温いグラスに冷たいお皿

4月、「持ってる」万里の強運は正真正銘の本物で、私と万里と天野君は同じクラスとなった。久々留や行子も一緒。女子らしく私たちはきゃいきゃいと手を取り合って喜んだ。
隣のC組には、花島田君とのの、それから四方田君。C組とD組は何かと合同が多い。ジャズ研のメンバーも上手い具合にまとまっていて、なんだか幸先が良い感じ。中学最後の1年間、楽しく過ごせそうで嬉しい、そう心から思った。
始業式後にうちに来た万里に「ね、言ったでしょ?」なんてドヤ顔をされたのがなんだかちょっと釈然としなかったけれど。

花島田君はやっぱり中学最後の年、というところで欲が出たようで、毎日のようにD組にやってきては万里をバスケ部に勧誘しつつ、天野君をからかっている。「もういっそ2人で入ってあげたら?」と提案したら、万里はすごく嫌そうな顔をした。
「いいんじゃないの?ストレス発散にもなりそうだし。うるさい先輩がいるわけじゃないんだし」
「うるさい花島田がいるじゃん」
「そりゃそうだけど…花島田君、最後に一勝したいんでしょ?」
「平の勉強が疎かになる。そうでなくてもあいつにエンジンかけるのが大変なのに…バスケなんかやったらのめりこんじゃって絶対勉強しないぜ? あいつ一度にふたつのことできないんだから」
受験生の行動じゃねーだろ、今更部活って…とぶつくさ言いながら、シャーペンをくるくると回す。
新学期が始まって1週間。受験をありありと意識している各教科担任陣は、しっかりと毎日宿題を出してくる。今、私たちは数学をやっつけているところ。万里はこの後うちで晩御飯を食べたら、家に帰って天野君の宿題も見てあげるっていうんだから、甲斐甲斐しいというかなんというか。

「なんかさぁ、夜子、花島田に甘くない?」
「そう?」
「そうだよ。そういえば前に2人でこそこそ密会してたよなー」
万里はいかにも不満そうに口を尖らせた。
「いつの話してんの」
「2年の時!」
「そんなことあったっけ?」
「あった!そのあと俺があからさまに妬いたからって、夜子からキスしてくれたじゃん。覚えてないの?」
思い出した。アリスの件だ。そう言えばアリスと花島田君の話、まだ万里にしてないな。
「あの時の夜子小悪魔っぽくて超色っぽくて押し倒さなかった自分に拍手したいくらいだったのにさぁぁ。覚えてないのかよー!」
テーブルに突っ伏してばたばたと暴れる。めんどくさいなこいつ。
「思い出しました。万里ってそんなことばっかり考えてるの?ほんと俗物ね…」
「うるさいなー!男としては平均的って言ったじゃん!みんなこんなもん!花島田だってこんなもんだよ!!」
「そうかなぁ。花島田君、ストイックじゃん。あんなに相模さん真っ直ぐに追いかけてて。どっかの誰かさんとは大違い」
つい、あの頃のことを思い出して嫌味が口をついて出てしまった。私の態度に、珍しく万里も少しヒートアップする。あ、やだな、これ。喧嘩になりそう。
「俺だって今は夜子一筋でしょー!それに花島田だって絶対!夜子にあんな可愛く迫られたらぐらつくね!相模がいるかいないかは関係ないね!」
「花島田君はそんなことしないもん。万里みたいにふらふら女の子と寝まくったりなんてぜーったいしない!」
ああ、やっちゃった。もーだめだ。こんなこと言いたいんじゃないのに。そう思っても、もう今更態度が変えられない。私はぎ、と万里の顔を睨みつけた。結局私はまだそこにこだわってるんだ。私から手を離そうとした万里を許せていない。
「…夜子だって人のこと言えないだろ?」
万里の声がいつもよりずっと低い。
「…何よ」
「ののとやりそうになったくせに」
まさかその話を持ち出されると思っていなくて、私は絶句してしまう。そう言えば初めて万里とした日、私の耳の後ろのキスマークを誰がつけたか、彼は知っていた。
「…ののが言ったの?」
「あいつはそんなこと言わねぇよ…あの時いたんだよ俺」
「………は?」
万里は少しだけ痛そうな顔をしてから、テーブルをどんと叩いた。
「だから!いたの!窓の外に!」
その言葉の意味を処理するのに少しのタイムラグが生じて、心臓がぎりりと軋むように痛んだ。
「じゃあ見てたの?ずっと?全部?」
私がののとキスして、押し倒されて、気持ちが揺れて応じてしまいそうになったあの一部始終を全部?
「ああそうだよ!見てた!見てました!夜子があいつにしがみついてキスしてるとこも!身体触られて、俺とする時みたいに喘いでたのもぜーんぶ見てたし聞いてた!」
「……さいってー……」
私は頭を抱えた。この『最低』には自分も入ってる。万里が好きなくせに、脈がなさそうだったから、ののに逃げようとした自分。万里も片手で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてから目を伏せる。苛立ったようにもう片方の指でテーブルの天板をカリカリと引っ掻いた。
「いや…いいんだ、元はと言えば俺が悪いんだし。あの時付き合ってなかったし。それどころか突き放したの俺だし。夜子が好きなくせに、怖くてわざと適当な女の子抱きまくってたのも事実だし…なんかちょっとごめん。だめだ俺…今日は帰るわ…」
そう言って、荷物をまとめると、振り返らずにリビングから出て行ってしまう。すぐに玄関の扉を開閉する音がして、万里の気配が完全に消え去ると、家の中の気温が1度低くなったような錯覚に陥った。シンと静まり返る。私は頭を抱えていた手ごと、テーブルにずるずると崩れ落ちる。
やっと両想いになれて、身体を重ねるようになってますます近づいた気になっていて、理解しあってるつもりになってた。一点の曇りもなく愛し合ってるつもりになっていた。
でもお互いにお互いの胸に残ったしこりに知らんぷりしてただけだったんだ。
「もーいや…」
涙が溢れた。好きなのに、うまくいかない。傷つけるようなことばかり言ってしまった。久しぶりにゆっくり一緒にいられるはずだったのに。楽しくおしゃべりして、一緒に食事を作って、あの温かい腕に優しく抱きしめられたかった。あの優しい唇でキスして欲しかった。それなのに。
自己嫌悪でおかしくなりそう。私はテーブルに伏したまま小一時間さめざめと泣いたのだった。
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