アンドロギュノスの行進
まただ、またあの青いスモッグ。この寒空に半ズボン。
例によって寿々木楽器で油を売っていた私は、人混みに紛れそうになる頼りない姿を追いかけて、反射的に自動ドアから飛び出した。
「ねえ…待って!」
そう言えば名前がわからない。彼は当然私が自分に呼びかけているとは知らずに、ふらふらと大人の足元を縫うように歩いている。私はごめんなさいごめんなさいとぶつかる人々に謝りながら、青いスモッグの腕をやっとの思いで掴んだ。
後ろにつんのめるようにして彼は立ち止まり、私を振り返る。つぶらな瞳。ふわふわとした色素の薄い髪は、あの「あっちゃ」(あれはあのヤンキーに対する彼なりの呼称なのではないかと推測している)に似ているともつかない。
「ごめんね急に。でもこんなところ一人で歩いてたら危ないし、そんな格好じゃ風邪引いちゃう。今日は『あっちゃ』は?」
少し考えるそぶりを見せてから、彼はふるふると首を振る。今日も放置かよ。私は相変わらず薄着の彼の腕をそっとさすった。
「私のこと、覚えてる?この間あの楽器屋さんの前で会ったの」
寿々木楽器の光を指差す。彼はこっくりと頷いた。
「少しだけ、寄って行って。ちょっとだけあったまろう?楽器屋のおじさんがココアを作ってくれるから。ね?」
勝手なことを言ってしまったが、私も大抵自由にお茶を淹れて飲んでる。差し支えなかろう。ちょっと迷うようにしてから、またこっくりと頷いてくれた彼の手を引いて、私は寿々木楽器に戻ったのだった。
「あれ、夜子ちゃんその子何?知り合い?」
寿々木楽器の社長は、50代半ばの、紳士と呼ぶには大概カジュアルな男性である。明るく染めた長髪を馬の尻尾みたいに後ろでくくって、派手なセルフレームの眼鏡。今日の出で立ちはポールスミスの光沢のあるスーツ(裏地が花柄)に、花柄のドレスシャツ。これで職人としての腕は一流だというんだから、なんというか、「いかにも」だ。
「うん…ほぼ行きずりなんだけど…なんかあったかいものあげてもいいかな」
はいよ、と従業員その1・安曇さんがバックヤードに引っ込んだ。安曇さんは40代男性。寿々木楽器のバイヤー兼営業兼店員を担当している。お子さんがまだ幼稚園児だというから、少し彼に重なるものがあるのかもしれない。あっという間にココアを作って戻ってくる。
カウンターにやっとこ腰掛けた彼に差し出された、デミタスカップに注がれたそれは、小さな手にすっぽりと収まった。
はふはふと湯気と格闘しながらココアを飲む膝小僧が真っ赤だ。寒かろう。私は胸がちくりと痛むのを感じた。
んー、と社長と安曇さんは彼を眺める。ふと安曇さんが彼のスモックのポケットに指を差し入れた。赤いチューリップ型の名札を引っ張り出す。
「そのスモッグは『きらら園』の子だなー。んーと、ぜん…ざい…ふとし?違うな、たいら?」
しどろもどろ読み上げる手元を覗き込んだ。『漸在太良』とある。
「たいらくん?」
そう呼びかけると、彼はまたこっくりと頷いた。
「きらら園の子かな?」
安曇さんが腰を落として太良くんと目を合わせた。こっくり。
「ぜんざいたいらくん?」
こっくり。
「ひとりなの?お父さんやお母さんは?」
首を振る。
「いないの?」
ちょっと考えて、「あっちゃ、いる」。おお、喋った。こないだのヤンキーのことだな。『パパ』ではなく『あっちゃ』。
「何歳?」
パッと右手を広げた。5歳ということか。
安曇さんはそこまでで、一旦腰を上げると、私と社長を引っ張って少しカウンターから離れると、声をひそめた。
「なんか変だね」
「安曇さんもそう思います?」
「うん。5歳にしては幼いというか、うちの子もちょっと遅い方なんだけど、もっとなんつーか根本的に、決定的に語彙が少ない。発話も微妙」
「知的障害ってことですか?」
「いやー、わかんないけど、こっちが言ってることはちゃんとわかってるし、キャッチボールもできてるから…なんつーかもっとこう…発達的なことかもしんないんだけど…大人とのコミュニケーションがすごい少ないんじゃないかな…」
「ネグレクト?」
社長がちょっと眉をひそめた。
「大体この寒空の下あんな薄着で、そもそも未就学児一人にしとかないでしょう普通」
安曇さんがちょっと熱っぽく語る。お父さんの顔だ。
社長は相変わらず眉をひそめたまま、太良くんを遠くからじっと見つめる。
「俺、なんっかあの子見たことあるんだけどー…」
「よくこの辺うろついてるからじゃないですか?私もこの間のデモ演奏の時に会ったんだもん」
「んーそーでなくてんーとえーとーぉぉ」
おでこをトントンと人差し指でつつきながら、社長は目をぎゅっとつむった。それを私と安曇さんは固唾を飲んで見守る。
んあっ!と社長は目を見開いた。そのまま人差し指を私に向ける。
「思い出した!『ニヴルヘイム』のある通りの裏のさ、キャバクラの!」
「キャバ嬢の子?」
「じゃなくて黒服!『Rote Rose』に最近入った奴でね、多分歳誤魔化してるんだな。ちょっと若すぎるっつって清瀬がすごい気にしててさぁ。そいつが連れて歩いてんの見たんだわ」
あちゃあ、と安曇さんが頭を抱えた。ヤンパパのネグレクトかよー、と泣きそうな顔をする。
「もうそういうの俺だめぇぇ。泣く…」
エプロンで涙をぬぐい出した安曇さんの背中をさすりながら、私も太良くんを不憫に感じてしまう。
「私、多分その黒服の人会ったと思う。背が高くて、茶髪の人でしょ?『父親じゃない』って言ってた」
私が言うと、大人2人はまたうーん、と頭を抱える。
「彼女の子供?」
「弟?」
「わかんないけど、どっちにしてもあんまり大事にされてる雰囲気ではなかったかも…」
ぐああっ!と安曇さんは頭をかきむしってからがばりと立ち上がった。
「太良くん!ココアお代りしよう!ドーナツあるよ!食べる?食べるね!よし食べよう!」
きょとんとしている太良くんにそう畳み掛けると、バックヤードに駆け込んだ。
社長はやれやれとため息をつく。
「あいつぁ情にもろいからなぁ」
「お子さんおんなじくらいみたいだし…社長は冷静ですね」
そう言うと、社長は苦笑した。
「俺だってあれくらいの子は孫でもおかしくないからそれなりに不憫だとは思うけどさ、現実問題として俺らにできることは、児童相談所に電話するくらいでしょ。今飯を与えてやることも大事でしょうけど、その先を考えんのが大人の仕事よ」
「シビアぁ」
「夜子ちゃんだって、考え方としてはこっち側でしょ?」
意地悪そうに笑う。
「その黒服の彼と話せれば、もう少し状況がわかるかなとは思うんですけど…」
「折を見て俺から店のオーナーに探り入れてみるよ」
よろしくお願いします、と私は頭を下げた。社長は少しだけ切なそうに笑った。
2杯目のココアとドーナツを食べた太良くんは、少しだけ私たちに打ち解けてくれたようだった。
知らない人間にこうやって簡単に連れ込まれてしまうんだから、こんな幼い子を1人にしておくべきではないな、とちょっと憤ってしまう。連れ込んだのは他ならぬ私なんだけれども。
ほぼお喋りはしてくれないけれど、太良くんはなんとなく可愛い子で、私も少なからずほだされてしまっている。
『Rest Rose』は所謂「夜キャバ」というやつで(キャバクラには朝昼晩と営業時間が異なる種類が存在するらしい。初めて知った)、開店時間は20時。おそらく従業員が出勤するのは19時半頃なので、今電話しても繋がらない可能性が高い。見たところ太良くんは、やせっぽちだが栄養状態がすこぶる悪いというほどではなく、外傷もない。行政に通報すべきか迷ったが、まずはキャバクラに『保護者』の状況を確認しようということになった。とはいえこのまま放り出す訳にもいかないので、保育園の方に連絡する、と大人達は決めたようだった。
それまで30分だけ猶予をもらって、私は太良くんとピアノを弾くことにした。
お店の真ん中のグランドピアノの前の椅子に腰掛けると、太良くんを膝の上に乗せる。何かリクエストを、と思ったけれど、お話ししてくれるか微妙だったので、こちらで子供が好きそうな曲を何曲か思いつく範囲で弾くことにした。店内にお客はまばら。多少遊んでもよかろう。大抵この店は遊んでばかりだし。
ちょこなんと私の膝に収まる太良くんの顔をちらりと覗き込んでから、私は鍵盤を叩き出した。
例によって寿々木楽器で油を売っていた私は、人混みに紛れそうになる頼りない姿を追いかけて、反射的に自動ドアから飛び出した。
「ねえ…待って!」
そう言えば名前がわからない。彼は当然私が自分に呼びかけているとは知らずに、ふらふらと大人の足元を縫うように歩いている。私はごめんなさいごめんなさいとぶつかる人々に謝りながら、青いスモッグの腕をやっとの思いで掴んだ。
後ろにつんのめるようにして彼は立ち止まり、私を振り返る。つぶらな瞳。ふわふわとした色素の薄い髪は、あの「あっちゃ」(あれはあのヤンキーに対する彼なりの呼称なのではないかと推測している)に似ているともつかない。
「ごめんね急に。でもこんなところ一人で歩いてたら危ないし、そんな格好じゃ風邪引いちゃう。今日は『あっちゃ』は?」
少し考えるそぶりを見せてから、彼はふるふると首を振る。今日も放置かよ。私は相変わらず薄着の彼の腕をそっとさすった。
「私のこと、覚えてる?この間あの楽器屋さんの前で会ったの」
寿々木楽器の光を指差す。彼はこっくりと頷いた。
「少しだけ、寄って行って。ちょっとだけあったまろう?楽器屋のおじさんがココアを作ってくれるから。ね?」
勝手なことを言ってしまったが、私も大抵自由にお茶を淹れて飲んでる。差し支えなかろう。ちょっと迷うようにしてから、またこっくりと頷いてくれた彼の手を引いて、私は寿々木楽器に戻ったのだった。
「あれ、夜子ちゃんその子何?知り合い?」
寿々木楽器の社長は、50代半ばの、紳士と呼ぶには大概カジュアルな男性である。明るく染めた長髪を馬の尻尾みたいに後ろでくくって、派手なセルフレームの眼鏡。今日の出で立ちはポールスミスの光沢のあるスーツ(裏地が花柄)に、花柄のドレスシャツ。これで職人としての腕は一流だというんだから、なんというか、「いかにも」だ。
「うん…ほぼ行きずりなんだけど…なんかあったかいものあげてもいいかな」
はいよ、と従業員その1・安曇さんがバックヤードに引っ込んだ。安曇さんは40代男性。寿々木楽器のバイヤー兼営業兼店員を担当している。お子さんがまだ幼稚園児だというから、少し彼に重なるものがあるのかもしれない。あっという間にココアを作って戻ってくる。
カウンターにやっとこ腰掛けた彼に差し出された、デミタスカップに注がれたそれは、小さな手にすっぽりと収まった。
はふはふと湯気と格闘しながらココアを飲む膝小僧が真っ赤だ。寒かろう。私は胸がちくりと痛むのを感じた。
んー、と社長と安曇さんは彼を眺める。ふと安曇さんが彼のスモックのポケットに指を差し入れた。赤いチューリップ型の名札を引っ張り出す。
「そのスモッグは『きらら園』の子だなー。んーと、ぜん…ざい…ふとし?違うな、たいら?」
しどろもどろ読み上げる手元を覗き込んだ。『漸在太良』とある。
「たいらくん?」
そう呼びかけると、彼はまたこっくりと頷いた。
「きらら園の子かな?」
安曇さんが腰を落として太良くんと目を合わせた。こっくり。
「ぜんざいたいらくん?」
こっくり。
「ひとりなの?お父さんやお母さんは?」
首を振る。
「いないの?」
ちょっと考えて、「あっちゃ、いる」。おお、喋った。こないだのヤンキーのことだな。『パパ』ではなく『あっちゃ』。
「何歳?」
パッと右手を広げた。5歳ということか。
安曇さんはそこまでで、一旦腰を上げると、私と社長を引っ張って少しカウンターから離れると、声をひそめた。
「なんか変だね」
「安曇さんもそう思います?」
「うん。5歳にしては幼いというか、うちの子もちょっと遅い方なんだけど、もっとなんつーか根本的に、決定的に語彙が少ない。発話も微妙」
「知的障害ってことですか?」
「いやー、わかんないけど、こっちが言ってることはちゃんとわかってるし、キャッチボールもできてるから…なんつーかもっとこう…発達的なことかもしんないんだけど…大人とのコミュニケーションがすごい少ないんじゃないかな…」
「ネグレクト?」
社長がちょっと眉をひそめた。
「大体この寒空の下あんな薄着で、そもそも未就学児一人にしとかないでしょう普通」
安曇さんがちょっと熱っぽく語る。お父さんの顔だ。
社長は相変わらず眉をひそめたまま、太良くんを遠くからじっと見つめる。
「俺、なんっかあの子見たことあるんだけどー…」
「よくこの辺うろついてるからじゃないですか?私もこの間のデモ演奏の時に会ったんだもん」
「んーそーでなくてんーとえーとーぉぉ」
おでこをトントンと人差し指でつつきながら、社長は目をぎゅっとつむった。それを私と安曇さんは固唾を飲んで見守る。
んあっ!と社長は目を見開いた。そのまま人差し指を私に向ける。
「思い出した!『ニヴルヘイム』のある通りの裏のさ、キャバクラの!」
「キャバ嬢の子?」
「じゃなくて黒服!『Rote Rose』に最近入った奴でね、多分歳誤魔化してるんだな。ちょっと若すぎるっつって清瀬がすごい気にしててさぁ。そいつが連れて歩いてんの見たんだわ」
あちゃあ、と安曇さんが頭を抱えた。ヤンパパのネグレクトかよー、と泣きそうな顔をする。
「もうそういうの俺だめぇぇ。泣く…」
エプロンで涙をぬぐい出した安曇さんの背中をさすりながら、私も太良くんを不憫に感じてしまう。
「私、多分その黒服の人会ったと思う。背が高くて、茶髪の人でしょ?『父親じゃない』って言ってた」
私が言うと、大人2人はまたうーん、と頭を抱える。
「彼女の子供?」
「弟?」
「わかんないけど、どっちにしてもあんまり大事にされてる雰囲気ではなかったかも…」
ぐああっ!と安曇さんは頭をかきむしってからがばりと立ち上がった。
「太良くん!ココアお代りしよう!ドーナツあるよ!食べる?食べるね!よし食べよう!」
きょとんとしている太良くんにそう畳み掛けると、バックヤードに駆け込んだ。
社長はやれやれとため息をつく。
「あいつぁ情にもろいからなぁ」
「お子さんおんなじくらいみたいだし…社長は冷静ですね」
そう言うと、社長は苦笑した。
「俺だってあれくらいの子は孫でもおかしくないからそれなりに不憫だとは思うけどさ、現実問題として俺らにできることは、児童相談所に電話するくらいでしょ。今飯を与えてやることも大事でしょうけど、その先を考えんのが大人の仕事よ」
「シビアぁ」
「夜子ちゃんだって、考え方としてはこっち側でしょ?」
意地悪そうに笑う。
「その黒服の彼と話せれば、もう少し状況がわかるかなとは思うんですけど…」
「折を見て俺から店のオーナーに探り入れてみるよ」
よろしくお願いします、と私は頭を下げた。社長は少しだけ切なそうに笑った。
2杯目のココアとドーナツを食べた太良くんは、少しだけ私たちに打ち解けてくれたようだった。
知らない人間にこうやって簡単に連れ込まれてしまうんだから、こんな幼い子を1人にしておくべきではないな、とちょっと憤ってしまう。連れ込んだのは他ならぬ私なんだけれども。
ほぼお喋りはしてくれないけれど、太良くんはなんとなく可愛い子で、私も少なからずほだされてしまっている。
『Rest Rose』は所謂「夜キャバ」というやつで(キャバクラには朝昼晩と営業時間が異なる種類が存在するらしい。初めて知った)、開店時間は20時。おそらく従業員が出勤するのは19時半頃なので、今電話しても繋がらない可能性が高い。見たところ太良くんは、やせっぽちだが栄養状態がすこぶる悪いというほどではなく、外傷もない。行政に通報すべきか迷ったが、まずはキャバクラに『保護者』の状況を確認しようということになった。とはいえこのまま放り出す訳にもいかないので、保育園の方に連絡する、と大人達は決めたようだった。
それまで30分だけ猶予をもらって、私は太良くんとピアノを弾くことにした。
お店の真ん中のグランドピアノの前の椅子に腰掛けると、太良くんを膝の上に乗せる。何かリクエストを、と思ったけれど、お話ししてくれるか微妙だったので、こちらで子供が好きそうな曲を何曲か思いつく範囲で弾くことにした。店内にお客はまばら。多少遊んでもよかろう。大抵この店は遊んでばかりだし。
ちょこなんと私の膝に収まる太良くんの顔をちらりと覗き込んでから、私は鍵盤を叩き出した。