アンドロギュノスの行進
その子の存在に気が付いたのは、演奏を始めてすぐだった。
ブルーの薄いスモッグに半ズボンからはみ出した膝小僧。黄色い通園かばん。全体に薄着で寒そうなのに、保護者らしき人物は見当たらない。私のボウイングを熱心に見つめる大きな瞳。
その日は最寄駅の側にある、寿々木楽器の支店でのデモ演奏だった。社長がエレキヴァイオリンを仕入れてきたというので、興味本位で触らせてもらっているうちに、「セッションしよう」という運びになった。よくあることだ。
店のエントランスの前にドラムとベースを出して、アンプに繋いで、ついでにエフェクターやループステーションなんかも繋いで、客引きのために流行りの曲を中心にして遊んだ。
辺りがすっかり暗くなり、街灯が点り始めた頃にセッションは終了。片付けをしている間も彼はずっとその場を離れなかった。駅前に通じる商店街。道をまっすぐ進めば駅ビルがあって、繁華街もすぐそこだ。明るい道ではあるが如何せん幼児がひとりで外をフラフラする時間ではない。そもそもこのスモッグと鞄は繁華街に近い保育所のものだ。保育園という場所は、保護者が迎えに行かない限り、園児を外に出したりはしないはず。少なくとも一度はお迎えに来た誰かと一緒だったはずなのだ。もしやこれは迷子なのでは?
私は楽器をケースに閉まってから店内に運び込むと、そっと彼に近寄った。目線を合わせるようにしゃがんでその顔を覗き込んだ。
「こんばんは」
子供は特段好きなわけでもない。兄弟も居ないし、親戚に幼い子供が居た経験もない。正直幼児との接し方の正解がわからない。しかし挨拶は人間関係の基礎だ。ひとまず通じるだろう。
彼は戸惑ったように瞳を揺らがせてから、ぺこりと頭を下げた。まだ体に対して大きな頭をこくりとからくり人形のように動かす仕草を、愛らしいと私は感じた。
「ひとりですか?お父さんかお母さんは?」
彼は少し考えてからふるふると頭を振った。居ないということか。いつから?最初から単独行動ということか?いやまさか。
「ええと、おうちはわかりますか?」
また彼は沈黙する。というか、まだ一言も発していないな。
「迷子かな?おうちの人を探しますか?」
首を振って、それからくしゃんとひとつくしゃみをした。半ズボンも大概寒そうだが、薄いスモックの下は長袖のTシャツ1枚のようだ。12月も近い。これでは寒かろう。私は彼にその場で待つように言ってから店内に戻った。バックヤードに置いてあった荷物から、マフラーを掴んでまた外へ走る。
果たして彼は私の言葉を守ってその場に立っていた。鼻の頭が寒さで赤くなっている。何だか急に不憫に感じてしまう。私はマフラーを広げて彼の肩を包んだ。
「寒いから、これを持って行って。道がわかるならおうちまで送る…」
「あっちゃ!」
唐突に彼は声をあげた。まるで明かりが灯るように表情が明るくなる。私の背後に視線を送っている。振り向くと、目の前に黒いジーンズの足があった。首を伸ばしてもまだ顔が見えないほどの長身だ。万里より大きいかも知れない。白いTシャツにライダース。金髪に近い髪は顎に届くくらいの長さ。くせ毛なのかパーマなのか判別のつかないヨレヨレとしたライン。サングラス。
「なに、こいつなんかした?」
「え、いや…」
怖い。ヤンキーだ。と反射的に思った。二十歳くらいに見えるが、父親だろうか?
「なんかメーワクかけた?金とか払えねぇけど」
面倒臭そうに気だるく喋る。何となくぞんざいな口ぶりにいささかムッとしてしまう。
「…別に何も。寒そうだったし迷子だと思ったので、マフラーを貸しただけです。お父さんですか?」
私は立ち上がってその顔を改めて見上げる。つい軽い戦闘モードになってしまう。正直怖いが負けたくない。ああ、この負けず嫌いを何とかしろと万里にも再三言われているというのに、私というやつは。
「親父?俺が?こいつの?」
まじか、と呟いて金髪は前髪をかきあげた。ため息混じりに「別に父親じゃねぇよ。つーかそんな老けて見えんのか俺」と諦めたように言う。ち、違ったのか。
それから長い身体を折って小さな彼に腕を伸ばすと、私が巻いたマフラーをぐるりと剥ぎ取った。そのまま私に押し付けるように突き返す。
「ガキは体温高けぇんだよ。いらねえ」
そのまま踵を返してさっさと歩き出す。小さな彼には目もくれない。そう言えば一度も声をかけていない。
何か言ってやろうと口を開きかけたけど、小さな彼がとっとこ金髪を追いかけて行ってしまったので、私の言葉は紡がれることなく白い息に変わる。
子供の足など全く考えない足取りでどんどん進んでいく金髪を、小さな彼は一生懸命追いかけて行く。
私は押し付けられたマフラーをだらりとぶら下げて、ただ、見送るだけになってしまったのだった。
ブルーの薄いスモッグに半ズボンからはみ出した膝小僧。黄色い通園かばん。全体に薄着で寒そうなのに、保護者らしき人物は見当たらない。私のボウイングを熱心に見つめる大きな瞳。
その日は最寄駅の側にある、寿々木楽器の支店でのデモ演奏だった。社長がエレキヴァイオリンを仕入れてきたというので、興味本位で触らせてもらっているうちに、「セッションしよう」という運びになった。よくあることだ。
店のエントランスの前にドラムとベースを出して、アンプに繋いで、ついでにエフェクターやループステーションなんかも繋いで、客引きのために流行りの曲を中心にして遊んだ。
辺りがすっかり暗くなり、街灯が点り始めた頃にセッションは終了。片付けをしている間も彼はずっとその場を離れなかった。駅前に通じる商店街。道をまっすぐ進めば駅ビルがあって、繁華街もすぐそこだ。明るい道ではあるが如何せん幼児がひとりで外をフラフラする時間ではない。そもそもこのスモッグと鞄は繁華街に近い保育所のものだ。保育園という場所は、保護者が迎えに行かない限り、園児を外に出したりはしないはず。少なくとも一度はお迎えに来た誰かと一緒だったはずなのだ。もしやこれは迷子なのでは?
私は楽器をケースに閉まってから店内に運び込むと、そっと彼に近寄った。目線を合わせるようにしゃがんでその顔を覗き込んだ。
「こんばんは」
子供は特段好きなわけでもない。兄弟も居ないし、親戚に幼い子供が居た経験もない。正直幼児との接し方の正解がわからない。しかし挨拶は人間関係の基礎だ。ひとまず通じるだろう。
彼は戸惑ったように瞳を揺らがせてから、ぺこりと頭を下げた。まだ体に対して大きな頭をこくりとからくり人形のように動かす仕草を、愛らしいと私は感じた。
「ひとりですか?お父さんかお母さんは?」
彼は少し考えてからふるふると頭を振った。居ないということか。いつから?最初から単独行動ということか?いやまさか。
「ええと、おうちはわかりますか?」
また彼は沈黙する。というか、まだ一言も発していないな。
「迷子かな?おうちの人を探しますか?」
首を振って、それからくしゃんとひとつくしゃみをした。半ズボンも大概寒そうだが、薄いスモックの下は長袖のTシャツ1枚のようだ。12月も近い。これでは寒かろう。私は彼にその場で待つように言ってから店内に戻った。バックヤードに置いてあった荷物から、マフラーを掴んでまた外へ走る。
果たして彼は私の言葉を守ってその場に立っていた。鼻の頭が寒さで赤くなっている。何だか急に不憫に感じてしまう。私はマフラーを広げて彼の肩を包んだ。
「寒いから、これを持って行って。道がわかるならおうちまで送る…」
「あっちゃ!」
唐突に彼は声をあげた。まるで明かりが灯るように表情が明るくなる。私の背後に視線を送っている。振り向くと、目の前に黒いジーンズの足があった。首を伸ばしてもまだ顔が見えないほどの長身だ。万里より大きいかも知れない。白いTシャツにライダース。金髪に近い髪は顎に届くくらいの長さ。くせ毛なのかパーマなのか判別のつかないヨレヨレとしたライン。サングラス。
「なに、こいつなんかした?」
「え、いや…」
怖い。ヤンキーだ。と反射的に思った。二十歳くらいに見えるが、父親だろうか?
「なんかメーワクかけた?金とか払えねぇけど」
面倒臭そうに気だるく喋る。何となくぞんざいな口ぶりにいささかムッとしてしまう。
「…別に何も。寒そうだったし迷子だと思ったので、マフラーを貸しただけです。お父さんですか?」
私は立ち上がってその顔を改めて見上げる。つい軽い戦闘モードになってしまう。正直怖いが負けたくない。ああ、この負けず嫌いを何とかしろと万里にも再三言われているというのに、私というやつは。
「親父?俺が?こいつの?」
まじか、と呟いて金髪は前髪をかきあげた。ため息混じりに「別に父親じゃねぇよ。つーかそんな老けて見えんのか俺」と諦めたように言う。ち、違ったのか。
それから長い身体を折って小さな彼に腕を伸ばすと、私が巻いたマフラーをぐるりと剥ぎ取った。そのまま私に押し付けるように突き返す。
「ガキは体温高けぇんだよ。いらねえ」
そのまま踵を返してさっさと歩き出す。小さな彼には目もくれない。そう言えば一度も声をかけていない。
何か言ってやろうと口を開きかけたけど、小さな彼がとっとこ金髪を追いかけて行ってしまったので、私の言葉は紡がれることなく白い息に変わる。
子供の足など全く考えない足取りでどんどん進んでいく金髪を、小さな彼は一生懸命追いかけて行く。
私は押し付けられたマフラーをだらりとぶら下げて、ただ、見送るだけになってしまったのだった。
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