感嘆符なしでは語れない

「…悪かったな、森住。妹が…」
そう言って、花島田君はゆっくりと紅茶の入ったカップを口へ持っていく。意外に違和感がないのは、お育ちのせいだろう。私も同じようにカップを傾けた。ダージリンの香り。もんの凄く美味しい。
ソファはドレクセル・ヘリテイジ、ティーセットは王室御用達ウェッジウッド。なんというか、ナチュラルに『お金持ち』だ。
「ううん。こちらこそ、なんかおまけがついてきちゃってほんとごめんね…」
「『おまけ』ってもしかして俺のこと?」
不満そうに隣の万里が発言した。長い足を組んで、ふてぶてしく座っている。
「他に誰がいるの」
「ひっど!可愛い彼女を男の家にひとりでなんて行かせらんないじゃん!」
「ひとりじゃないし。栄華ちゃんだって家政婦さんだっているじゃない。大体私は栄華ちゃんのために来たの!過保護!」
「だってさあ」
ぶちぶちと文句を言いながら、ぐびりと紅茶を煽った(こんな美味しい紅茶、そんな風に煽らないで欲しい)。なまじ目の前の花島田君が私たちの関係を知っているものだから、なんというか万里の態度に遠慮がない。私は少々げんなりしてしまう。この先隠す必要がなくなったら、こんな風に恥ずかしげもなく独占欲を丸出しにされるのか…。ちょっとだけ反撃の要素も込めて、私は意地悪をしてやることにした。
「それとも可愛い婚約者に会いたかったのかな?」
もおぉぉぉそれぇぇぇ!と万里が頭を抱えた。私と花島田君はそんな彼を思い切り笑ってやる。
「違うぞ、森住。高校卒業したら天野と結婚するらしいからな」
「ああ、そうかぁ。結局本命は天野君なのねぇ。私とは遊びだったわけだ…おまけにあんな幼い子まで毒牙にかけて…」
違うって!と万里は起き上がって私の両肩を掴んだ。
「俺が愛してるのは夜子だけ!信じて!!」
抱きしめられそうになるのを、両手で押し返す。
「わかったわかった。近い近い」
両肩にかかる大きな手を外して、どうどう、と背中を撫でてやった。いじめすぎたか。

栄華ちゃんは、私に丁寧に自己紹介をすると、手のひらを上にして万里を示してから、「こちらは私の婚約者です」と紹介してくれた。あの時の万里の表情は、まさに『浮気がバレた馬鹿男』そのもので、あと100年笑えそう。

「それで、どうなんだ?あいつは」
花島田君は、身を乗り出すようにして、真剣な表情を作った。年の離れた妹だ。きっととても可愛いのだろう。私は安心させるように微笑って答える。
「うん。流石、きちんとした先生についてるだけあって、基礎がちゃんとしてる。フィンガリングもボウイングも変な癖がないし、耳もリズム感もいい。教えやすそうな生徒さんだよ」
「本当にすまない。くれぐれも勉強に差し支えない範囲にしてくれ」
「へーきよ、ほんの10日だもん」
すまなそうにする花島田君に、私は手を振った。家にいたって、受験勉強の他に1日3時間くらいはピアノやヴァイオリンの練習している。予備校に行っているわけでもないし、私にとっても良い気分転換なのだ。
「今、栄華ちゃんは?」
立ち直った万里が訊いた。
「基礎練してもらってる。今日は自分の楽器もないし、全体を見て指導計画立てます」

栄華ちゃんは突然訪ねてきたように見えるが、実は舞台裏があるのだ。それも含めてことの発端は3日前に遡る。
昼休み、花島田君が教室に来てこう言ったのだ。「妹にヴァイオリンを教えてやってくれないか」と。
栄華ちゃんには親友がいるそうだ。幼稚園から一緒の樹里ちゃんという女の子だ。長年友情を育んできた樹里ちゃんが、お父さんの海外駐在に家族ごとついていくことになったのが、2ヶ月前。そのお別れのパーティーを開くことになったのが1ヶ月前。そしてそこで、樹里ちゃんが以前一緒に動画を観てすっかり気に入ったという、森住瀬名お父さんの『Father』を演奏してあげると約束「してしまった」というのだ。
栄華ちゃんがヴァイオリンを始めたのは5歳の頃。そこから彼女は何度も発表会を経験しているし、『Father』自体は旋律の美しさがウリで、技術的にはそれほど難しい曲ではない。現に演奏したのは、映画公開当時8歳だった私なのだから。今でもYoutubeなんかを検索すれば、老若男女の『演奏してみた』動画を見ることができるくらい。ただ少々リズムが難しい部分があり、ポジション移動も激しい、ちょっとアクロバティックな曲ではある。
彼女はもちろん自分自身でコツコツ練習してきたということなのだけれど、通しで失敗なく弾けたことがないそう。そして何より何度も繰り返し観たという、子供の頃の私の演奏への憧れが強すぎる。肥大した理想が、どうも練習への集中力を削いでいるようなのだ。
「『お姉さまのように弾きたい』の一点張りでなあ…寝ずに練習するんで困ってるんだ」
花島田君は心底弱った様子でため息をついて、そう言った。
「そりゃあ…無理ですよ」花島田君の視線を捉えてから、私はわざと大げさに胸を張る「これでも『天才・森住瀬名』の娘ですよ?あの頃は児童向けのコンクールは総ナメだったし、『天才美少女ヴァイオリニスト』の名を欲しいままにしてたんだから。簡単に真似されちゃあ困ります」
花島田君がほぐれたように笑う。私も笑った。
「『誰かのように』を捨てて、のびのび演奏できればもうそれでパーフェクトだと思うんだけどね…『失敗しないで』演奏することも含めて、ちょっと教えてあげる機会作ろうか」
そう言うと、花島田君は、ぱん!と両の手のひらを合わせた。
「森住!恩に着る!なんでも奢ります!」
めでたく成立した取引だったが、そこで話は終わらなかった。更にもうひとつお願いがあると言う。
「あいつは今絶賛『大人の女期』なんだ。なんでも1人でやりたがる。だから俺が森住に根回ししてたなんて知れたらへそを曲げられてしまうかも知れん。2、3日中に栄華が現れると思うんで、改めてあいつから依頼を受けてやって欲しいんだ」
『大人の女期』か。私は笑った。
「わかった。いいよ。そういうの、私も覚えがあるし…。じゃあ談合は『なかった』体で、本人から引き受ければいいのね?」
花島田君は深く頷いた。
つまり、私は栄華ちゃんが現れるのを待っていたのだ。

「…お姉さま?」
リビングのドアが控えめに開いて、栄華ちゃんが顔を覗かせた。
「セヴシックまで終わった?」
彼女には簡易的な基礎練をしてもらっていた。ほんの20分程度だけど、少し暖まっただろう。こくりと頷く彼女に私は笑いかけてから立ち上がる。依然どっかりとソファに座る万里を見下ろした。
「ば…日下くんどうする?」
なんとなく栄華ちゃんの手前、距離を作った。万里はうん、と頷いてから時計を確認する。午後4時少し手前。今日のところは小一時間で退去する予定だけど、この分だと万里はこのまま私の家まで一緒に帰って、食事することになるだろう。できればそのあと、ちょっと作業を手伝ってもらおうかな、なんて考える。万里はちゃんと察しているようで、なんだかにこにこしている。
「俺は…」
「万里くんはここでお兄さまといい子にしていてね。絶対に覗いたら駄目よ!」
びしりと万里に指を突きつけて、きっぱりと栄華ちゃんが言い放った。
鶴か、と呟いた花島田君と、万里の間抜けな顔に、思わず大笑いしてしまった。
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