へと歩んだ。一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、六歩目でたどり着くやがばりと抱きつかれる。細い腕、絹みたいにしなやかな髪が私の頬に触れ、遅れてあの花のような香り。セーラー服の硬い布地の背中に腕を回して抱き返してあげる。
「…やっぱりあんた乳でかいわね」
わざと軽口をたたくと、夜子は、馬鹿じゃないの、と涙声で応えた。

すぐに泣き止んで説教をされるかと思いきや、夜子はその後存外長い間私の首にかじりついたまま泣き続けたのだった。


一緒に逃げて、と言った時、庭野は明らかに面食らっていた。まさかそんななことを私が言い出すわけがないと思っていたんだろう。それでもそれきり黙る私の顔をじっと見つめて、長い長い間見つめて、ため息をひとつついて立ち上がった。
差し伸べられた手を取ったら、あとはもう、本当に逃げるだけだった。

信じられなかった。夢かと思った。彼があんな風に簡単に生活を捨てて私を取ってくれるだなんて。
夜に紛れて逃げ出して、そのまま狭いビジネスホテルとウィークリーマンションをはしごし、鎌倉の端っこで小さなアパートを借りた。
私のカードを使ったらすぐに足がついてしまうからと言って、庭野は2人の生活にかかる全てを負担してくれた。相変わらずぶっきらぼうで、甘い言葉なんてひとつも吐いてくれなかった。でも一間しかない小さな小さな部屋で、食事を共にし、手を繋いで買い物したり散歩したりして、夜になれば抱かれる生活。これ以上はない。もうなにもいらない。この先何ひとつ望まなくて構わない。そう思えるくらい幸せだった。

おかしいと思いはじめたのはそんな生活を始めて3週間が経った頃だ。特に働きに出るわけでもないのに困らない生活。薄給だと言っていた庭野の貯金を切り崩しているんだろうか?それにしては余裕があり過ぎる。全く動じる様子がない。職を探す気配もない。そろそろバイトでもしようか、と打診してものらりくらりかわされる。
急に恐ろしくなって、逃亡して以来電源を切ったままの携帯を起動した。おびただしい数の着信履歴。父、母、栄達、夜子。夜子夜子夜子夜子夜子、時々万里。両親からの着信は、初日に数件あっただけだった。それからはもうずっと夜子と栄達。
ああ、とその時私はため息をついた。どこまでも私は籠の鳥。花の蜜を与えられて囀るだけの。
そして震え出すディスプレイには「森住夜子」の文字が踊る。スワイプする親指の、ネイルがはげかけていることに、その時初めて気づいた。


       *  *  *


日は沈み、窓の外はすっかり暗い。冷めた紅茶が入ったままのティーカップが虚しそうにテーブルに放置されている。私は夜子が帰った時のまま、ソファにぼんやりと腰掛けて虚空を見つめる。間接照明だけをつけた部屋は薄暗い。一度香絵さんが食事のために呼びに来たけれど、食欲もないのでそのまま帰してしまった。自室に戻ればよさそうなものだがなんとなくその気力もない。手元の携帯を見る気力もない。

がちゃ、と音を立てて応接室の扉が開いた。重たく、きっぱりとした足音。それは自然な速度で私に近づく。毛足の長いラグを踏む音。ひざまづく音。俯いた私の顎に触れる、温かい指。
「思ったより元気そうで何よりです」
「…これのどこが元気に見えんのよ」
目の前にはあの塩顔。端正で腹が立つ。
「顔色もよく、特に体重の増減もなさそうだ。精神的に少し疲れが見えますが、問題になるほどではありません。目立った傷跡などもない。充分に“元気”だ」
私のセーターの手首に長い指を入れ、そっとたくし上げた。手首を持って、裏表を確認するように動かす。
「庭野は女を殴ったりしない」
「もちろん、調査済みですよ」
にっこりと笑う。憎たらしい。
会ったら言いたいことがたくさんあった。
あんたが頼んだの?
ずっと見張ってたの?
なんでこんなことしたの?
私が可哀想?
たくさんたくさんあったはずなのに、今、なんの言葉も出てこない。

「…私を恨みますか?」
意外にも弱い声だった。顔を上げて、塩顔を見る。深い色の黒目。急に泣きたくなった。私は弱くかぶりを振る。
「…ねぇ、ルブタンがいい」
何?と言うように塩顔が私の顔を覗き込む。大きな手がそっと、私の左手の指先を撫でた。
「賭けをしたでしょう?私の勝ちよ。出来レースでも、勝ちは勝ち。ルブタンのケイト。10センチヒール」
それが女の靴のブランドだということは、彼にもわかるはずだ。塩顔は少し思案するように首を傾げて、それから柔らかく頷く。
「…高校生には少し早すぎやしませんか?」
「うるさいわね。8年履いてやるわよ。見てなさい」
彼は苦笑した。
いいんだ、私はこの思い出だけを持って生きて行く。一瞬でも私だけのものになったあの腕の温もり。あの夢みたいな3週間。それでもう、充分。

充分、幸せ。
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