流れよ我が涙、と彼女は言った
放課後、少しだけ部室に寄ってから、帰ろうと下駄箱に行くと、線の細い影が玄関の扉にひたりと貼り付いていた。茶色いふわふわの髪に細い肩。近づくにつれて輪郭がはっきりしてきて、それが雛姫だとわかった。
「雛姫?」
声をかけると、びくりと肩を震わせてからこちらを振り向く。夜ちゃん、と惚けたように呟いた。
急に降り出した雨はさほど強くはないが、まとわりつくように外の世界を濡らしている。ピンクの花柄の折り畳み傘を握りしめた彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
何かあったのかな、聞いた方がいいのかな、それとも聞かない方がいいのかな、と逡巡したが、結局、彼女から何か言ってくるまでは余計なことは言わないようにしよう、と思い直して、私もリュックから折り畳み傘を取り出した。カバーを外して、柄を伸ばす。2、3度降って解いてから根元を押し開いた。作りものの青空が広がる。雛姫は私の折り畳み傘の柄を見て少し目元を和ませた。
「綺麗、ね」
「いいでしょ。“雨の日でも、青空”」
笑顔を向けると、ん、と返事して少し笑い返してくれる。雛姫も自分の折り畳み傘を開いて、私たちは一緒に雨の中に入った。
雨に煙る街は全ての輪郭がぼやけて見える。ローファーを動かすたびに、アスファルトに水の輪が生まれる。雨は嫌いじゃない。潤して流して綺麗にしてくれる雨。
私たちは無言でゆっくり歩いた。雛姫は何か言いたげで、でも言葉が見つからないようで、花柄の傘の柄を強く握ったり放したり、私の方を見たり目を逸らしたりしている。別に話してくれなくてもいい。でも、話したいなら話して欲しい。苦しいなら吐き出して欲しい。友達が悲しそうにしているのは、見ていて胸が痛む。ただそれだけだ。
やっぱり私からは何も言うまい、と決意を新たにした時、雛姫が掠れる声で小さく言った。
「誰かと」
え?と聞き返す。雨音にかき消されてしまいそうになる。彼女は瞳を揺らしながらこちらを見ていた。
「誰かと、例えば大事な友達と、欲しいものが一緒になってしまったら、夜ちゃんはどうする?」
花が雨に濡れている。
「それは、ひとつしかないもの?」
「うん」
「ふたつに分けたりも、できないもの?」
「うん」
うーん、と私は考える。雛姫が何を言いたいのかは、もうわかっている。真と何かあったのかな。でも2人は今日もとても仲良く過ごしていた。いやいや、これは下衆の勘繰りだ。聞かれたことに真摯に答えるのが今の私の役割。
「…私なら、譲らない。どうしても欲しいんだって気持ちを、相手に伝えるかな」
雛姫は黙って俯いた。私たちは赤信号で立ち止まる。ここを渡ったら、別れ道。
「でもね、“物”なら多分そこまで執着しないかも。“人”だったら」顔を上げた雛姫の視線を捉えた。「欲しいのがね、“人”だったら、決めるのは私じゃない。彼に決めてもらう」
ぴっぽう、と信号機が鳴く。青い光が濡れた道路に落ちて滲む。
「だってそうだよね。いくらこっちで取り合ったって、選ぶのは“彼”だもん」
ぴっぽう、ぴっぽう、ぴっぽう。青い光は点滅して、また赤くなる。雛姫の顔がぐしゃりと歪んだ。わたし、と小さな唇が震えた。
「でも、私、“ずるい”って思っちゃった。先に言うなんて“ずるい”って。約束したのに。“縛らない”“自由だ”って。それなのに私…」
汚い、と零した。そうか、もう事態は動いているんだ。私は傘の柄をぎゅっと握りしめた。
「そんなの、誰だって思うよ。先越されたら。雛姫はなんにも悪くない。汚くなんかない」
うん、と雛姫は唸るように言った。ありがとう夜ちゃん。だいすき。また、明日ね。
届かないのがわかって、私は肩を落とした。雛姫は閉じたように悲しく虚ろな目を細めて笑った。私、こっちだから、と小さく小さく言って、また青くなった信号を今度こそ渡る。踵が水たまりを渡って跳ねた雨水がまた濡れたアスファルトに頼りなく溶ける。彼女は振り返らない。
うん、また、明日ね。私も声なく唇を動かして、ただただその華奢な背中が家々の間に消えるまで見送ったのだった。
「雛姫?」
声をかけると、びくりと肩を震わせてからこちらを振り向く。夜ちゃん、と惚けたように呟いた。
急に降り出した雨はさほど強くはないが、まとわりつくように外の世界を濡らしている。ピンクの花柄の折り畳み傘を握りしめた彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
何かあったのかな、聞いた方がいいのかな、それとも聞かない方がいいのかな、と逡巡したが、結局、彼女から何か言ってくるまでは余計なことは言わないようにしよう、と思い直して、私もリュックから折り畳み傘を取り出した。カバーを外して、柄を伸ばす。2、3度降って解いてから根元を押し開いた。作りものの青空が広がる。雛姫は私の折り畳み傘の柄を見て少し目元を和ませた。
「綺麗、ね」
「いいでしょ。“雨の日でも、青空”」
笑顔を向けると、ん、と返事して少し笑い返してくれる。雛姫も自分の折り畳み傘を開いて、私たちは一緒に雨の中に入った。
雨に煙る街は全ての輪郭がぼやけて見える。ローファーを動かすたびに、アスファルトに水の輪が生まれる。雨は嫌いじゃない。潤して流して綺麗にしてくれる雨。
私たちは無言でゆっくり歩いた。雛姫は何か言いたげで、でも言葉が見つからないようで、花柄の傘の柄を強く握ったり放したり、私の方を見たり目を逸らしたりしている。別に話してくれなくてもいい。でも、話したいなら話して欲しい。苦しいなら吐き出して欲しい。友達が悲しそうにしているのは、見ていて胸が痛む。ただそれだけだ。
やっぱり私からは何も言うまい、と決意を新たにした時、雛姫が掠れる声で小さく言った。
「誰かと」
え?と聞き返す。雨音にかき消されてしまいそうになる。彼女は瞳を揺らしながらこちらを見ていた。
「誰かと、例えば大事な友達と、欲しいものが一緒になってしまったら、夜ちゃんはどうする?」
花が雨に濡れている。
「それは、ひとつしかないもの?」
「うん」
「ふたつに分けたりも、できないもの?」
「うん」
うーん、と私は考える。雛姫が何を言いたいのかは、もうわかっている。真と何かあったのかな。でも2人は今日もとても仲良く過ごしていた。いやいや、これは下衆の勘繰りだ。聞かれたことに真摯に答えるのが今の私の役割。
「…私なら、譲らない。どうしても欲しいんだって気持ちを、相手に伝えるかな」
雛姫は黙って俯いた。私たちは赤信号で立ち止まる。ここを渡ったら、別れ道。
「でもね、“物”なら多分そこまで執着しないかも。“人”だったら」顔を上げた雛姫の視線を捉えた。「欲しいのがね、“人”だったら、決めるのは私じゃない。彼に決めてもらう」
ぴっぽう、と信号機が鳴く。青い光が濡れた道路に落ちて滲む。
「だってそうだよね。いくらこっちで取り合ったって、選ぶのは“彼”だもん」
ぴっぽう、ぴっぽう、ぴっぽう。青い光は点滅して、また赤くなる。雛姫の顔がぐしゃりと歪んだ。わたし、と小さな唇が震えた。
「でも、私、“ずるい”って思っちゃった。先に言うなんて“ずるい”って。約束したのに。“縛らない”“自由だ”って。それなのに私…」
汚い、と零した。そうか、もう事態は動いているんだ。私は傘の柄をぎゅっと握りしめた。
「そんなの、誰だって思うよ。先越されたら。雛姫はなんにも悪くない。汚くなんかない」
うん、と雛姫は唸るように言った。ありがとう夜ちゃん。だいすき。また、明日ね。
届かないのがわかって、私は肩を落とした。雛姫は閉じたように悲しく虚ろな目を細めて笑った。私、こっちだから、と小さく小さく言って、また青くなった信号を今度こそ渡る。踵が水たまりを渡って跳ねた雨水がまた濡れたアスファルトに頼りなく溶ける。彼女は振り返らない。
うん、また、明日ね。私も声なく唇を動かして、ただただその華奢な背中が家々の間に消えるまで見送ったのだった。