泉の底に女神はいない

たまたま日直だった、たまたま佐野先生に会ってしまった、たまたま暇だった。
そういう偶然が重なって、昼休みの序盤に次の地理の授業のための準備を言いつけられてしまった。ツイてない。
白地図3本、地球儀、砂の入った瓶、それらを5限目開始までに教室へ運んでおくように、ということなんだけど、果たして独りで持てるんだろうか…。

のんびり外を眺めながら、教材室の鍵を右手の人差し指にぶら下げて歩く。大分気温も低くなってきて、本格的に秋だ。冬服が肌に馴染んできて、刻々と季節が移り変わっていくのを実感する。こうやってどんどん月日が過ぎて行ってしまって、きっとあっという間に卒業になってしまうんだろうな、なんて柄にもなくしんみりしてみたり。

不意に隣に並んだ影が、私の右手の鍵を取り上げた。私は立ち止まって、私より随分大きなその影を、確信を持って見上げる。
「地理?」
「…日下君」
万里は私から取り上げた鍵をひらひらと振って見せた。頷くと、手伝うよ、と言ってそのまま一緒に歩いてくれる。道道男女問わず声をかけられる。万里はそれらに、素っ気なくもなく、過剰でもない反応を満遍なく返しながら歩いた。本当にこいつはよくモテる。
万里の「満遍なく」にはいつも舌を巻いてしまう。私自身があまり愛想が良い方ではないので、尚更すごく特別な能力に思えてしまうんだ。こういう人が、よく私の隣にいてくれるものだな。

教材室に辿りつくと、万里はそのまま鍵を使って扉を開いた。中へ入って扉を閉めてしまうと、外の喧騒がふっと遠くなる。私は万里に頼まれた教材を伝えると、2人で捜索にあたった。
「これ、なんの砂?」
白地図の束の中から必要な物をピックアップしていると、砂の入った瓶を持ち上げた万里が訊いた。
「世界最大の砂漠、その名前を明記せよ」
私は振り向かずに問いを投げかけた。受験生としては基本中の基本の問題だ。私は目当ての白地図を探し当てて、棚の横に取り分けた。すると背後から伸びた腕に抱きすくめられる。
「サハラ砂漠」
万里は私の髪に鼻先を埋めてから、こめかみにキスした。
「こら」
抗議の声をあげたけど、大きな手のひらがそのまま私の顎を引き上げる。上から被せるように口付けられた。
身長差があるから、背伸びなしだと喉を思い切り伸ばして顔を真上に向ける格好になる。歯列を割って侵入してきた舌が口腔内を丁寧になぞった。息継ぎするように一度離れて、すぐにもう一度塞がれる。私の顎を引き上げたのと反対の手が、まるでためらいなくセーラー服の裾をめくる。下着の上からやわやわと胸を揉んで、万里は唇を私の首筋へとスライドさせた。
「だめ…」
んー、と気の無い返事をしながらそのまま首筋を唇でなぞる。ちろりと舌先で舐められて、背中がゾクゾクしてしまった。
「やめてってば…この間あんなにしたじゃない…」
「先週の話だろ?もうとっくにリセットされました」言いながら、胸から手を離さない。
「学校は本当にだめ。我慢して」
「ちょっとだけ♡」
未だ私の胸を揉みまくっている手を、渾身の力で剥がしにかかるもビクともしない。
「ちょっとって何?あんたに『ちょっと』があるの!?」
「んー、わかんない」
片方の手がスカートをめくるようにしながら太ももを撫で上げる。本気で蹴っ飛ばしてやろうと思った時、目の前の棚の奥でがしゃんと音がした。色素の薄い髪がちらりと覗く。誰かいるんだ。どきりと私の心臓が跳ねた。万里は私の身体を反転させて、スカートの裾を下ろすと、隠すように胸に抱き込んだ。
「…友ちゃーん…何してんのー?」
う、とかあ、とか男の子の声がして、またガタガタと物が落ちるような音がする。万里の腕が少し緩んだ隙に私は振り返って、声の主を確認した。棚の奥に尻餅をつくように座り込んでいる学ランが1人。茶色っぽい髪に、少し涙目。文化祭の時に体育館にいた彼だ。バスケ部の2年生。名前は確か…。
「友藤、大丈夫?」
尻餅をついたままの彼に、万里が若干心配そうに声をかけた。私の身体から手を離すと、友藤君を助け起こしに棚の向こう側に回る。彼の片腕を掴んで立たせようとすると、友藤くんは慌てて股間を片手で押さえるようにして、日下先輩ぃ、と情けない声をあげた。
「勘弁してください…童貞には厳しいです…」
万里が笑い声をあげるのと、私が両手で顔を覆うのは同時だった。


「お2人、付き合ってらしたんですね…」
なんとか落ち着いた友藤君と、散らかした教材を片付けて、私たちは膝を付き合わせて教材室の真ん中に車座になっている。昼休みの終了まではあと10分。誤魔化しようのない現場を見られてしまったので(それ自体が恥ずかしくて死んでしまいたいくらいなんだけど)、正直に話したのだった。
「そうなんだけど…諸事情あるので黙っといてくんない?友ちゃん」
そ、それはもうもちろん!と友藤君はガクガク頷く。バスケ部の後輩だということだから、まあ色々察してくれたんだろう。
「でも、美男美女でほんとお似合いです」
控えめに笑った。まだ恥ずかしさの抜けない私は、ちょっと小さくなってしまう。その肩を万里が抱き寄せた。
「だろー?可愛いだろ、うちの夜子は♡」
その身体を黙って押しのけると、見苦しくてごめんね、と友藤君に謝った。
「いえ、あの、森住先輩。文化祭の時はありがとうございました。ずっとお礼が言いたかったんですけど、話しかけるきっかけもなくて…」
「いいよそんなの、気にしないで。結果的にこっちはこっちで楽しく遊んじゃった感じだし…」
いえ!と友藤君は前のめりになって私に近づいた。
「ほんとに、すごいかっこよかったです!うちのクラスにも先輩に憧れてるやつ多くて…」
はい、友藤ちょっと近いよー、と万里が私の身体を引き寄せるようにして友藤君から引き離す。これは俺の!とそのまま抱きしめて舌を出した。調子に乗るんじゃない、と耳を引っ張ってやる。友藤君はその様子に可笑しそうに笑った。
「小此木の言う通りだ」
「蘭子ちゃん?」
「はい。俺の…か、彼女が小此木と仲良いんです。それでいつも森住先輩の話聞いてきて…『見た目と違って、クールでかっこいいんだ』って」
ぶは、と万里が噴き出した。その肩を軽く拳で叩いてやる。なんだか最近続けてそんなようなことを言われるな。見た目から連想されるイメージに取られるよりずっと嬉しいけど、なんとなくみんな表現がぞんざいだ。
万里が私の髪を指で梳く。その感触は気持ちよかったので、振り払わずにおいた。予鈴が鳴る。私たちは立ち上がって、それぞれ目的のものを抱えた。友藤君も次の授業の用意を先生に言いつけられてきたとのことで、倫理で使うという便覧を抱えていた。
「今度からは誰もいないの確認してからいちゃいちゃしないとね♡」
性懲りもないことを言う万里の左足を軽く蹴飛ばしてやる。
「俺、誰にも言いませんから。安心してください」
友藤君は笑った。良い子だなあ。
3人で、荷物を持って出てくれば誰も疑わないだろう。多少緩んだ気持ちで扉を開く。私はサハラ砂漠の砂が入った瓶を、万里が白地図と地球儀を持ってくれる。そのまま友藤君と別れて2人で教室を目指していると、途中で鋭い視線を後方から感じた。振り返らずに視線だけ動かして窓ガラスを確認する。ファンクラブの、飯田さんだ。万里は気づいているのかいないのか、のんびり世間話をしている。私も合わせて平静を保ちながら速度は変えずに歩いた。気にしなければいい。でもまあ、端的に言って不愉快だ。
イラつく気持ちを表に出さないようにして、そっとため息をつくと、森住さん、と万里が私を呼んだ。なに?と返事をして見上げる。
「好きだよ」
唐突に言われる。前を向いたまま、世間話の雰囲気のまま。うえ、と変な声が出た。万里は思わずといった調子で噴き出して、今度はこちらに顔を向けた。
「もう一回言う?」
「やめて。誰が聞いてるかわかんないんだから」
ふ、と笑って、また視線を前に戻す。きっと気が付いてるんだ。飯田さんにも、私の気持ちにも。こういうところ、敵わない。今すぐ抱きつきたい気持ちを抑えて、私も前を向く。
「…私も」
うん、と万里は返事をくれた。
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