愛を乞うひと

「哲学各論」110、「形而上学」111、アリストテレス『形而上学』。
「絵画」720、「日本画」721、辻惟雄・泉武夫編『日本美術史ハンドブック』。

すたん!と勢い良く図書室の引き戸が開く。同時に飛び込んできたのは学ラン。どこから走ってきたのか、肩が上下している。
「よ…森住さん!今までどこに…」
「どうした日下」
司書の榊原先生が、驚いた顔で万里を振り返った。私は抱えていた本を机の上に降ろす。
「なんか、せ、瀬戸さんが『森住さんが帰ってこない』って言うし、ニノ下は『森住はもう面談終わった』って言うし、3D教室にはいないし、図書室ここは鍵閉まってるし…」
ああああ、と彼は崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。
「ごめん、全部すれ違いだったみたいだね…」
私が苦笑すると、万里はすっくと立ち上がって、本の山に手をかけた。
「手伝います」
何冊か手に取って、分類番号を確認し始める。榊原先生はそれを興味深そうに眺めて、知らんぷりする私にちらりと視線を走らせた。誤解したのか、はたまた理解したのか、にっこりと笑う。
「日下が手伝ってくれるんなら、後は任せます。終わったら、電気消して施錠して、鍵は職員室の鍵ボックスね。俺は職員室で作業してるから、帰りはちゃんと声をかけること。17時には必ず終わらせて帰ること。17時過ぎたら様子見にくるからな。遊んでたらバレるぞ」
ほい、と鍵を万里に渡す。
「それから日下」
鍵を学ランのポケットにしまった万里が、はい?と目を上げる。
「ニノ下『先生』な」
「はい、以後気をつけます」
しおらしく返事する万里の肩を叩いて、榊原先生は図書室から出て行った。
「…なんかバレたかな」
言うと、万里は唇の端を上げた。
「どうかな。俺が夜子のこと好きなのは、バレたんじゃない? 好きな子と2人になるチャンスに必死な俺、みたいな」
冗談めかした言い方に、ふふ、と私は笑った。
万里は持っていた本を書棚に収めると、私の隣に立って、顔を覗き込むように身を屈めた。
「ニノ下と話した後、図書室来る前どこにいた?」
私は本の背表紙を見つめて、万里とは目を合わせずに、うん、と曖昧な返事をする。
「誰かに会った?」
返事をせずに俯いたままの私の上に影が落ちる。大きな手が私の顔に触ろうと、目の前に現れた。頭ひとつ分私より大きい万里の身体が、覆いかぶさるように感じた。
不意に久我城君の手や身体の感触を思い出した。頭のてっぺんからつま先まで電気が走るみたいに鳥肌が立って、思わず万里の手を払いのけてしまう。
え、と万里は困惑した声を上げた。それから私の手首に視線を落とす。
「それ、どうしたの?」
言われて初めて気が付いた。両手首に赤く指の跡。それを見て、ずっときつく締めていた栓が弾け飛ぶように、心の中に押し込めていた、あの時の恐怖や屈辱が溢れ出した。
身体が震え出した。唇が戦慄いて言葉が紡げない。
私の異常な反応に戸惑いながら、万里が肩に触れようとする。その手を拒絶するように、身体がびくりと震えた。足が勝手に動いて、彼から逃げるように半歩後ずさる。
万里は、今度ははっきりと傷ついた表情になった。
「ごめん…違うの…万里じゃない…怖いのは万里じゃなくて…」
うまく言葉を探せない。震えが止まらない。突然涙腺が壊れたように、涙が溢れ出した。
怖かった。汚されると思った。指が、手が、声が、身体が、気持ち悪かった。
震えながら泣き続ける私に、万里はハンカチを差し出した。綺麗なブルー。私はそれをおずおずと受け取って、目にあてる。柑橘の香り。私はこの香りが大好き。
夜子、と、とても優しい声で呼びかけられた。
2人の時だけに出す、深くて甘い声。
目を上げると、心配そうな顔。
「触っていい?」
私は深呼吸をしてから、かくかくと頷いた。
「ぎゅってして…」
今度は逃げなかった。万里は私が泣き止むまでずっと、何も言わずにただ抱きしめてくれた。


なんでこんなに唇が甘いんだろう。
なんでこんなに舌が温かいんだろう。
なんでこんなに吐息が心地良いんだろう。
唾液を交換する度に、温かい息を吹き込まれる度に、心と身体がゆっくりほぐれて溶けるような感覚に陥る。

図書室の一番奥、書棚の影に2人で座り込んで、もうかれこれ15分くらいキスし続けている。時折息継ぎするみたいに唇が離れても、すぐにまた捕まえられてしまう。そうしてやめることができないまま、離れることができないまま。
鳥肌が立たなくなって、震えが止まって、万里の手が怖くなくなって、いつもみたいに胸に安心してしがみつけるようになった頃、私は唇を離してぷは、と息をついた。
追いかけてくる唇を指先で止める。
「もう大丈夫。落ち着いたから…」
ありがとう、と言うと、万里は少し名残惜しそうな顔をした。
私はその肩に頭を預ける。私を緩く抱く腕に触れて、それから大きな手を取った。指を絡めると、応えるように優しく握ってくれる。
「万里って、私に触る時、すごく優しくしてくれてるんだね」
万里は何も言わない。ただ私と絡めた指を弄んでいる。
「男の子の力があんなに強いって、知らなかった」
「…これ、やったの久我城?」
万里が私の手首を持ち上げて、指の跡にキスした。うん、と私は唸るように肯定する。また少し思い出してしまって胸がざわついた。
「以前一緒にいるところ、見られてたみたい」
「ごめん、俺のせいだ…夜子を狙うなんて思いもしなかった…」
くそ、と言って、万里は私をまた抱きしめた。私は緩く首を振る。
「春頃にね、久我城君に告白されたの。当たり前だけど断ったから…それがなければ、いくら万里を傷つけるためでも、ここまでしなかったと思うよ。久我城君、私の噂信じてるみたいだった…『もともと汚れてる』って言われちゃった」
万里が息を飲むのがわかった。あの時投げつけられた屈辱的な言葉が、久我城君のような人に軽んじられている自分が、恥ずかしくて悔しかった。
「ごめんね、具体的に何されたかは、言いたくない。でもレイプされたわけじゃないから、安心して?」
「安心なんかできるわけないだろ? 言いたくないようなことをされたんだ。こんな跡がつくまで押さえつけて、怖くて泣き出すようなことを…。汚そうとしたんだ、夜子を。俺の夜子を!」
抱きしめたまま、振り絞るように言った。
「…怖かった」
「うん」
「気持ち悪かった」
「うん」
「私、万里じゃない男の子に触られたくない」
「うん、もう誰にも触らせない」
背中に腕を回して抱きつくと、万里は私のこめかみにキスした。まぶた、目頭、目尻、頰、鼻。雨が降るみたい。最後にまた深く口付けられる。
「あの人、可哀想な人だね」
唇を舐められる。私もお返しに顎にキスしてあげた。
「『助けて』って、言われてるみたいだった」
「同情しなくていい。夜子の悪い癖だよ」
「…仕返ししちゃだめだよ? バレて内申下げられたら、一緒の学校行けなくなっちゃう」
「バレないようにやるよ」
もう、と私が言うと、またおでこに唇が降ってきた。
「堀田の件で平にも手ぇ出されてる。全部含めてなんとかしないと」
「でも…」
「久我城が苦しんでるのもわかってるよ。ちゃんと落とし前つけてやんなきゃ。あいつだってこのまま屈折しまくって他人傷つけて歩いてるんじゃ不毛じゃん。大丈夫、夜子からは絶対離れない。夜子がいないルートは万ちゃんの人生設計図にありません」
そう言ってまた万里の指が私の顎を持ち上げた時、りりりりり、とベル音が鳴り響いた。あ、と万里は言って、学ランのポケットからスマホを取り出す。私も自分のスマホの画面を確認した。16時45分。
「タイマーかけといたの。夜子といちゃいちゃしてるとすぐ時間忘れちゃうから」
「そういう冷静さ、すごいよね…」
半ば呆れるように言うと、万里は肩をすくめた。
「司書に牽制されたしね。これが教師に見つかる方がヤバくない?『不純異性交遊』!」
「牽制?榊原先生が?」
「『遊んでたらバレるぞ』ってやつ。時間切ってきたのも、“そういうこと”する隙与えないようにだと思うよ」
実際作業した残り時間30分でえっちは厳しかったもんね、と万里は笑った。
「…やっぱりバレてるじゃん」
「大丈夫だよ。夜子、いつもみんなの前だと冷たいもん。俺の片思いだと思われてるし、俺が手が早いと思われてんだよ。まぁ、確実に口説いてることはバレてるけど…」
よいしょ、と万里は立ち上がって、私に左手を差し出した。その手を取ると、反対の手で私の腰を抱えて半ば持ち上げるようにして立たせてくれた。
二人で制服についた埃を払って、やり残しがないか、図書室内を確認して回る。それから蛍光灯のスイッチを消して、しっかりとドアを施錠した。
職員室に鍵を返しに行くと、榊原先生がすーっと私たちに近寄ってきた。
「ふたりともご苦労さん。助かりました。気をつけて帰って」
「はい。私、所用があるのでお先に失礼します」
そう言って、私は万里を置いて先にそそくさと職員室を出て行く。ちらりと振り返ると、榊原先生が気遣わしげに万里の背中を叩いているところだった。うくく、と私はたまらずひとりで笑ってしまう。

もちろん、校門の外で待ち合わせて、万里は私を家まで送ってくれた。「フラレ男のレッテルを貼られた…」と肩を落とす万里の頰に、隠れてキスしてあげた。
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