決壊が望むもの

「頼む!この通り」
公衆の面前で拝まれ、わたしは途方に暮れた。


ヴァイオリンという楽器は少々手間がかかる。弦の張替え、弓の毛替え、本体の調整などメンテナンスが必要なのだ。弦の張替えは自分で出来るが、弓の毛替えと本体の調整は、プロにお任せするのが基本。私の場合は、馴染みの工房にお願いしている。
アマチュアだけど弾かない日はないので、弓の毛替えは3ヶ月に1度、楽器の調整は年に1度。他にも消耗品を買ったりなんとなく楽器を眺めたりするので、工房には週に1度は足を運んでいる。
3歳でヴァイオリンを始めた頃からずっと、欠かさずの習慣。

私が贔屓にしている工房は、最寄駅からは電車で15分ほど。中程度の大きさで、10人の職人が働いている。社長は自らも職人であり、奏者でもある。明るくて仲の良い工房で、楽譜や楽器も多く揃えられていて、居心地が良い。
子供の頃からずっと私の成長を見守ってくれている、親戚の家ような場所だ。

そこで私はごくたまにデモ演奏を頼まれることがある。新しい楽器が入った時や、なんとなく客寄せな時もあるが、1回の演奏で、報酬がわりに弓を1度張り替えてくれるのだ。一応私も義務教育中で、我が東一中は当然ながらアルバイトは禁止されている。金銭の授受が行われてしまうと、バレた時に何かと厄介なので、現物支給、というわけだ。
直近で演奏したのはつい先週。その日は新しい楽器を社長が演奏するというので、私はピアノ伴奏を担当した。陽気で、気ままで、自由で、思いつくまま2人で弾きまくって最高に楽しかった。
しかしこれが、私が今途方に暮れている原因となったのだ。

目の前で私を拝んでいるのは、2年B組出席番号14番、東雲亘。ジャズ研究会所属のドラマーである。
「頼む、森住。東一中ジャズ研究会を救ってくれ!」
人目をはばかることなく私を拝み倒し、今、教室中の視線を欲しいままにしているこの彼に、先日の工房でのデモ演奏を見られていたのだ。
「東雲君、あのね…」
「俺は君のあの演奏に純粋に感動したんだ。是非一緒に演奏したい。ジャズ研に入会して下さい!」
ひときわ大きな声をあげる。こいつは…
「確信犯だなこんにゃろ…」
「…聡いな。そんなところも気に入った。それなら話は早い。必ず入会してもらうぞ。分はこちらにあるんだからな」
嫌な笑い方をする。あのデモ演奏に報酬が発生していることを知ってるんだ。それを直接言わずにパフォーマンスで注目を集めて、いざとなったら私に不利な発言をする準備があると言いたいわけだ。
「汚い」
「なんとでも言え。文化祭まであと1ヶ月を切ってるんだ。なりふり構ってらんねんだよ」
ジャズ研は現在1年生が1人、2年生が2人、3年生が3人の6名で構成されている。トランペット、ヴォーカル、ドラム、ベース、サックス各1名ずつ。1年生にもう1人、ピアノ奏者がいたのだが、先週親の海外転勤のため転校を余儀なくされてしまったという。この編成でバンドをやるならピアノは欠かせない。即戦力の代替要員が至急必要になったというわけだ。

私と東雲君はじりじりと睨み合う。
未だ教室中の視線が私たちに集中している。みんな固唾を飲んで見守っている、といった風情。花島田君は自席で頬杖をついてこちらを面白そうに眺めている。東雲くんの肩越しに行子が「あきらめろ」と口だけを動かした。
正直ジャズ研に興味はある。春の部活勧誘の時、かなりレベルの高い演奏をしていた。一緒にやったら楽しそうだと思う。でもいささか彼らは派手だ。ジャズフェスの常連で実績もさることながら、警察の許可なく路上ライブをやったり、校内でゲリラライブをしかけて先生とバトルになったりと、話題には事欠かないいわゆる問題児集団でもあるのだ。学校ではあまり目立たず静かに暮らしたい私は、あの中に混ざるのには抵抗がある。

「仕方ないな、こういうカードは品がないから嫌だったんだけど…」
ため息混じりに呟くと、東雲君は私に近づいて耳元に口を寄せた。反射的に身を引きそうになる私の腕を柔らかく掴んで引き止める。
「日下万里」
私にだけ聞こえるように囁くと、にっこりと笑ってみせた。
「どういう意味…」
「自分で考えて?」
私の腕から手を離すと、東雲君はひらひらと両手を振った。
「あ、日下君」
行子の声。思わず教室の入り口に視線を送ると、最悪のタイミングで万里が現れた。いつの間にか廊下は野次馬で鈴なりだ。だから嫌なんだよジャズ研は!!
「よぉ万里ぃ」
東雲君はわざとらしく呑気な声を出す。万里の肩のあたりにぴょこぴょこと小さな頭が上下している。俺もいる!俺も俺も!と騒ぐあの頭は多分天野君。
「のの、何やってんのお前…」
『のの』とは東雲君の愛称である。万里は私と東雲君を交互に見てから、ちょっと心配そうに私に視線をよこした。東雲君はますます嬉しそうににっこり。まずい、なんだかわからないけど、まずい気がする。
「どうする?森住さん」
とどめと言わんばかりにねっとりと質問を投げかける。
だめだ、降参。従った方がいい、そう私の本能が告げている。
「…わかった、わかりました。とりあえず文化祭まで。それでいい?」
「ありがとう。よろしく!」
してやったりという顔で差し出された手を握り返しながら、もう私は後悔しているのだった。
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