アンドロギュノスの行進
それからわずか2日で、事態は急展開を迎えた。太良くんが母方の親戚に引き取られたのだ。『あっちゃん』は一時行方不明。しかしアパートの解約はされておらず、1週間ほどしてから万里のLINEに一言『生きてる。高校行く』とだけ連絡があったそうだ。
「だから大丈夫だよ。わざわざ連絡よこすんだから、ちゃんとするつもりがあって、状況も作れるんでしょ」
うちへ来た万里はそう言うと、黙って珈琲を飲んだ。言いたいことや聞きたいことは山程あったし、全然納得がいかないんだけど、これ以上は何も聞き出せそうにない。私はため息をついて、万里同様に珈琲をすすることにした。男の子って、わからない。
しばらくそうやってソファに隣り合って座って、黙って本を読んでいると、夜子、と呼びかけられた。つんつんと髪を一房つまんで引っ張られる。少々億劫に思いながら顔を向けると、そのまま被せるように深く口付けられた。舌と唇を甘く吸われて、続けて鼻と頰も啄ばまれる。気持ちよかったので、もう一度ねだって、しばらく舌を絡ませながらじゃれた。ソファにぽすんと押し倒される。このままするつもりかな。それでもいいけどちょっと寒いな、エアコンのリモコンはどこだっけ、と考えていると、万里は自分の身体を肘で支えながら、押し倒した私を愛しそうに見つめた。手を伸ばして頰を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。
「俺、最初の子供は男の子がいいな」
「…ゴムつけなかったらぶっ殺すよ」
万里の鳩尾に足の裏を当てて凄んでやったら、可笑しそうに笑った。
そんな風に無防備に未来の話をされるのは初めてで、照れ臭かったというのは、内緒。
「あっ夜子ちゃん!」
不吉な声と共に燕の巣中の制服を着た男が猛然と駆けてきた。バスケ部エースの脚力から逃げ切れるつもりはハナからなく、私はせめてもの武器に、持っていた書店の包みを目の前に掲げて中腰になった。
「…何その反応。夜子ちゃん俺のことそんなに嫌いなの…」
「気安く名前で呼ぶなって言ったでしょ」
「…森住さん」
「はい、なんですか?私は急いでいます。手短にお願いします」
一歩進んで間合いを詰められそうになって、慌てて後ずさる。露骨過ぎるかもしれないけど、こいつにはこれくらいじゃないと通じないだろう。全く気がないということをわかってもらわねば困る。
「好きな子見かけたら挨拶くらいしたいでしょうが。なんならお茶でも」
「あなたが好きなのは天野君でしょ?」
うっ、とタカオカは痛いところをつかれたような顔をする。全く失礼にもほどがある。
「私が『天野君と似た容姿の女』だから付き合ってほしい、なんてひどい侮辱だと思わない?女は物じゃないんだよ。というわけで私はあなたが大嫌い。もう声かけないでね、さようなら」
冷たく言い放ってその場を立ち去ろうとしたら、突然タカオカがアスファルトの上に崩れ落ちた。そのままべたりと土下座する。
「ごめん!この通り!」
往来の視線が一気に私たちに集中する。総毛立った私は、慌ててしゃがみこんでタカオカの腕を掴んだ。
「ちょっとやめてよ!目立つじゃない!」
腕を引っ張りあげてもビクともしない。どうしようどうしようとおろおろしていると、突然手を握られた。そのまま引っ張られて走り出す格好になる。
「タカオカ!騙したね!!」
腕を振りほどこうとしても全く歯が立たない。それどころか無理やり指を絡めて来る始末。もう本当にこいつやだ!!
人の視線を振り切るようにしばらく走って駅前商店街を抜けると、私たちは小さな公園にたどり着いた。そこでようやくタカオカは私の手を放してくれる。私はすぐに手を引っ込めて、後ろ手にリュックのポケットを探ると、防犯ブザーを取り出した。いつでも金具をひっこぬけるように、両手でつまんで目の前にかざす。
「待った!本当に、話したいだけなんだよ…頼むから…聞いて…」
「こんなだまし討ち卑怯だと思わないの!しかもわざわざ人気のない公園まで引っ張ってきて!あんたと2人きりになんて死んでもなりたくない!」
「わかった。悪かった。ごめんなさい。何もしないから…」
「どこにそんな保証があんのよ」
「確かに証明はできない…」
かくりとうなだれて、肩を落とす。
「…俺…どーしても天野が好きなんだよ…」
消え入りそうな声で呟く。私はちょっと迷ってから、公園の入り口にある、腰の高さほどの花壇に腰掛けた。ため息をつくと、タカオカはそろりと私の顔色を伺うように視線をあげた。私はスマホを取り出して、いじりながら隣を指で示す。彼はパッと明るい表情になると、私にぴったりくっついて座ろうとする。肩を殴って、人一人分空けた『隣』を指差して座らせた。
「それで?」
「でもそれっておかしくねえ?」
「何が?」
「だって俺男だよ?男が男を好きなんておかしいじゃん」
「そうでもないよ。そんなの勝手でしょ」
「不毛じゃん」
「どうして?子供が作れないから?あなた子供がほしいの?」
「いや、そういうわけでは…」
「それともセックスのやり方がわからない?」
「セ…!女のくせにすげー事言うね!!」
「それ嫌い」
「え、どれ?」
「『女のくせに』。なんで女の子が『セックス』って言っちゃいけないの?私だって彼とセックスするよ」
「えっ夜子ちゃん彼氏いるの!?」
立ち上がって叫んだ。うるさい男。
「名前で呼ぶな」
「すいません」またしおれるように座り直す。
「内緒で付き合ってる人がいる。私はあなたの主張にも腹が立ってるけど、それ以前に彼のことが好きだから、他の人とは付き合えません」
なんだよそういうことかぁー!とタカオカは天を仰いだ。なんか、根本的なことは伝わっていない気がするな。
「どうして男の子を好きじゃいけないの?別にいいじゃない。天野君だって、もしかしたらあなたの事が好きかもしれない。確認したわけじゃないんでしょ?」
「好きじゃねぇよ。あいつの好きな子知ってるもん俺」
雛姫のこと、知ってるのか。私はため息をついた。
「だとしても、天野君はあなたの気持ちを笑ったり、無下にしたりはしないと思うよ」
「そうかな…」
「そうだよ。何も言わないうちから諦めて、よく似た代わりをダッチワイフにしようとしてるなんて、そっちの方が軽蔑されるんじゃない?」
「ダッチワイフって…なんか君、結構キツイね」
どうもありがとう、と笑ってやった。幻滅してくれればそれも結果オーライだ。
「本当のことでしょう?タカオカ…君はさ、天野君のことが好きだけど、セックスは女の子としたいのね。だから私が都合よく見える、そうでしょう?」
ごもっとも、とタカオカはため息をついた。
「そうなんだよ。最低なんだ俺は。天野が女になって俺に乗っかってくれる夢ばっか見てる」まじかよ、最低だな。「あいつがあんな可愛くなきゃ俺だって…いやでもなんつーかあのまっすぐで男っぽいところもすげー好きでさ…話してても、一緒にバスケしててもすげー気持ちよくて…友達としても最高っていうか…はあ…やっぱり好きだ…」
タカオカの背中がどんどん折れ曲がって、腰掛けた膝に沈み込むように丸まってしまう。なんだか不憫に思えてきてしまう。
正直に言ってしまえば、限りなく疑似恋愛な友情なんだろう。でもなまじ最初に『女子と認識して一目惚れしてしまった』から混乱している。これだけはっきり『女の子とセックスしたい』と言えるんだから、答えは出ちゃってると思うんだけど…。
「天野君にはっきり振ってもらったら?」
「鬼かよ」
「だって要するに『女の子と恋愛したい』んでしょ?だから天野君の存在が邪魔だと」
「身も蓋もねえな!」
「違った、『天野君に恋愛感情を抱いている自分が邪魔』なんでしょ?だったらさっさと告ってフラれて、ちゃんと『お友達』になりなさいよ」
「それができりゃ苦労はねえよ…」
うじうじと情けない。私はくす、と笑った。
「あなたみたいなのは、どうせ高校に行ったらあっさり当たり障りない可愛い彼女作るんだよ」
「んだよそれ…」
タカオカはまた頭を抱えて沈み込むと、今度は首を傾けて、すくい上げるようにこちらを見つめてきた。
「何よ」
「やっぱり似てんなあ…どっちかって言ったら俺には夜子ちゃんのが理想なんだけどな…なんか結構強くて天野みあるし…」
いつの間にか至近距離に間合いを詰められている。伸ばされた指が頰に触れて、私は慌てて身を引いた。
「やめてよ。何度も言ってるけど、あんたのそれは『天野君ありき』なんだよ。勘違いしないで」
「もうこの際どっちでもいいや…」
ますます身体を近づけてくる。良くない!私は逃げるべく立ち上がった、と同時に黒い影が飛び込んできて、タカオカが後方に倒れた。
「はぁぁいトラちゃーん♡てんめぇぜんっぜん懲りてねえなぁ!」
「ってぇ…日下か!このやろう今日という今日は許さねえ!つーかなんでまたいんだよ!」
どうも万里がタカオカを蹴りつけたらしい。花壇の後方にあったツツジの茂みに沈んだタカオカは、細かい枝だらけになったまま立ち上がって、すぐさま拳を繰り出した。万里が連続で繰り出されたタカオカの両の拳を受け止めて、そのまま彼らはぎぎぎぎ、と拮抗する。私はその間に入って、2人の身体を押しのけた。
「私が呼んだの。タカオカ君が1番苦手そうだったから」
「ひでぇなぁ」
「もうあとは自分で考えなよ。あなたが1番に克服すべきは『天野君』。告るなり、押し倒すなりして玉砕なさい。わかった?」
はい、と小さくなるタカオカを置いて、私は踵を返した。森住さーん送るよー、なんて言いながら、ちゃっかり万里も後に付いてきた。そのまま振り返らずにずんずん歩いて、角を曲がったところで、強く肩を抱き寄せられた。
「こら、往来だよ」
「なんもされてないよね?」不機嫌な顔がアップになる。思わず笑みが溢れてしまった。キスしてあげたいけど、やめておく。
「ある意味『なんかされた』よ。引っ張り回されて、愚痴聞かされて…」
万里は失笑すると、私の肩から手を放した。2人並んでぶらぶらと帰途につく。
ご飯食べてく?と訊くと、鍋やろうぜー、と返事が返ってきた。
温かいご飯を食べられること、ふかふかのお布団で眠れること、愛する人達と一緒に暮らせること、好きな人と並んで歩けること。
それらは決して『当たり前』などではないんだな、と私は噛み締めた。
「だから大丈夫だよ。わざわざ連絡よこすんだから、ちゃんとするつもりがあって、状況も作れるんでしょ」
うちへ来た万里はそう言うと、黙って珈琲を飲んだ。言いたいことや聞きたいことは山程あったし、全然納得がいかないんだけど、これ以上は何も聞き出せそうにない。私はため息をついて、万里同様に珈琲をすすることにした。男の子って、わからない。
しばらくそうやってソファに隣り合って座って、黙って本を読んでいると、夜子、と呼びかけられた。つんつんと髪を一房つまんで引っ張られる。少々億劫に思いながら顔を向けると、そのまま被せるように深く口付けられた。舌と唇を甘く吸われて、続けて鼻と頰も啄ばまれる。気持ちよかったので、もう一度ねだって、しばらく舌を絡ませながらじゃれた。ソファにぽすんと押し倒される。このままするつもりかな。それでもいいけどちょっと寒いな、エアコンのリモコンはどこだっけ、と考えていると、万里は自分の身体を肘で支えながら、押し倒した私を愛しそうに見つめた。手を伸ばして頰を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。
「俺、最初の子供は男の子がいいな」
「…ゴムつけなかったらぶっ殺すよ」
万里の鳩尾に足の裏を当てて凄んでやったら、可笑しそうに笑った。
そんな風に無防備に未来の話をされるのは初めてで、照れ臭かったというのは、内緒。
「あっ夜子ちゃん!」
不吉な声と共に燕の巣中の制服を着た男が猛然と駆けてきた。バスケ部エースの脚力から逃げ切れるつもりはハナからなく、私はせめてもの武器に、持っていた書店の包みを目の前に掲げて中腰になった。
「…何その反応。夜子ちゃん俺のことそんなに嫌いなの…」
「気安く名前で呼ぶなって言ったでしょ」
「…森住さん」
「はい、なんですか?私は急いでいます。手短にお願いします」
一歩進んで間合いを詰められそうになって、慌てて後ずさる。露骨過ぎるかもしれないけど、こいつにはこれくらいじゃないと通じないだろう。全く気がないということをわかってもらわねば困る。
「好きな子見かけたら挨拶くらいしたいでしょうが。なんならお茶でも」
「あなたが好きなのは天野君でしょ?」
うっ、とタカオカは痛いところをつかれたような顔をする。全く失礼にもほどがある。
「私が『天野君と似た容姿の女』だから付き合ってほしい、なんてひどい侮辱だと思わない?女は物じゃないんだよ。というわけで私はあなたが大嫌い。もう声かけないでね、さようなら」
冷たく言い放ってその場を立ち去ろうとしたら、突然タカオカがアスファルトの上に崩れ落ちた。そのままべたりと土下座する。
「ごめん!この通り!」
往来の視線が一気に私たちに集中する。総毛立った私は、慌ててしゃがみこんでタカオカの腕を掴んだ。
「ちょっとやめてよ!目立つじゃない!」
腕を引っ張りあげてもビクともしない。どうしようどうしようとおろおろしていると、突然手を握られた。そのまま引っ張られて走り出す格好になる。
「タカオカ!騙したね!!」
腕を振りほどこうとしても全く歯が立たない。それどころか無理やり指を絡めて来る始末。もう本当にこいつやだ!!
人の視線を振り切るようにしばらく走って駅前商店街を抜けると、私たちは小さな公園にたどり着いた。そこでようやくタカオカは私の手を放してくれる。私はすぐに手を引っ込めて、後ろ手にリュックのポケットを探ると、防犯ブザーを取り出した。いつでも金具をひっこぬけるように、両手でつまんで目の前にかざす。
「待った!本当に、話したいだけなんだよ…頼むから…聞いて…」
「こんなだまし討ち卑怯だと思わないの!しかもわざわざ人気のない公園まで引っ張ってきて!あんたと2人きりになんて死んでもなりたくない!」
「わかった。悪かった。ごめんなさい。何もしないから…」
「どこにそんな保証があんのよ」
「確かに証明はできない…」
かくりとうなだれて、肩を落とす。
「…俺…どーしても天野が好きなんだよ…」
消え入りそうな声で呟く。私はちょっと迷ってから、公園の入り口にある、腰の高さほどの花壇に腰掛けた。ため息をつくと、タカオカはそろりと私の顔色を伺うように視線をあげた。私はスマホを取り出して、いじりながら隣を指で示す。彼はパッと明るい表情になると、私にぴったりくっついて座ろうとする。肩を殴って、人一人分空けた『隣』を指差して座らせた。
「それで?」
「でもそれっておかしくねえ?」
「何が?」
「だって俺男だよ?男が男を好きなんておかしいじゃん」
「そうでもないよ。そんなの勝手でしょ」
「不毛じゃん」
「どうして?子供が作れないから?あなた子供がほしいの?」
「いや、そういうわけでは…」
「それともセックスのやり方がわからない?」
「セ…!女のくせにすげー事言うね!!」
「それ嫌い」
「え、どれ?」
「『女のくせに』。なんで女の子が『セックス』って言っちゃいけないの?私だって彼とセックスするよ」
「えっ夜子ちゃん彼氏いるの!?」
立ち上がって叫んだ。うるさい男。
「名前で呼ぶな」
「すいません」またしおれるように座り直す。
「内緒で付き合ってる人がいる。私はあなたの主張にも腹が立ってるけど、それ以前に彼のことが好きだから、他の人とは付き合えません」
なんだよそういうことかぁー!とタカオカは天を仰いだ。なんか、根本的なことは伝わっていない気がするな。
「どうして男の子を好きじゃいけないの?別にいいじゃない。天野君だって、もしかしたらあなたの事が好きかもしれない。確認したわけじゃないんでしょ?」
「好きじゃねぇよ。あいつの好きな子知ってるもん俺」
雛姫のこと、知ってるのか。私はため息をついた。
「だとしても、天野君はあなたの気持ちを笑ったり、無下にしたりはしないと思うよ」
「そうかな…」
「そうだよ。何も言わないうちから諦めて、よく似た代わりをダッチワイフにしようとしてるなんて、そっちの方が軽蔑されるんじゃない?」
「ダッチワイフって…なんか君、結構キツイね」
どうもありがとう、と笑ってやった。幻滅してくれればそれも結果オーライだ。
「本当のことでしょう?タカオカ…君はさ、天野君のことが好きだけど、セックスは女の子としたいのね。だから私が都合よく見える、そうでしょう?」
ごもっとも、とタカオカはため息をついた。
「そうなんだよ。最低なんだ俺は。天野が女になって俺に乗っかってくれる夢ばっか見てる」まじかよ、最低だな。「あいつがあんな可愛くなきゃ俺だって…いやでもなんつーかあのまっすぐで男っぽいところもすげー好きでさ…話してても、一緒にバスケしててもすげー気持ちよくて…友達としても最高っていうか…はあ…やっぱり好きだ…」
タカオカの背中がどんどん折れ曲がって、腰掛けた膝に沈み込むように丸まってしまう。なんだか不憫に思えてきてしまう。
正直に言ってしまえば、限りなく疑似恋愛な友情なんだろう。でもなまじ最初に『女子と認識して一目惚れしてしまった』から混乱している。これだけはっきり『女の子とセックスしたい』と言えるんだから、答えは出ちゃってると思うんだけど…。
「天野君にはっきり振ってもらったら?」
「鬼かよ」
「だって要するに『女の子と恋愛したい』んでしょ?だから天野君の存在が邪魔だと」
「身も蓋もねえな!」
「違った、『天野君に恋愛感情を抱いている自分が邪魔』なんでしょ?だったらさっさと告ってフラれて、ちゃんと『お友達』になりなさいよ」
「それができりゃ苦労はねえよ…」
うじうじと情けない。私はくす、と笑った。
「あなたみたいなのは、どうせ高校に行ったらあっさり当たり障りない可愛い彼女作るんだよ」
「んだよそれ…」
タカオカはまた頭を抱えて沈み込むと、今度は首を傾けて、すくい上げるようにこちらを見つめてきた。
「何よ」
「やっぱり似てんなあ…どっちかって言ったら俺には夜子ちゃんのが理想なんだけどな…なんか結構強くて天野みあるし…」
いつの間にか至近距離に間合いを詰められている。伸ばされた指が頰に触れて、私は慌てて身を引いた。
「やめてよ。何度も言ってるけど、あんたのそれは『天野君ありき』なんだよ。勘違いしないで」
「もうこの際どっちでもいいや…」
ますます身体を近づけてくる。良くない!私は逃げるべく立ち上がった、と同時に黒い影が飛び込んできて、タカオカが後方に倒れた。
「はぁぁいトラちゃーん♡てんめぇぜんっぜん懲りてねえなぁ!」
「ってぇ…日下か!このやろう今日という今日は許さねえ!つーかなんでまたいんだよ!」
どうも万里がタカオカを蹴りつけたらしい。花壇の後方にあったツツジの茂みに沈んだタカオカは、細かい枝だらけになったまま立ち上がって、すぐさま拳を繰り出した。万里が連続で繰り出されたタカオカの両の拳を受け止めて、そのまま彼らはぎぎぎぎ、と拮抗する。私はその間に入って、2人の身体を押しのけた。
「私が呼んだの。タカオカ君が1番苦手そうだったから」
「ひでぇなぁ」
「もうあとは自分で考えなよ。あなたが1番に克服すべきは『天野君』。告るなり、押し倒すなりして玉砕なさい。わかった?」
はい、と小さくなるタカオカを置いて、私は踵を返した。森住さーん送るよー、なんて言いながら、ちゃっかり万里も後に付いてきた。そのまま振り返らずにずんずん歩いて、角を曲がったところで、強く肩を抱き寄せられた。
「こら、往来だよ」
「なんもされてないよね?」不機嫌な顔がアップになる。思わず笑みが溢れてしまった。キスしてあげたいけど、やめておく。
「ある意味『なんかされた』よ。引っ張り回されて、愚痴聞かされて…」
万里は失笑すると、私の肩から手を放した。2人並んでぶらぶらと帰途につく。
ご飯食べてく?と訊くと、鍋やろうぜー、と返事が返ってきた。
温かいご飯を食べられること、ふかふかのお布団で眠れること、愛する人達と一緒に暮らせること、好きな人と並んで歩けること。
それらは決して『当たり前』などではないんだな、と私は噛み締めた。
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