愛を乞うひと
進路指導室に呼び出された。まだ志望校を曖昧にしているからだ。そろそろちゃんと志望校を絞らねばならないこの時期に、ランクの微妙に違う高校を3つ、第一志望欄に書いた。それがまずかった。
『森住ならどの学校にも行ける。そろそろターゲットを絞りなさい』
もっともな意見だ。
模試の結果も、リサーチ情報も万里と全部共有している。夏休み明けからあちこち学校見学にも参加した。年が明けたら願書提出だ。もう猶予はあまりない。でもまだ決められずにいる。
天野君と万里(と私)の学力がぎりぎり被る学校と言えば、実はひとつしかないのだ。あとは天野君をどうそこへ持っていくのか、それが問題なのだ。
万里は決めきれずにいる。でも私はもうこれ以上引っ張れない。もしかして離れることになってしまうとしても、もう決めなければ。
鬱々とした気持ちを抱えて廊下を歩く。しかも図書委員最後の図書整理で招集をかけられているのだ。
『3年生の最後の仕事だよ、息抜きも兼ねて』なんて司書は調子の良いことを言っていたけど、蓋を開けてみればどいつもこいつも塾だなんだとバックれてくれて、残ったのは私ともう1人(B組の瀬戸さんという女子)だけ。半分ずつ分担という約束で、先に進路指導に向かったから、恐らく瀬戸さんはもう帰ってしまっているだろう。まぁいい、息抜きだ。
図書室へ向かう階段に差し掛かった時、森住さん、と男声に背後から呼び止められた。
私が振り返るより早く、声の主は階段をとんとんと登ってくる。隣に並んだのは、私より頭ひとつ大きい影だった。
「久我城君」
「うん、久しぶり」
万里との会話があったから、私は少し身構えてしまう。
彼とは2年生の時に同じクラスだった。委員会が一緒だったり、席が近かったりした関係で、そこそこ話す機会があったが、それほど親しかったわけではない。しかし3年生に進級する直前に突然「付き合ってくれ」と告白された。万里と付き合い出した頃で、当然ながら返事は「ごめんなさい」。会話をするのはそれ以来だ。一瞬気まずい気持ちになったけど、すでにあれからもう半年以上経っている。まだ引きずってるなんて思うのも失礼だろう。でも、今さら、わざわざ追いかけてきて、どういう理由で話しかけてきたんだろう?なんとなく警戒心を解かないまま、私は彼と一緒にゆっくり階段を登る。
「志望校決めた?」
受験生同士、最も身近で当たり障りない、お天気のような話題だ。屈託ない様子で訊いてくる。私は少し笑って応える。
「大体…まだちょっと迷ってて、呼び出されちゃった」
はは、と彼は笑う。
「迷うよね。決めちゃうともうそっちに完全に舵切らなきゃならなくなるし、『これでいいのか』って不安になる」
「久我城君でもそんなこと思うんだ」
「そりゃ思うよ」
「今期中間トップでしょう?塾でもすごく期待されてるって聞いたよ」
久我城君は眼鏡を押し上げる。うん、と呻くように言った。
「なぜかね。日下 はどうしたんだか…。あいつって塾にも全然行ってなくてあれなんでしょ?全国模試だってヒト桁。いるんだよね、ああいうやつ。頭ん中どうなってんだろ」
『A組って不登校の子いるよね』
『A組の委員長さんはどんなお人かなと思って』
『僕には屈託のある人間に見える』
先日の、優希君と万里との会話が脳裏に浮かんだ。なんとなくざわざわする。
「…さあ…私はよく知らない」
とん、と久我城君と肩が触れ合って、咄嗟に鳥肌が立った。踊り場にたどり着くと、さりげなく一歩横に距離を取った。なんだかわからないけど、嫌な感じがする。悪意か、それに似たもの。
「知らなくないでしょう?付き合ってるんだから」
久我城君の顔を見上げた。薄い笑みを貼り付けて、こちらを見ている。
「どうして?」
「夜中とはいえ、あんな風に家の前で派手にいちゃついてたら、すぐにバレるよ。気をつけた方がいい」
春に大喧嘩した時の話だ。仲直りして、たまらなくなって家の前の往来で激しくキスした。見られていたんだ。やっぱり迂闊なことするべきじゃなかった。上手に感情をコントロールできない自分を、私は恥じた。
「全く、なんでも要領良くて羨ましい限りだよ。セックスも上手い?」
「何…」
唐突な質問に動揺する間も無く、身体ごと防火扉に追い詰められる。乱暴に両手首を掴まれて、万歳をするように縫い止められた。私の身体がぶつかった弾みで、がおん、と防火扉は音を立てる。背中と後頭部を強打した。じんとした痛みが駆け巡って、くらりと視界が揺らぐ。
「騙されたよ。清楚なツラしてクソビッチ」
もがこうとしてもビクともしない。さらに手首を締め上げられる。抵抗したら折られてしまうんじゃないかと思うくらいの力だ。男の子ってこんなに力が強いんだ。改めてゾッとした。
久我城君は、私の両脚の間に膝をねじ込んでくる。体全体を使って、押しつぶすように体重をかけられる。足の間を刺激するように膝を動かされて、泣きたいほど不快に感じた。足の付け根までぴったり押さえ込まれて、股間を蹴り上げてやることもできない。
肌が粟立ったまま、おさまらない。
ののに触られた時だってこんな風には感じなかった(合意だったし)。ううん、ののや万里とは根本的に違うんだ。この人、私を物だと思ってる。なんの尊敬も、優しさも、真心もない。
怖い。気持ち悪い。
「黙っててやるからさ、一回やらせてよ」
吐息がかかる。吐き気がした。
「お断り」
怯んでなんかやるもんか。私は吐き捨てるように言った。
「別にいいじゃん。どうせ日下とやりまくってんだろ?」
「あなたは万里じゃない」
一体この人はどっちを汚したいんだろう。私?それとも万里?
ふん、と鼻白んで、久我城君は私の両手首を左手でまとめた(それでもまったく振りほどけない)。空いた右手で私のセーラー服の胸元に手をかける。器用に片手で胸当てのスナップボタンを外して、そこから中に手を入れる。肌を直に触られて、私の肩がびくりと跳ねた。
「やめて。大声出すよ」
「どうぞ。俺よりあんたの方が圧倒的に評判が悪い。『誘惑された』って言ったら、みんなどっちを信じるかな」
冷たい声音。私は歯噛みした。もし騒いで助かったとして、彼の言うようにまた『お前が誘ったんだ』とみんなに言われたら?信じてもらえなかったら?
「…久我城君、私のこと好きだって、言ってくれたよね」
「…いつの話してんだよ」
「私のどこが好きだったの?顔?身体?それともステイタス?『蜷川砂胡の娘』を連れて歩きたかった?」
「違う」
「意思も性格もない可愛いお人形を、腕にぶら下げて歩きたかったのね」
「違う!俺は、あんたが綺麗だと思った。汚れてないって…」
『綺麗』。笑える。この人は何にも見ていない。
「『私』なんてどうでもいいんだよね。私の器だけ見てるから、簡単に他人の噂を信じて、勝手に私を決めつけて。あなただって、他人に何かを押し付けられることを苦痛に感じてるくせに」
「うるせえ!」
至近距離で恫喝されて、思わず首を縮めてしまう。しまった、逆効果だったか。でもここで怯んだらだめだ。怯えているところを見せたらだめだ。せめて態度だけでも、強気でいなきゃ。でも本当は泣いてしまいたい。泣き叫んで、万里の名前を呼んでしまいたい。
ますます身体を押し付けられて、全身がざわざわする。久我城君は私の下着の上から、足の間を探るように何度も膝を擦り付ける。
「やめて…」
私の声が震えるのを、彼は聞き逃さない。勝ち誇ったように笑う。膝を動かすのをやめてくれない。不快感と屈辱で全身がバラバラになりそう。
「あんたがやろうとしてるのは強姦だよ」
振り絞るようにして言うと、嘲るような笑いが返ってきた。
「そんな大げさな話じゃない。もともと汚れきってんだから、今更誰とやったって同じだろ?汚れたもん丸めて捨てるだけだ。でも、そうだな…俺とやったって知ったら日下はどんな顔するかな。別の男とやった女、また抱けるかね」
眼鏡の奥の瞳がぎらぎらしてる。震えそうになる声を必死に抑えた。怖い。負けたくない。怖い。
「私は万里の弱みにはならないよ」
「なんだ、セフレかよ」
鎖骨のあたりを撫でていた久我城君の手が差し込むように降りてきて、胸を掴まれた。
「それならますますちょうどいいじゃん。すっげぇカラダ。ほんとはもう濡れてんじゃねぇの?『小悪魔』さん」
乱暴に胸を揉まれて涙が出そうになった。大声を出したいのに、喉がしまって声が出ない。自分の脚が震えているのがわかる。
「言いふらしたければ言えばいい。強姦するなら訴えてやる。私は汚れてない。あんたなんかに汚されない。万里は、」
声が震える。息を整えようとしてもうまくできない。
「万里は、もしここで私があなたに何かされたら、私を責めるんじゃなくてあなたを殺すよ」
久我城君は一瞬だけ、傷ついたような顔をした。それが、とても可哀想に見えた。そうか、この人は…。
「あなた、本当は何を怖がってるの?」
手首を掴んでいた手が緩んだ。私はその機を逃さずに振りほどく。スナップボタンを外されたままの胸元を手で押さえて、足の間にあった膝を突き飛ばすようにどかした。しかしすぐさま逃げ出すことは叶わず、ジリジリと横に移動するしかできない。腰が抜けそう。でもここで「弱い」と思われたくない。必死に足を踏ん張った。
久我城君は、私に振りほどかれたままの手をだらりと垂らして突っ立っていた。瞳が揺らいでいるのが見て取れる。
「可哀想だね」
そう投げかけると、弾かれたように顔をあげた。泣きそうな目。蒼い顔。物言いたげに唇を動かしたけど、結局何も言わずに舌打ちをした。そのまま私の横をすり抜けて、階段を降りていってしまった。
足音が遠ざかるまでたっぷり10、心の中で数えた。それからたったひとりになった私は、へなへなと腰を抜かす。冷たい床に崩れ落ちて、防火扉に寄りかかった。
深呼吸。まだ吐く息が震えている。もう一度、深く息を吸って吐く。胸当てのスナップボタンを丁寧に留めると、息は整った。よっこらせ、と防火扉伝いに立ち上がる。脚がわなわなする。よく言う『生まれたての仔鹿』ってこんな感じかな、と考えたら少し笑えた。
大丈夫、笑えた。大したことされてない。汚されてない。少し怖かっただけ。とりあえず図書室へ行こう。
私はそろそろと壁伝いに図書室を目指した。
『森住ならどの学校にも行ける。そろそろターゲットを絞りなさい』
もっともな意見だ。
模試の結果も、リサーチ情報も万里と全部共有している。夏休み明けからあちこち学校見学にも参加した。年が明けたら願書提出だ。もう猶予はあまりない。でもまだ決められずにいる。
天野君と万里(と私)の学力がぎりぎり被る学校と言えば、実はひとつしかないのだ。あとは天野君をどうそこへ持っていくのか、それが問題なのだ。
万里は決めきれずにいる。でも私はもうこれ以上引っ張れない。もしかして離れることになってしまうとしても、もう決めなければ。
鬱々とした気持ちを抱えて廊下を歩く。しかも図書委員最後の図書整理で招集をかけられているのだ。
『3年生の最後の仕事だよ、息抜きも兼ねて』なんて司書は調子の良いことを言っていたけど、蓋を開けてみればどいつもこいつも塾だなんだとバックれてくれて、残ったのは私ともう1人(B組の瀬戸さんという女子)だけ。半分ずつ分担という約束で、先に進路指導に向かったから、恐らく瀬戸さんはもう帰ってしまっているだろう。まぁいい、息抜きだ。
図書室へ向かう階段に差し掛かった時、森住さん、と男声に背後から呼び止められた。
私が振り返るより早く、声の主は階段をとんとんと登ってくる。隣に並んだのは、私より頭ひとつ大きい影だった。
「久我城君」
「うん、久しぶり」
万里との会話があったから、私は少し身構えてしまう。
彼とは2年生の時に同じクラスだった。委員会が一緒だったり、席が近かったりした関係で、そこそこ話す機会があったが、それほど親しかったわけではない。しかし3年生に進級する直前に突然「付き合ってくれ」と告白された。万里と付き合い出した頃で、当然ながら返事は「ごめんなさい」。会話をするのはそれ以来だ。一瞬気まずい気持ちになったけど、すでにあれからもう半年以上経っている。まだ引きずってるなんて思うのも失礼だろう。でも、今さら、わざわざ追いかけてきて、どういう理由で話しかけてきたんだろう?なんとなく警戒心を解かないまま、私は彼と一緒にゆっくり階段を登る。
「志望校決めた?」
受験生同士、最も身近で当たり障りない、お天気のような話題だ。屈託ない様子で訊いてくる。私は少し笑って応える。
「大体…まだちょっと迷ってて、呼び出されちゃった」
はは、と彼は笑う。
「迷うよね。決めちゃうともうそっちに完全に舵切らなきゃならなくなるし、『これでいいのか』って不安になる」
「久我城君でもそんなこと思うんだ」
「そりゃ思うよ」
「今期中間トップでしょう?塾でもすごく期待されてるって聞いたよ」
久我城君は眼鏡を押し上げる。うん、と呻くように言った。
「なぜかね。
『A組って不登校の子いるよね』
『A組の委員長さんはどんなお人かなと思って』
『僕には屈託のある人間に見える』
先日の、優希君と万里との会話が脳裏に浮かんだ。なんとなくざわざわする。
「…さあ…私はよく知らない」
とん、と久我城君と肩が触れ合って、咄嗟に鳥肌が立った。踊り場にたどり着くと、さりげなく一歩横に距離を取った。なんだかわからないけど、嫌な感じがする。悪意か、それに似たもの。
「知らなくないでしょう?付き合ってるんだから」
久我城君の顔を見上げた。薄い笑みを貼り付けて、こちらを見ている。
「どうして?」
「夜中とはいえ、あんな風に家の前で派手にいちゃついてたら、すぐにバレるよ。気をつけた方がいい」
春に大喧嘩した時の話だ。仲直りして、たまらなくなって家の前の往来で激しくキスした。見られていたんだ。やっぱり迂闊なことするべきじゃなかった。上手に感情をコントロールできない自分を、私は恥じた。
「全く、なんでも要領良くて羨ましい限りだよ。セックスも上手い?」
「何…」
唐突な質問に動揺する間も無く、身体ごと防火扉に追い詰められる。乱暴に両手首を掴まれて、万歳をするように縫い止められた。私の身体がぶつかった弾みで、がおん、と防火扉は音を立てる。背中と後頭部を強打した。じんとした痛みが駆け巡って、くらりと視界が揺らぐ。
「騙されたよ。清楚なツラしてクソビッチ」
もがこうとしてもビクともしない。さらに手首を締め上げられる。抵抗したら折られてしまうんじゃないかと思うくらいの力だ。男の子ってこんなに力が強いんだ。改めてゾッとした。
久我城君は、私の両脚の間に膝をねじ込んでくる。体全体を使って、押しつぶすように体重をかけられる。足の間を刺激するように膝を動かされて、泣きたいほど不快に感じた。足の付け根までぴったり押さえ込まれて、股間を蹴り上げてやることもできない。
肌が粟立ったまま、おさまらない。
ののに触られた時だってこんな風には感じなかった(合意だったし)。ううん、ののや万里とは根本的に違うんだ。この人、私を物だと思ってる。なんの尊敬も、優しさも、真心もない。
怖い。気持ち悪い。
「黙っててやるからさ、一回やらせてよ」
吐息がかかる。吐き気がした。
「お断り」
怯んでなんかやるもんか。私は吐き捨てるように言った。
「別にいいじゃん。どうせ日下とやりまくってんだろ?」
「あなたは万里じゃない」
一体この人はどっちを汚したいんだろう。私?それとも万里?
ふん、と鼻白んで、久我城君は私の両手首を左手でまとめた(それでもまったく振りほどけない)。空いた右手で私のセーラー服の胸元に手をかける。器用に片手で胸当てのスナップボタンを外して、そこから中に手を入れる。肌を直に触られて、私の肩がびくりと跳ねた。
「やめて。大声出すよ」
「どうぞ。俺よりあんたの方が圧倒的に評判が悪い。『誘惑された』って言ったら、みんなどっちを信じるかな」
冷たい声音。私は歯噛みした。もし騒いで助かったとして、彼の言うようにまた『お前が誘ったんだ』とみんなに言われたら?信じてもらえなかったら?
「…久我城君、私のこと好きだって、言ってくれたよね」
「…いつの話してんだよ」
「私のどこが好きだったの?顔?身体?それともステイタス?『蜷川砂胡の娘』を連れて歩きたかった?」
「違う」
「意思も性格もない可愛いお人形を、腕にぶら下げて歩きたかったのね」
「違う!俺は、あんたが綺麗だと思った。汚れてないって…」
『綺麗』。笑える。この人は何にも見ていない。
「『私』なんてどうでもいいんだよね。私の器だけ見てるから、簡単に他人の噂を信じて、勝手に私を決めつけて。あなただって、他人に何かを押し付けられることを苦痛に感じてるくせに」
「うるせえ!」
至近距離で恫喝されて、思わず首を縮めてしまう。しまった、逆効果だったか。でもここで怯んだらだめだ。怯えているところを見せたらだめだ。せめて態度だけでも、強気でいなきゃ。でも本当は泣いてしまいたい。泣き叫んで、万里の名前を呼んでしまいたい。
ますます身体を押し付けられて、全身がざわざわする。久我城君は私の下着の上から、足の間を探るように何度も膝を擦り付ける。
「やめて…」
私の声が震えるのを、彼は聞き逃さない。勝ち誇ったように笑う。膝を動かすのをやめてくれない。不快感と屈辱で全身がバラバラになりそう。
「あんたがやろうとしてるのは強姦だよ」
振り絞るようにして言うと、嘲るような笑いが返ってきた。
「そんな大げさな話じゃない。もともと汚れきってんだから、今更誰とやったって同じだろ?汚れたもん丸めて捨てるだけだ。でも、そうだな…俺とやったって知ったら日下はどんな顔するかな。別の男とやった女、また抱けるかね」
眼鏡の奥の瞳がぎらぎらしてる。震えそうになる声を必死に抑えた。怖い。負けたくない。怖い。
「私は万里の弱みにはならないよ」
「なんだ、セフレかよ」
鎖骨のあたりを撫でていた久我城君の手が差し込むように降りてきて、胸を掴まれた。
「それならますますちょうどいいじゃん。すっげぇカラダ。ほんとはもう濡れてんじゃねぇの?『小悪魔』さん」
乱暴に胸を揉まれて涙が出そうになった。大声を出したいのに、喉がしまって声が出ない。自分の脚が震えているのがわかる。
「言いふらしたければ言えばいい。強姦するなら訴えてやる。私は汚れてない。あんたなんかに汚されない。万里は、」
声が震える。息を整えようとしてもうまくできない。
「万里は、もしここで私があなたに何かされたら、私を責めるんじゃなくてあなたを殺すよ」
久我城君は一瞬だけ、傷ついたような顔をした。それが、とても可哀想に見えた。そうか、この人は…。
「あなた、本当は何を怖がってるの?」
手首を掴んでいた手が緩んだ。私はその機を逃さずに振りほどく。スナップボタンを外されたままの胸元を手で押さえて、足の間にあった膝を突き飛ばすようにどかした。しかしすぐさま逃げ出すことは叶わず、ジリジリと横に移動するしかできない。腰が抜けそう。でもここで「弱い」と思われたくない。必死に足を踏ん張った。
久我城君は、私に振りほどかれたままの手をだらりと垂らして突っ立っていた。瞳が揺らいでいるのが見て取れる。
「可哀想だね」
そう投げかけると、弾かれたように顔をあげた。泣きそうな目。蒼い顔。物言いたげに唇を動かしたけど、結局何も言わずに舌打ちをした。そのまま私の横をすり抜けて、階段を降りていってしまった。
足音が遠ざかるまでたっぷり10、心の中で数えた。それからたったひとりになった私は、へなへなと腰を抜かす。冷たい床に崩れ落ちて、防火扉に寄りかかった。
深呼吸。まだ吐く息が震えている。もう一度、深く息を吸って吐く。胸当てのスナップボタンを丁寧に留めると、息は整った。よっこらせ、と防火扉伝いに立ち上がる。脚がわなわなする。よく言う『生まれたての仔鹿』ってこんな感じかな、と考えたら少し笑えた。
大丈夫、笑えた。大したことされてない。汚されてない。少し怖かっただけ。とりあえず図書室へ行こう。
私はそろそろと壁伝いに図書室を目指した。