革命前夜のメタモルフォーゼ

描きたいのは光だ。淡く強くたおやかな光。
セラミックの鮮烈さと、ジンクの透明感、チタニウムの強烈な純度、全部を併せ持った圧倒的な白を探す。油彩で引き算はできない。塗り始めたら、塗り重ねることでしか前へは進めない。混ぜて、乗せて、また混ぜる。まるで今の私。

「ねーぇ、何描いてんのー?」
気怠く言うと、彼女は後ろ前にした椅子に寄りかかるように座って、自分の髪を一房、蛍光灯の光にかざすように引っ張った。聞いた割にまるで興味のなさそうな態度で、美しい脚を組み替えた。
「光と羽ですわ、お姉様」
棒読みで返してやると、美脚の持ち主は私をじとりとねめつけた。
「かわいくないなぁ、ぷーか。そんなんじゃ姉ちゃん帰ってこないよー?」
「不躾なこと平気で言うよな、あんた…」
姉が消えてもう半年以上経つ。今じゃ誰も彼も腫れ物通り越して『無かったこと』にしてくる始末。どこかの児童小説に出てくる『名前を読んではいけないあの人』ばりに避けまくられている。しかしこの女はそんなこと微塵も気にしない。事あるごとに「おーか先輩帰ってきたぁ?」「どこにいんだろねー」「いないと寂しくなーい?」である。まぁお陰でこちらも気兼ねせずに愚痴る事ができる。繊細で少女趣味なくせに大胆な姉は、純然たる自由意志でお守りのクレジットカードを携えて『家出』をしたのだ。それがわかっているからこそ、理由も承知しているからこそ、ではあるが。

この女はその『名前を読んではいけない姉』が可愛がっていた後輩だ。どこぞの官僚の、鉄壁の外面を持つ不良娘。このお嬢様学校監獄で、家柄学力美貌身体能力芸術性全てを兼ね揃えた『お姉様』を演じながら、夜は飲み屋で薄着でアニタ・オディを歌うと言うんだから、大したものだ。

「アリスお姉様さぁ」
「それやめてよ。ウザい」
アリスは嫌そうに鼻の頭にシワを寄せる。面白い。私は素直に笑った。
「アリス“先輩”さ、あれどうなったの?見合い」
ああ、あれね…とつまらなそうに呟いたところで、からりと美術室の扉を引く音が聞こえた。
やけに細く開けた隙間に薄い身体を押し込むようにして、後輩が入ってくる。色素の薄い容貌に表情の乏しい顔。ひょろりと長い手足。中等部生徒から「みんなの彼氏」として絶大な人気を誇る天野成だ。
天野は手近な椅子を引きずってこちらへ近づくと、当然のようにアリスの横に椅子を置いて腰を下ろした。アリスはすかさずその髪をさらさらと撫でる。
「成ひさしぶり。相変わらず可愛いわね」
こういう行動で数多の下級生を手玉にとってきたと言うのに。
「先輩のがキレーじゃん」
当の天野はアリスの『女殺しビーム』なぞどこ吹く風だ。大物だね全く。
「ありがとー。相変わらずその調子で女子達薙ぎ払ってんの?罪深いわねーほんと」
「別に普通だよ。ところでなんでアリス先輩いっつも中等部ここにいんの?」
「友達いないんだもん」悪びれもせずに言う。
「嘘。」天野は無表情なくせにつまらなそうな声を出した。「いっつもいっぱい周りに人がいるじゃん」
後輩のあまりに純粋な返答に、アリスはシニカルに笑った。
天野はとても安直純粋だ。まるで幼児のように真っ直ぐにものごとを見る。馬鹿だということではない。純然たる性善説で生きる無垢な天使なのだ。
「あれは『友達』ではないわね。でも愛しては、いますけどね」
あい?と天野は眉間にシワを寄せる。これ幸いとアリスはその天野の華奢な身体を抱きしめた。かんわいいいわねぇぇあんたはぁぁ!と頬擦りまでする始末だ。まぁ、端的に言って天野は可愛い。可愛くて、少し心配だ。
「あ、ねぇアリス先輩。あれどうなったの?お見合い」
本日2度目の質問に、アリスはゆっくりと瞬きしてから答える。
「可もなく不可もなく」
噴き出す私をぎらりと睨んだ。
「その人と結婚するの?」
「8年後にね」
「なんで8年?」
「だってまだ遊びたいじゃん。お互いに」
「8年後って…アリス先輩今いくつ?」
「17」
「25歳か…想像できないね」
できないよ。と言ってアリスは爆笑した。天野は至って真面目だ。ぴくりとも笑わずにアリスを見つめて小首を傾げる。
「8年経ってさ、結婚したくなかったらどうすんの?」
「さぁ…どうしようかな。ぶっちする?」アリスはまともには応じない。彼女はいつだってそうだ。自分の話はまともにしようとはしない。人には親身になって寄り添おうとするくせに、自分のことは粗末にする。誰にも踏み込ませない。
「できんのかよそんなこと。あの『お父様』に勝てんの?」
つい苛立った声を挟んでしまった。天野が興味深そうに私を見た。
「好きな人とか、いるんじゃないの?本当は…」
「いないよぅ、こんなとこでそんな出会いないでしょうが」
「出会いなんて…」
「風香」
突然名前を呼ばれて、私は口をつぐんでしまう。アリスは黙って立ち上がると、突然、全く突然私に抱きついた。首に腕を回して、ぎゅうう、と抱きしめられる。細い腕だ。花のような香り。長い髪が私の頬にさらさらと触れる。
「ありがとう風香。愛してる」
「はぁぁ?」
思わず脱力してしまう。一体何考えてんだこの女は。
「私は?」
横から天野が無表情な顔を突き出した。
「天野、お前なぁ…」
呆れる私の首から手を解くと、アリスはまたにっこりと笑って、「成だって愛してる。大好きよ」と言って抱きしめた。大きく表情は崩れないが、天野は心なしか嬉しそうにしている。なんだかんだと、ちゃんと末っ子気質も持ち合わせている奴だ。
うやむやに3人でなんとなく抱き合う。静かな美術室に、夕刻に近い光が空から降りる梯子のように差し込んでいる。
意味なく笑い転げたり、中身のない話を延々したり、いつまでも走り回ったり、理想の誰かについて思いを巡らせたり、全部今だけの特権だ。この少女期モラトリアムの。今のこの瞬間だってそう。面倒臭くて愛おしい、この。

この1ヶ月後、小早川有朱は父親の秘書と共に姿を消すことになる。
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