感嘆符なしでは語れない

いくよー、と俺は言って、ピアノの上のスマホをタップした。
夜子の細い腕が弓を引くと、俺の好きなあの旋律が、溢れるように流れ出す。
ヴァイオリンを弾いている時の夜子は、まるで踊っているみたいに見える。伏せられた睫毛も、揺れる髪も、踊る指先や閃く腕が、ステップを踏むように動く脚が、全部完成された綺麗なドールみたい。そんな風に言ったらきっと夜子は怒るだろうけど、なにも知らない誰かに夢を見させるには十分なくらい綺麗なんだ。
このビジュアルと腕前でほっとかれるわけがない。事実、デビューしないか、という話はよくあるみたい。親が親だし芸能関係者も身の回りに多い。当然と言えば当然。『ニヴルヘイム』でピアノを弾いていた時でさえ、ファンがかなり付いていたし、寿々木楽器でやるゲリラも、最近ではすぐ人が鈴なりになってしまう。ネットに勝手に動画があげられていて、怒った清瀬さんが削除依頼をかけた、なんてこともあった。
夜子自身はそういう風に人に群がられるのをすごく嫌がっている。年齢的にもどうしてもそういう手合いはみんな夜子をアイドルにしたがるからだ。本人は音楽がやりたいだけで、ビジュアルを求められるのは不本意みたい。気持ちはわかるけど、彼女は綺麗過ぎるし目立ち過ぎる。世間てのは残酷なものだ。もちろん夜子の音楽は、素人の俺から見てもすごいレベルなんだというのはわかる。でもあの見た目がある限り、きっとこの先本当の意味で彼女の音楽が評価されるのには、時間がかかるだろう。他の誰より苦労するかもしれない。それを側で支えてやりたいと思う。1番に理解してあげられる立場でいたいんだ。

ヴァイオリンパートの録音が終わると、ピアノ伴奏も録音して、音声ファイルにしたものを花島田のスマホに送信する。栄華ちゃんの練習用だそうだ。「昔のはやっぱり下手くそだから」なんて照れ臭そうに言う。これから10日間は毎日短時間ずつだけど、指導しに行くつもりらしい。初めての『弟子』が嬉しいし可愛いんだろうな。
俺はピアノの前の椅子に腰掛けると、鍵盤に指を置いた。1曲だけ覚えている『きらきら星変奏曲』の主題。弾き始めてみると、鍵盤が意外と重くて難儀する。夜子は鍵盤を重めに調整してもらうと聞いたことがある。見た目よりずっと腕力あるもんな。
大分危なっかしく弾き終えて顔を上げると、夜子が心底びっくりした顔で、スマホを持ったまま固まっていた。
「…万里、ピアノ弾けるの?」
「この曲だけだよ。変奏は全然弾けない」
「びっくりした。今まで1度も弾いたことないじゃない。ここにはずっと出入りしてたのに」
「や、なんかなんとなく…」
俺だって夜子のやっていることが少しはわかるんだと示したかったというか、彼女の領域にちょっと入りたかった。ののやアリスのようにはいかなくとも。やってしまってから、子供染みた嫉妬だな、と気付いて恥ずかしい。まだまだガキだよな、俺も。
そんな俺の気持ちは露知らず、夜子は俺の足の間にちょこんと座ると、左手を取って指を絡ませた。
「いいなぁ、この手があればどんな曲も軽々弾きこなせそう」
夜子は指は長いが手が小さい。ピアノも1オクターブでいっぱいいっぱいなので、演奏家としてはそれがとても不利なのだそうだ。
夜子はとす、と俺の肩に頭を預けて、俺を見上げた。
「習ってたの?」
「ガキの頃ね。3年生になるくらいまでかな」
実は半分本当で半分嘘だ。小3までピアノを習っていたのは本当だけど、『きらきら星』は、2年の頃に2、3度寝た、ピアノとフェラの上手いお姉さんに教わったのだ。ワンルームいっぱいにグランドピアノを置いて暮らしてる女で、いつもピアノの下に潜り込んでセックスしなきゃならなかった。この話は夜子には絶対内緒だ。俺の過去のクズっぷりがまた露呈してしまう。
俺は夜子のお腹に抱きつくようにして腕を回した。華奢な肩に顎を乗せても、彼女はさして気にもしないようにして、左手は繋いだまま、ぽろぽろと右手で鍵盤を弄ぶ。
俺は夜子を抱く腕に少し力を込めて、首筋に唇をつけた。
「好きだよ、夜子」
「知ってる」苦笑まじりに返される。

ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ
ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド

ふー、と夜子はため息をついて、繋いだままの俺の左手を持ち上げた。唇で手の甲から薬指までなぞって、かり、と第二関節に歯を立てる。いて。
「…小3で『きらきら星変奏曲』は、なかなか習わないね?」

うひ、と声に出そうになってしまった。ああ、夜子には絶対に敵わない。
3/5ページ
スキ