流れよ我が涙、と彼女は言った

「森住」
朝、いつになく鋭い声で呼ばれて振り返る。声の主を探して視線を彷徨わせると、花島田君の特徴的な眉毛が至近距離で現れた。うわ、と戸惑う暇もなく手首を掴まれた。ちょっと来て、と言うや、あれよあれよと教室から連れ出されてしまう。途中で彼は視線を私の後方に送りながら、早足(私で言えばマラソンペースだ。万里ほどではないが私より頭ひとつ分大きな彼のコンパスは、当然私より遥かに長い)で中庭へと向かった。
立ち止まって初めて、花島田君は自分が私の手首を掴んで引きずってきたことに気づいたらしく、慌てたように手を開いた。すまん、と謝られる。私はお気になさらず、という意味を込めて、解放された右手と左手を使って、胸の前で両手を開くジェスチャーをした。程なくして背後から大きな手のひらが私の両肩を包んだ。
「花ちゃん、どした?」
頭上から慣れたテノールが降ってくる。
さっき後方に送っていた視線は万里に向けてのものだったか。流石、幼馴染たちに次ぐ「ツーカー」だ。
いつも飄々としている花島田君だが、珍しく余裕がない。そもそもこんな風に連れ出されるなんて、よっぽどのことだ。私も無言で、真剣に、話を聞く体勢。
「森住、最近有朱と連絡取ったか?」
虚をつかれた。へ?と間抜けな声を出してしまう。それから記憶を掘り返す作業。
「先月家に泊まりに行ったけど、最近は…先週くらいにLINEしたきりかも…」
他愛のない会話だ。最近サブスクをdigって見つけたアーティストの話とか、そんなの。そう言えばそれきりだ。いつもなら2日に1度はLINEしてる。
「いなくなったんだ。丁度1週間前からいない」
「いないって、家に帰ってないってこと?」
花島田君は頷いた。
「実は先週、有朱の母親からうちのお母様に問い合わせがあったんだ。帰ってこない、そっちに行ってないかって。当然うちには来ていない。それから騒ぎになっていたらしいんだが、俺がそれを聞かされたのが昨夜で」そこで彼は一度息を吐いた。「どうして身内の大人同士だけで話が止まっていたかと言うと…情けないが世間体の話だ」
「世間体?」
「…いなくなったのは有朱だけじゃない。庭野もなんだ。おそらく一緒に、逃げたんじゃないかと、言われてる」
すっと目の前が少し暗くなったような気がした。膝がかくりと抜けそうになった私の肩を、万里がぎゅっと抱いて支えてくれる。思わずその身体にしがみついた。
「庭野って、あのいつもアリスと一緒にいる運転手?いや、まぁ付き合ってんだろうなーとは思ってたけど…正直連れて逃げてくれそうな奴には見えなかったなー。立場的にも…冷たいこと言うようだけどさぁ…」
「…お見合い」私は万里の身体から手を離した。自分の胸に手のひらをあてる。いつもより少し鼓動が速い。「お見合い、したって…」
「は?見合いって…まだあいつ17とかでしょ?早すぎない?昭和じゃあるまいし」
万里が呆れたように言う。
「そもそも決まってるんだ、相手は。結構前からな。残念ながらそういう世界なんだよ日下」
まじかよ、と万里は心底嫌そうな顔をした。
「実際に結婚するのは8年とか10年とか先だって。でも、それでも嫌だよね。今の恋愛の終わりが絶対に決まってるなんて」
「…そういう立場だ」
「でも!」
思わず花島田君に食ってかかる。存外大きな声が出てしまって、ちらほらいる生徒たちの視線が一気にこちらに集中した。首を縮めると、万里が私の頭をどうどうと撫でてくれる。ついでに「ごめんねーなんでもないよー」と周囲に愛想を振りまいた。
「叔父様としてはあの見合いは釘を刺すつもりでもあったんだろうな。庭野とどうこうというのは、俺も含めて大人は気づいてなかったんだろうけど、有朱が遊んでることは、本人が思ってるよりバレてたから…」
「…2人で逃げたんだと仮定して、もし見つかったらどうなっちゃうの?庭野さんはアリスのお父さんの秘書なんでしょ?政治家の秘書って、みんな政治家志望なんじゃないの?2人の仲を認めてあげることはできないの?」
花島田君は私を心から憐れむような目をした。縋るような気持ちで万里の顔を見上げると、彼も申し訳なさそうに眉を下げる。
「…庭野って第何秘書よ?花ちゃん」
「俺も正直庭野がどこから来た人間なのかよく知らん。知らんが、釣り合いが取れる立場も後ろ盾もないことは知ってる。大体あいつは30手前くらいだろう?それが未成年の少女連れて消えたんだぞ。普通なら警察沙汰だ。でもそうならないようにしてる。なんでかわかるか?」
でも。だって。反論の枕詞だけがぽろぽろとこぼれ落ちる。万里が優しく髪を梳く感触さえ虚しく感じてしまう。
「発端は有朱で、だからこそとっとととっ捕まえて引き離そうってことなんだろう。マスコミやらに嗅ぎ付けられる前にな」
そんな風に踏みにじられるなんて、あんまりだ。私はスマホを取り出して、アリスに電話をかける。たりらたりらたりらりらん、と呑気な発信音が数度鳴るが、繋がる気配はない。何度もかけ直す。鳴っては切れ、鳴っては切れを繰り返し、何十回目かで今度は予鈴が鳴った。それでもスマホを操作しては耳に充てる私の動きを封じるように、花島田君の手がやんわりと私の手からスマホを取り上げた。もういいよ、と言う。
「巻き込んで悪かった。ありがとう。でも、もし、万が一有朱から連絡があったら教えてほしい。いいか?」
返されたスマホを受け取って、私はこくりと頭を動かした。予鈴のせいで、中庭周辺から人がすっかりはけている。それを確認するように視線を巡らせてから、万里が私を胸に抱き寄せた。とんとんと大きな手のひらが背中を優しく叩いてくれる。その顔を見上げると、彼は困ったように微笑んでから、私の頬を親指で撫でた。教室行ける?と聞かれる。きっと今の私はひどい顔をしているんだろう。ぎゅっと目を瞑って自分の頬を両の手のひらでぱちんと叩いてから、大丈夫、と笑ってみせた。

アリス、今どこにいる?何を考えてる?

こんな時、私は、私たちは子供で、何も変えることができない。何もすることができない。大切な友達が一世一代の恋のために全部捨てたというのに。悲しくなって切なくなって涙がこぼれそうになったけど、唇を噛んで堪えた。
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