星の王子様

弓の毛を緩める。それから弦と本体に付いた松脂と皮脂を布でざっと拭き取って、ケースにそっと収めたところで、ふっと目の前に大きな影が落ちた。暖かい息が頬にかかったかと思うと、唇を犬のようになめられる。視界にはもちろんあの可愛いちょっと垂れ目の瞳。
「…唇冷たい。何時間外で弾いてたの?」
背後から私の身体を囲うようにテーブルに両手をついて、万里は言った。
「1時間弱かな」
「夜子風邪ひきやすいんだから、気をつけてよ」
はぁい、と返事をすると、軽く音を立てて唇を啄まれた。扉の向こうが少し気になったけど、大きな右手を触ってから頬にキスを返す。万里は綺麗に笑って、私の身体を包むように抱きしめると、左手の親指を使って唇と歯をやんわりこじ開ける。舌を舐められる。ゆっくり絡ませてから唇を合わせた。万里のキスは優しくて濃くて気持ちいい。
本当だったらこんな風に扉一枚隔てた向こうに人がいる状況、絶対に嫌なんだけど、ライブ後で少し気分が高揚してる。タガが緩んでる。盛り上がりすぎない程度に何度かキスを繰り返した。
「今日は何の集まりなの?」
「忘年会だよ。年越しを男5人で過ごします。健全でしょ?」
「家族旅行すっぽかして?」
それなー、と万里は眉を下げる。
「夫婦水入らずしとけばいいの、あの2人は!今更照れるから旅行とか耐えらんない…今年ようやく逃げ出したんだからもー勘弁して」
弱り切った顔が可愛くて私は笑った。万里は私を抱きしめたまま、旅行は夜子と行きたいなー、と甘えるように言う。
「そのうちね。もう少し大人になったら」
「温泉とかいいよね。布団でえっちしてみたい」
「…そんなことばっかり考えてんのね…。どうせこの後も男の子ばっかりでAVとか観るんでしょー」
「ま、そういう局面もありますよね」
薄いほっぺたを摘んでやると、鼻にキスされた。
「彼、どういうお友達?」
「んー、まぁ昔の知り合いでー、ちょっと前に偶然再会してー、なんだかんだでオトモダチよ」またそうやってごまかす。
「夜遊び仲間でしょ」
ばれたか、と万里は舌を出した。
「『ニヴルヘイム』では見かけない顔だけど…万里って、一体どこまで行動範囲だったの?まさか『loop』の子じゃないでしょうね…」
『loop』はあまり性質の良くないクラブだ。たまに行っていたようなので、近寄らないで欲しいと以前にお願いしたことがある。むくれる私の頬を撫でて、万里は、ちがーうよ、と甘い声で言った。
「ダーツバーの方。『child pray』って知ってる?」
「…知ってる。あんな方まで行ってたの?もー…」
『child pray』は大分町外れだ。信じられないほど行動範囲が広い。当然、「オトモダチ」までの間に一悶着もふた悶着もあったんだろう。太良くんたちの件で少し分かったけど、この幼馴染みたちはトラブルホイホイの気質がある。私に言わないあれやこれやも山程あるんだろうな。私は深いため息をついた。その様子に万里は苦笑する。いい気なもんだな。心配する方の身にもなってよ。
「秋口からずっと入院しててさ、マサキ。あ、あいつの名前ね。顕上真幸。今日明日一時退院で、またすぐ病院に戻らなきゃいけないんだ」
彼と初めて会ったのは、ボランティア演奏に行った総合病院だ。県内唯一の小児専門医療センターで、県内外から大病を患う子供達が集まる。もちろん普通の診療も行っているけど、待ち時間が半端ないので、必然と「本当にその病院でなければならない人々」ばかりになる。あの時会った彼は、長期入院患者特有の「勝手知ったる」雰囲気があった。そういうことなんだろう。
そう、と私が重く頷くと、万里はまた私の顎を持ち上げて、濃い目のキスをくれた。
1年の1番最後に万里に会えて嬉しい。キスしてもらえて、触ってもらえて幸せ。思わず心がゆるゆる蕩けてしまいそうになった時、とん、と軽い足音がした。

「ふーん、『男がいる』って万里のことか」
ぶわ、と肌が泡立って、とっさに逃げようとする私の身体を、万里ががっちりと抱きしめて押さえ込んだ。
「そーだよ。だから手ぇ出したらだめ」
べえ、と万里が舌を出した先にはマサキ君。やっぱり、さっき外で見た時もそう思ったけど、夏に会った時より痩せた。背は天野君より高いけど、華奢な天野君よりも更に細い印象だ。
私は万里の胸を押し返す。意外にもあっさり身体を解放してくれた。マサキ君はくすくすと笑って、あんた気ぃ強ぇよな、と言った。
「俺が来ると思ってわざとべたべたしてただろ。万里でもそんな必死になるんだなー。意外」
ちらりと万里を見上げると、涼しい顔。
「モリズミちゃん知ってる?こいつまじで軽くて女とっかえひっかえ」
「ご心配なく。この人がドクズだったことは百も承知だから」
ドクズ…と万里は呟いてさめざめと泣くフリをする。あれ、なんかイライラするな?
「タカオカはあんたと平ちゃんとどっちが好きなの?」
「知らないよあんな奴。大迷惑。早く連れて帰って」
ぎゃはは、とマサキ君は笑って、それから激しく咳き込んだ。私と万里は慌てて駆け寄って彼の背中をさする。背中を触ってどきりとした。背骨の数が数えられそうなくらい痩せている。
その音を聞きつけて、残りのメンバーがどやどやと控え室に入ってきた。口々にマサキ君に声をかけて心配そうにする。ああ、この人たちみんな、彼が好きで大事にしてるんだ、と思って、私はとても暖かい気持ちになった。
めんどいからこいつらにはまだ黙っといて、と万里がマサキ君に耳打ちすると、彼は心得たと小さく頷いてくれた。
いつのまにか全員の上着を着せられて達磨のようになってしまったマサキ君が、よろりと立ち上がる。もう大丈夫だから。つーかお前らこれは流石にあちーよ、と言いながら1枚1枚脱いだ上着を返して回る。
「ねぇ、モリズミちゃんさ、次はいつくんの?病院」
「受験があるから…春先になっちゃうと思う」
そっか、と彼は少し寂しそうに笑った。
「その頃俺は無菌室だな。聴きに行けねぇかも」
「それなら近くまで、行けるところまで行くよ。お願いして、そこで弾いてあげる」
だから、と言うと、マサキ君はにやっと笑った。
「お姫様のヴァイオリンで目覚めたらさ、付き合ってくれる?あっ、ちゅーでもいーよ?」
だからマサキおめーは!と万里がマサキ君を小突く。タカオカが「顕上!お前もかああ!」と胸ぐらを掴んだ。その頭を花島田君がチョップして、天野君が笑い転げる。
ああ、いいな。男の子たち。ずっとこのままで、この時間が終わらなければいいのに。

「もーうるさーい!あんたたち帰って!!」
私も負けずに叫んで、男の子たちの背中を店の外まで押し出した。
良いお年を、と挨拶し合って別れる。万里と最後に目配せし合って、大きく手を振った。

大晦日で賑わう商店街を歩く彼らの背中が小さく小さくなって、人混みに紛れてしまうまでずっと、見送った。
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