革命前夜のメタモルフォーゼ
「うわーぁ!ななちゃんだめだめストップストップ!!」
慌てる私と同じくらい動揺するドライバーは、しかし慎重にハザードランプのスイッチを押しながら、ゆっくりと歩道の脇に寄せて車を停車させた。
私はすかさずシートベルトを外すと、縁石にドアの裾を擦らないように注意しながら開け、傘を開いた。そのまま20メートルほど後ろに駆け出す。
目指す相手は歩道に立ち尽くしている。白百合女学院中等部の白いブレザーにベレー帽。緑色の折り畳み傘。その全てが完膚なきまでに濡れている。先程彼女の横を車で通過した際に、盛大に水たまりの水を跳ね上げたのだ。私は濡れ鼠となってしまった彼女に駆け寄ると、とりあえずの慰めにハンカチを差し出した。
「本当にごめんなさい。大丈夫ですか?」
濡れそぼったまま何故だかぼんやりとしていた彼女は、顔を私の方に向ける。全体的に色素が薄く、すっきりした顔立ち。背は私と同じくらいか。年はもしかしたらひとつふたつ下かもしれない。ああ、と彼女は呟いて、私の手からハンカチを受け取ってぺこりと頭を下げた。その前髪からも水が滴っている。
「や、たいしたことないんで…あれ?へー?」
ハンカチで髪を拭きながら初めて真正面から対峙して、彼女は訝しげな顔をした。
「へー?」鸚鵡返ししてしまう。
「いや、違うか。ちゃんと女の子だな…その制服、東一中の人?」
「あっ、うん、そう…。『へー』ってもしかして天野君のこと?」
「うん。知ってる?天野平」
一通りぱたくたと髪や顔を拭いながら、彼女は質問した。
「クラスメイトです。私は森住夜子。あなたは…」
「私、天野成。妹。へーの。」
「ええっ!」
似ていない。あまりにも。しかもこの偶然はなんなんだ。思わず慌てて二の句を継げずにいると、痺れを切らしたと見える七瀬が車から降りてきた。
「大変申し訳ない!大丈夫ですか?」
あ、いや、と成さんは無表情に手を振った、が。
「…ひでぇ濡れてんな…白百合の子かー。その白い制服はクリーニングに出さないとだめだな…」
泥水を引っ被って、白く可憐な白百合女学院中等部の制服は、薄汚れた麦茶色に染まっている。
「ねぇ、成さんさ、うちに来ない?車ですぐだから」
「あれ、夜子知り合いか?」
「うん…いや、正確にはクラスメイトの妹さん、らしい」
そこで成さんは初めてクスリと笑った。
「あなたの方がよっぽど身内だね。クラスで似てるって言われない?へーに」
「…それはもう」
私が眉を下げると、成さんはふひひ、とおかしそうに笑う。
「そういうことならさ、夜子、彼女の親御さんに連絡できない?ひとまずうちに行こう。制服は預かって、風呂と着替え貸そうよ。このままじゃ風邪ひく」
そうだね、と私は応じて成さんに向き直った。
「そんなわけだからぜひ。お家の人に連絡できないかな?」
それでは、と成さんはポケットをさぐる。しかし叶わず背中に背負っていた指定鞄をひっくり返すも、どうやら携帯電話が見当たらない様子だ。
「ごめん、家に忘れたっぽい…」しょんぼりとうなだれた。
「天野君て携帯持ってないんだよね…流石に家電は私も登録してないし…あ」
「?」
思いついたのは妙案だが少し気が引けた。しかし背に腹は変えられない。
「…日下君に連絡したら、親御さんに繋いでくれるかな?」
「万ちゃん?」
『万ちゃん』て呼ぶんだ。ファンクラブの子達が呼ぶのとはまた違うニュアンスだ。もっと身内感覚の親しみがある。なんとなく口元がほころんでしまった。
いい?と確認すると、彼女は少しはにかんでからこくりとうなずいた。立ち話も限界だ。とにかく車に3人で乗り込んでから、万里に電話をかける。
『夜子?どした?』
ワンコールで出るあたりが嬉しいような怖いような。
『日下君?3Dの森住です。』もちろん成さんの手前、少し距離を取った。『あのね、私今天野君の妹さんといるんだけど…』
『えっ成ちゃん?なんで?』
『叔父の車が泥水はねかしてくれて、それをかけちゃってね、制服ドロドロにしちゃったから、うちに連れて行きたいんだけど…天野君の親御さんに連絡取りたいんだ。成さん携帯忘れちゃったみたいで…』
『なるほど、はいはい。今直接昭さんに繋ぐからちょっと待って』
万里がそう言うと、電話は繋いだままどこかに移動するようだ。なるほど「直接」ね。直にお隣さんに行ってくれようという腹だろう。
『成ちゃん、あんま似てないでしょ、平に』
『あ、うん。そうだね』
『上にもうひとり、高3の兄ちゃんがいてさ、そっちとお父さんにそっくり。そんで、昭さんと平がそっくり。面白いよ』
思わず笑ったところで、どうやら万里は天野家に到着した様子。ちわー、と軽い挨拶をしながら扉を開く音がスピーカー越しに聞こえた。二言三言女性との会話らしき音が聞こえてから、もしもし、と甘いソプラノに変わった。
「突然失礼します。私、東一中3年D組の森住夜子と申します」
『はぁい、お聞きしましたよぉ。ごめんなさいねうちの成ちゃんが』
鈴の鳴るような可愛らしい声と、のんびりおっとりしたトーン。天野君のお母さん、と言われるとなんだか想像し辛い。
「とんでもない。ご迷惑おかけしたのはこちらです。それで成さんにうちに寄って頂きたいんですけども…ちょっと本人に代わりますね」
そう言って私は後部座席の成さんにスマホを渡した。
「…あ、お母さん?うん、そう。たまたまへーと万ちゃんのクラスメイトさんで…うん…うん…うん、わかったそうする」
そこで、七瀬が成さんにスマホを渡すようにジェスチャーした。また、選手交代。
「初めまして。夜子の叔父の七瀬と申します。このたびは大変申し訳ありません。お嬢さんには我が家で着替えて頂いて、ちょっと制服の損傷がひどいんでクリーニングしてからお返しを…いやいやいやいやほんとにこちらの落ち度ですから…申し訳ない。落ち着いたらお宅までお送りいたしますので…そうさせてください…ええ…ええ…ありがとうございます。ではまた後ほど」
最後にスマホを返してもらうと、万里にお礼だけ言って通話終了。お世話になります、と頭を下げる成さんを乗せて、我が家へと向かったのだった。
慌てる私と同じくらい動揺するドライバーは、しかし慎重にハザードランプのスイッチを押しながら、ゆっくりと歩道の脇に寄せて車を停車させた。
私はすかさずシートベルトを外すと、縁石にドアの裾を擦らないように注意しながら開け、傘を開いた。そのまま20メートルほど後ろに駆け出す。
目指す相手は歩道に立ち尽くしている。白百合女学院中等部の白いブレザーにベレー帽。緑色の折り畳み傘。その全てが完膚なきまでに濡れている。先程彼女の横を車で通過した際に、盛大に水たまりの水を跳ね上げたのだ。私は濡れ鼠となってしまった彼女に駆け寄ると、とりあえずの慰めにハンカチを差し出した。
「本当にごめんなさい。大丈夫ですか?」
濡れそぼったまま何故だかぼんやりとしていた彼女は、顔を私の方に向ける。全体的に色素が薄く、すっきりした顔立ち。背は私と同じくらいか。年はもしかしたらひとつふたつ下かもしれない。ああ、と彼女は呟いて、私の手からハンカチを受け取ってぺこりと頭を下げた。その前髪からも水が滴っている。
「や、たいしたことないんで…あれ?へー?」
ハンカチで髪を拭きながら初めて真正面から対峙して、彼女は訝しげな顔をした。
「へー?」鸚鵡返ししてしまう。
「いや、違うか。ちゃんと女の子だな…その制服、東一中の人?」
「あっ、うん、そう…。『へー』ってもしかして天野君のこと?」
「うん。知ってる?天野平」
一通りぱたくたと髪や顔を拭いながら、彼女は質問した。
「クラスメイトです。私は森住夜子。あなたは…」
「私、天野成。妹。へーの。」
「ええっ!」
似ていない。あまりにも。しかもこの偶然はなんなんだ。思わず慌てて二の句を継げずにいると、痺れを切らしたと見える七瀬が車から降りてきた。
「大変申し訳ない!大丈夫ですか?」
あ、いや、と成さんは無表情に手を振った、が。
「…ひでぇ濡れてんな…白百合の子かー。その白い制服はクリーニングに出さないとだめだな…」
泥水を引っ被って、白く可憐な白百合女学院中等部の制服は、薄汚れた麦茶色に染まっている。
「ねぇ、成さんさ、うちに来ない?車ですぐだから」
「あれ、夜子知り合いか?」
「うん…いや、正確にはクラスメイトの妹さん、らしい」
そこで成さんは初めてクスリと笑った。
「あなたの方がよっぽど身内だね。クラスで似てるって言われない?へーに」
「…それはもう」
私が眉を下げると、成さんはふひひ、とおかしそうに笑う。
「そういうことならさ、夜子、彼女の親御さんに連絡できない?ひとまずうちに行こう。制服は預かって、風呂と着替え貸そうよ。このままじゃ風邪ひく」
そうだね、と私は応じて成さんに向き直った。
「そんなわけだからぜひ。お家の人に連絡できないかな?」
それでは、と成さんはポケットをさぐる。しかし叶わず背中に背負っていた指定鞄をひっくり返すも、どうやら携帯電話が見当たらない様子だ。
「ごめん、家に忘れたっぽい…」しょんぼりとうなだれた。
「天野君て携帯持ってないんだよね…流石に家電は私も登録してないし…あ」
「?」
思いついたのは妙案だが少し気が引けた。しかし背に腹は変えられない。
「…日下君に連絡したら、親御さんに繋いでくれるかな?」
「万ちゃん?」
『万ちゃん』て呼ぶんだ。ファンクラブの子達が呼ぶのとはまた違うニュアンスだ。もっと身内感覚の親しみがある。なんとなく口元がほころんでしまった。
いい?と確認すると、彼女は少しはにかんでからこくりとうなずいた。立ち話も限界だ。とにかく車に3人で乗り込んでから、万里に電話をかける。
『夜子?どした?』
ワンコールで出るあたりが嬉しいような怖いような。
『日下君?3Dの森住です。』もちろん成さんの手前、少し距離を取った。『あのね、私今天野君の妹さんといるんだけど…』
『えっ成ちゃん?なんで?』
『叔父の車が泥水はねかしてくれて、それをかけちゃってね、制服ドロドロにしちゃったから、うちに連れて行きたいんだけど…天野君の親御さんに連絡取りたいんだ。成さん携帯忘れちゃったみたいで…』
『なるほど、はいはい。今直接昭さんに繋ぐからちょっと待って』
万里がそう言うと、電話は繋いだままどこかに移動するようだ。なるほど「直接」ね。直にお隣さんに行ってくれようという腹だろう。
『成ちゃん、あんま似てないでしょ、平に』
『あ、うん。そうだね』
『上にもうひとり、高3の兄ちゃんがいてさ、そっちとお父さんにそっくり。そんで、昭さんと平がそっくり。面白いよ』
思わず笑ったところで、どうやら万里は天野家に到着した様子。ちわー、と軽い挨拶をしながら扉を開く音がスピーカー越しに聞こえた。二言三言女性との会話らしき音が聞こえてから、もしもし、と甘いソプラノに変わった。
「突然失礼します。私、東一中3年D組の森住夜子と申します」
『はぁい、お聞きしましたよぉ。ごめんなさいねうちの成ちゃんが』
鈴の鳴るような可愛らしい声と、のんびりおっとりしたトーン。天野君のお母さん、と言われるとなんだか想像し辛い。
「とんでもない。ご迷惑おかけしたのはこちらです。それで成さんにうちに寄って頂きたいんですけども…ちょっと本人に代わりますね」
そう言って私は後部座席の成さんにスマホを渡した。
「…あ、お母さん?うん、そう。たまたまへーと万ちゃんのクラスメイトさんで…うん…うん…うん、わかったそうする」
そこで、七瀬が成さんにスマホを渡すようにジェスチャーした。また、選手交代。
「初めまして。夜子の叔父の七瀬と申します。このたびは大変申し訳ありません。お嬢さんには我が家で着替えて頂いて、ちょっと制服の損傷がひどいんでクリーニングしてからお返しを…いやいやいやいやほんとにこちらの落ち度ですから…申し訳ない。落ち着いたらお宅までお送りいたしますので…そうさせてください…ええ…ええ…ありがとうございます。ではまた後ほど」
最後にスマホを返してもらうと、万里にお礼だけ言って通話終了。お世話になります、と頭を下げる成さんを乗せて、我が家へと向かったのだった。