猿の堅実、犬の逡巡
「あっ、ごめんなさい」
謝罪の言葉と共に、私は取り落としてしまった本を拾おうとしゃがみこんだ。緑色のショッパーに包まれたそれは、私の手が届くより先に、ぶつかってしまった相手の手によって拾い上げられた。
「どうもありがとう」
受け取って顔を上げると、見覚えのある顔があった。
「…花島田君」
「森住か」
クラスメイトだった。会話を交わしたことはなかったが、何かと目立つ存在なので顔と名前は一致している。むしろ彼が私を認識していることの方が意外だった。
水曜日の放課後。私は街を目的もなくぶらぶらして、本屋で次に読む本を物色した帰りだった。暇だし友達を誘ってカラオケに行ったりしたってよかったけど、それもなんとなく億劫で、ぼんやり地味に過ごしていたところ。
「私の名前、覚えてたのね」
「俺はクラスメイトは全員フルネーム頭に入ってるぞ。大体もう9月だ。わからん方が問題じゃないか?」
意志の強そうな眉毛を動かしてそう言う。御見逸れしました。実は半分くらいわからないままだとは言えなくなってしまった。
「…とにかく、失礼しました。拾ってくれてありがとう。今日はバスケ部お休み?」
「定休日でな。待ち合わせを…おっ来た来た。おーい!有朱!」
私の背後に向かって彼は呼びかけた。よく通る良い声だ。バスケ部のキャプテンだというから、これも有効な能力のひとつなんだろう。
私はなんとなく彼の視線を追うように振り返って、絶句した。
「アリス…?」
「げげ、夜子」
アリスだった。『ニヴルヘイム』に来る時みたいな露出度の高い服装ではなく、それどころか制服だ。しかも白百合女学院だ。メイクも薄いけど、間違いなくあのアリス。
「アリス…何それ…」
「何って…あーもう!その制服東一中じゃん!何よもう…しかも英達と知り合いかよ…」
頭を抱える。え、なんかごめんね?と何故か私が謝ってしまう。見かけはお嬢様でもノリはいつもと変わらない。
「なんだお前ら知り合いか?」
「え、えーっと…?」
これ、どこまで言っていいの?とアリスに視線を送る。
「私が夜遊びしてる店のオーナーの姪っ子!こっちは従兄弟!」
簡潔に紹介してくだすった。
「従兄弟?花島田君と?似てないね…」
全然顔の系統が違う。花島田君はその特徴的な眉毛を片方だけ器用に上げる。
「なんだ有朱の夜遊び仲間か。見かけによらず悪いんだな森住」
「違います。私はピアノ弾いてるだけで、夜遊びはしてません。もーアリス変なこと言わないでよ…」
「私は事実しか言ってません。栄達、確かに夜子は溜まり場によくいるけど、わりかしカタブツよ?ピアノばーっかり弾いてて全然遊びに来ないもん。はい、ちゃんと弁護しました」
ぺろっと舌を出す。白百合の制服には似つかわしくない仕草だ。でも律儀なところはそういえば育ちの良さなのかもしれない。
「もしかして万里も同中?っていうかあいつ中2なの!?信じっらんない!夜子と『知り合い』ってそういうことかー」
くそー騙された!とアリスは地団駄を踏んだ。ウェーブのかかった長い髪が揺れる。
「アリスは?いくつなの?」
「白百合高等部の1年」
「えっじゃあ2個上…」
タメかと思ってた。お嬢な上に先輩か。
「そーよ!先輩とお呼び」ふふん、と胸を張る。反応がガキ臭いな。
「『万里』って、日下万里か?2Bの?」
私たちのやり取りを黙って聞いていた花島田君が口を挟んだ。
「名字、『日下』っていうんだ。珍しい名前だから同一人物だよね。英達、万里のこと知ってるの?」
「おう。あいつは目立つからな。バスケ部に勧誘してるんだがなかなかガードが固い」
「万里がバスケなんかするかなぁ。あいつ悪いよー?女喰いまくって」
「アリス…」
そうと言えばそうなんだけど、言葉にすると本当に聞こえが悪いな。私はちょっと困ってしまう。弁護したい気持ちはあるんだけど、字面は間違っていないのがまた…。
「何よ、あんただって引っかかってるんでしょうが。なーんかいっつもふたりイチャイチャしてるし。それとも付き合ってんの?」
「森住、日下と付き合ってんのか!バスケ部入れって言ってくれ!」
「引っかかってないし付き合ってもない!あの日下君が特定の相手作るわけがないでしょうが」
従兄弟コンビの畳み掛けるような攻撃につい声を荒げてしまった。厳密に言えば「引っかかってる」は事実だけど、認めるもんか。
「はーん。学校でもそんな感じなのかあいつは」
したり顔のアリス。
「流石に喰い散らかしてはいないよ」
「ある意味喰い散らかしてるんじゃないのか?あれは。常にゾロゾロと何か連れて歩いて」
なんだか万里の悪口大会になってしまいそうだ。私はため息をついた。
「…とにかくいらん誤解はしないで頂戴。私と日下君はなんでもありません。お互い学校に知れたらまずいことに関して協定結んでるだけだよ。アリスは?白百合のお嬢だってお店の人達に知れてもいいの?」
反撃するとアリスはぐっと顎を引いて黙った。
「嫌な子ぉ。わかってるくせに」
ぼやけぼやけ。
「ね。じゃあこの話はおしまい。花島田君は…明日もうちょっとゆっくり弁解させてもらっても?」
「よかろ」
なかなか紳士だ。よかった。
「アリス」「英達」ハモった。
「「これ以上余計なこと言わないでよ」」
完璧なユニゾンを作ってしまって、思わず笑い出した私達を、花島田君は少々げんなりした様子で見ていた。
謝罪の言葉と共に、私は取り落としてしまった本を拾おうとしゃがみこんだ。緑色のショッパーに包まれたそれは、私の手が届くより先に、ぶつかってしまった相手の手によって拾い上げられた。
「どうもありがとう」
受け取って顔を上げると、見覚えのある顔があった。
「…花島田君」
「森住か」
クラスメイトだった。会話を交わしたことはなかったが、何かと目立つ存在なので顔と名前は一致している。むしろ彼が私を認識していることの方が意外だった。
水曜日の放課後。私は街を目的もなくぶらぶらして、本屋で次に読む本を物色した帰りだった。暇だし友達を誘ってカラオケに行ったりしたってよかったけど、それもなんとなく億劫で、ぼんやり地味に過ごしていたところ。
「私の名前、覚えてたのね」
「俺はクラスメイトは全員フルネーム頭に入ってるぞ。大体もう9月だ。わからん方が問題じゃないか?」
意志の強そうな眉毛を動かしてそう言う。御見逸れしました。実は半分くらいわからないままだとは言えなくなってしまった。
「…とにかく、失礼しました。拾ってくれてありがとう。今日はバスケ部お休み?」
「定休日でな。待ち合わせを…おっ来た来た。おーい!有朱!」
私の背後に向かって彼は呼びかけた。よく通る良い声だ。バスケ部のキャプテンだというから、これも有効な能力のひとつなんだろう。
私はなんとなく彼の視線を追うように振り返って、絶句した。
「アリス…?」
「げげ、夜子」
アリスだった。『ニヴルヘイム』に来る時みたいな露出度の高い服装ではなく、それどころか制服だ。しかも白百合女学院だ。メイクも薄いけど、間違いなくあのアリス。
「アリス…何それ…」
「何って…あーもう!その制服東一中じゃん!何よもう…しかも英達と知り合いかよ…」
頭を抱える。え、なんかごめんね?と何故か私が謝ってしまう。見かけはお嬢様でもノリはいつもと変わらない。
「なんだお前ら知り合いか?」
「え、えーっと…?」
これ、どこまで言っていいの?とアリスに視線を送る。
「私が夜遊びしてる店のオーナーの姪っ子!こっちは従兄弟!」
簡潔に紹介してくだすった。
「従兄弟?花島田君と?似てないね…」
全然顔の系統が違う。花島田君はその特徴的な眉毛を片方だけ器用に上げる。
「なんだ有朱の夜遊び仲間か。見かけによらず悪いんだな森住」
「違います。私はピアノ弾いてるだけで、夜遊びはしてません。もーアリス変なこと言わないでよ…」
「私は事実しか言ってません。栄達、確かに夜子は溜まり場によくいるけど、わりかしカタブツよ?ピアノばーっかり弾いてて全然遊びに来ないもん。はい、ちゃんと弁護しました」
ぺろっと舌を出す。白百合の制服には似つかわしくない仕草だ。でも律儀なところはそういえば育ちの良さなのかもしれない。
「もしかして万里も同中?っていうかあいつ中2なの!?信じっらんない!夜子と『知り合い』ってそういうことかー」
くそー騙された!とアリスは地団駄を踏んだ。ウェーブのかかった長い髪が揺れる。
「アリスは?いくつなの?」
「白百合高等部の1年」
「えっじゃあ2個上…」
タメかと思ってた。お嬢な上に先輩か。
「そーよ!先輩とお呼び」ふふん、と胸を張る。反応がガキ臭いな。
「『万里』って、日下万里か?2Bの?」
私たちのやり取りを黙って聞いていた花島田君が口を挟んだ。
「名字、『日下』っていうんだ。珍しい名前だから同一人物だよね。英達、万里のこと知ってるの?」
「おう。あいつは目立つからな。バスケ部に勧誘してるんだがなかなかガードが固い」
「万里がバスケなんかするかなぁ。あいつ悪いよー?女喰いまくって」
「アリス…」
そうと言えばそうなんだけど、言葉にすると本当に聞こえが悪いな。私はちょっと困ってしまう。弁護したい気持ちはあるんだけど、字面は間違っていないのがまた…。
「何よ、あんただって引っかかってるんでしょうが。なーんかいっつもふたりイチャイチャしてるし。それとも付き合ってんの?」
「森住、日下と付き合ってんのか!バスケ部入れって言ってくれ!」
「引っかかってないし付き合ってもない!あの日下君が特定の相手作るわけがないでしょうが」
従兄弟コンビの畳み掛けるような攻撃につい声を荒げてしまった。厳密に言えば「引っかかってる」は事実だけど、認めるもんか。
「はーん。学校でもそんな感じなのかあいつは」
したり顔のアリス。
「流石に喰い散らかしてはいないよ」
「ある意味喰い散らかしてるんじゃないのか?あれは。常にゾロゾロと何か連れて歩いて」
なんだか万里の悪口大会になってしまいそうだ。私はため息をついた。
「…とにかくいらん誤解はしないで頂戴。私と日下君はなんでもありません。お互い学校に知れたらまずいことに関して協定結んでるだけだよ。アリスは?白百合のお嬢だってお店の人達に知れてもいいの?」
反撃するとアリスはぐっと顎を引いて黙った。
「嫌な子ぉ。わかってるくせに」
ぼやけぼやけ。
「ね。じゃあこの話はおしまい。花島田君は…明日もうちょっとゆっくり弁解させてもらっても?」
「よかろ」
なかなか紳士だ。よかった。
「アリス」「英達」ハモった。
「「これ以上余計なこと言わないでよ」」
完璧なユニゾンを作ってしまって、思わず笑い出した私達を、花島田君は少々げんなりした様子で見ていた。
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