空の回転と足首の魔法
待ち合わせは中央北改札側のドトール前。
改札を抜けて歩いてすぐ、離れた場所からでも彼の姿は見て取れた。
人待ち風に壁にもたれて、気怠く腕を組んでいる。欲目を差し引いても見た目が良いので人目を惹く。
駆け寄ろうと足を早めた瞬間、女の子の2人組が彼の前に立ち止まって声をかけた。二言三言話して、万里がひらひらと愛想良く手を振ると、彼女達はささめきながら立ち去っていく。それを見送ってから私は深呼吸すると、改めてゆっくり歩き出す。
万里は私の姿を認めると、笑った。
「夜」
愛しげに呼ばれて、胸がぎゅっとなる。でも心とは裏腹に、眉間にしわを寄せて応じてしまうのだ。
「ナンパ?」
万里はキョトンとした顔で私を見つめた。
「さっきの?…ああ、そうかな。なんで?」
「なんでって…」
若干不機嫌な私なんて御構い無しに、万里はにこにこしながら私の姿を上から下までしげしげと眺めた。
「…何?なんか変?」
「…俺さぁ、ミニスカートが最強だとずっと思ってたんだけど、今日で考え変わったわ」
そう言って、私の太もものあたりを指で撫で上げた。
「こういうのもいいねぇ。夜子の脚が綺麗なのよくわかる。最高」
「こら、スケベ!」
パシリと手をひっぱたくと、なぜか嬉しそうに万里は笑った。
急にデートなんて言われて、最初は嬉しくて舞い上がったけど、何を着ればいいのかわからなくて困った。いかにも女の子な格好も気恥ずかしいし、普段通り過ぎるのもつまらない。そもそも普段からシンプルな服ばかり着ているから、デート仕様の服なんて持ってない。家族と食事する時やフォーマルな場に出る時(ほとんどないけど)着るワンピースやセットアップは気合が入り過ぎるし…と、ステレオタイプに死ぬほど悩んでしまった結果、ペンシルレッグのパンツに大きめのスプリングニットというセレクトになってしまった。せめて小物で可愛くしようとベレー帽に少しだけヒールのついたショートブーツ。チェーンのポシェットに、少しだけメイク。それからお母さんの形見の香水をハンカチに。これが私の精一杯だ。
「髪、自分で巻いたの?上手だね。グロスも可愛い。すんごい美味しそうなんだけど、これ、今キスしたらダメなやつ?」
髪を触られて、顔を覗き込まれる。頑張りどころをくまなく拾われて、逆にバツが悪いような気持ちになってしまう。
「ダメなやつ!もー万里って…」
「何?」
「~~~何でもない!褒めてくれてありがと!お洒落した甲斐がありました!」
やけになって言うと、万里は苦笑して私の右手を取った。指を絡めて握る。手を繋いで歩くこと自体は珍しくないのに、昼間にこんな堂々と歩くのは初めてだ。少しドキドキする。
「俺のためにお洒落してくれたの?嬉しいなぁぁ。もう今日の夜子ほんと可愛いよ。超可愛い。こんな可愛い子独り占めできるなんて幸せだなー俺!」
非の打ち所のないほどの笑顔で言われてしまうともう何も言えなくなってしまうのだ。もはや暴力的なほどの褒めだ。見えない尻尾を高速で振る万里に私はため息をついた。
万里はパーカーにジャケット、ジーンズにコンバース。お父さんのお下がりだと言う、彼お気に入りのシルバーとターコイズのペンダント。いつもと変わらないけど、こなれてて素敵。でも言うと調子に乗りそうだから言わない!
私は手を繋いだまま万里の左腕を抱きしめるようにぎゅっとしがみついた。
「で、どこ行くんだっけ。浜美?」
「うん、そう。付き合ってくれる?」
万里はそう言って、私の手を引いて歩き出した。
横浜美術館で、思い入れのある展覧会が開かれているという。七瀬も好きな、少し変わった写真家だ。モノクロームで削り出すような写真で、日本よりも海外で絶大な人気を誇る。少し寂しいような作風だけど、怖いように美しい。
「小さい頃にさ、家族3人で観に行ったんだ。その時は浜美じゃなかったんだけど、すごい強烈で良く覚えてる。その後父ちゃんがNY駐在になっちゃったから、家族でのんびり出かけた最後の思い出でもあるわけ」
あの写真に漂う寂しさと万里が抱える寂しさは共鳴しているのかもしれない。そう思うと切なくなった。
万里の両親は、彼のこの寂しさを知っているんだろうか。どうしてこの人の心にこんな穴を空けるんだろう。どうして寒い家にこの人を一人にしておいて平気なんだろう。万里の埋まらない寂しさを思うといつも、少し恨めしい気持ちになってしまう。万里の中にはいつも、両親に守ってもらえなかった幼い彼が棲んでいる。それが悲しくてたまらなくなる。
春休みとはいえ、会期の真ん中の平日午前。訪れている人間は少なく、展示会場に人はまばらだった。ゆっくり展示を観るにはちょうど良い。
会場はすっきりと色の少ないデザインで洗練されている。写真に合わせてガイドもすべてモノクロームで、余計なものが一切ない。七瀬お気に入りの、水平線を撮った作品群は、すべて同じ高さに並べて一つの大きな海のように展示されていて、壮観だった。後で図録をお土産に買おう。
私たちは思い思いに好きな作品を観て回った。興味のあるものを見つけるとすぐに周りが見えなくなるのが私の悪い癖なのだけれど、案の定会場に入るなりふらふらと興味を惹かれる作品に吸い寄せられてしまい、いつの間にか繋いでいた手を離してしまっていた。
途中で気づいて慌てて万里の姿を探すと、彼は彼で特に気にする風でもなく、作品を順繰りに眺めている。駆け寄ると、自由にしてていいから後で会おう、とまたリリースされてしまった。
開き直って自分のペースで鑑賞することにした。有機物を無機質に捉え、無機物を有機的に捉える。不思議な空間だ。ずっとここにたった一人でいたら、もしかしたら狂ってしまうかもしれない。でも魅力的で美しくてたまらない。美しさと怖さは似ている。これを音楽にしたらどんな感じかな。テルミンとか似合いそう。
そんなことを考えながらふわふわと歩いて、最後の部屋に入る。そこには大きな劇場の写真。おそらく外国の、クラシックなスタイルの劇場の、スクリーンの部分が発光するように白い。その真ん前にぽつんと万里が立っている。
私はそっとその側に歩み寄った。後方の隅に置かれたパイプ椅子に静かに腰掛けている学芸員を除けば、私たちの他には誰もいない。
万里の隣に立って、改めて写真を見上げる。映画一本分を露光したというそのスクリーンの白には、時間が凝縮されている。万里は、視線を写真に固定したまま、隣に立つ私の手をそっと握った。私も、応えるように握り返す。
「これが一番好きなんだ。映画を凝縮したら真っ白に光るって不思議だよね」
うん、と私も前も向いたまま頷く。
「この展示が終わったら巡回に出されて、日本に帰ってくるのは来年。常設じゃないから次はいつ観られるのかわからないね」
「…次も一緒に観ようよ。何年後でも」
私はそう言って、少し手を強く握った。次の瞬間鼻先に柔らかい髪の毛が触れて、かすめるように唇に舌が触れる。犬のキスだ。
「あれ、マンゴー味」
「フレーバー付きだから…って、おい!」
左足を蹴ってやるつもりが避けられてしまった。
「誰もいないって」
「後ろにいるでしょ!」
「…寝てるよ?」
振り向くと、見張っているはずの学芸員が船を漕いでいる。思わず二人で顔を見合わせて笑った。
「…夜子と一緒にこれを観たかったんだ。観られてよかった」
綺麗な笑顔。連れてきてくれてありがとう、と言うと、万里は周りを見回してからもう一度私に犬のキスをくれた。
改札を抜けて歩いてすぐ、離れた場所からでも彼の姿は見て取れた。
人待ち風に壁にもたれて、気怠く腕を組んでいる。欲目を差し引いても見た目が良いので人目を惹く。
駆け寄ろうと足を早めた瞬間、女の子の2人組が彼の前に立ち止まって声をかけた。二言三言話して、万里がひらひらと愛想良く手を振ると、彼女達はささめきながら立ち去っていく。それを見送ってから私は深呼吸すると、改めてゆっくり歩き出す。
万里は私の姿を認めると、笑った。
「夜」
愛しげに呼ばれて、胸がぎゅっとなる。でも心とは裏腹に、眉間にしわを寄せて応じてしまうのだ。
「ナンパ?」
万里はキョトンとした顔で私を見つめた。
「さっきの?…ああ、そうかな。なんで?」
「なんでって…」
若干不機嫌な私なんて御構い無しに、万里はにこにこしながら私の姿を上から下までしげしげと眺めた。
「…何?なんか変?」
「…俺さぁ、ミニスカートが最強だとずっと思ってたんだけど、今日で考え変わったわ」
そう言って、私の太もものあたりを指で撫で上げた。
「こういうのもいいねぇ。夜子の脚が綺麗なのよくわかる。最高」
「こら、スケベ!」
パシリと手をひっぱたくと、なぜか嬉しそうに万里は笑った。
急にデートなんて言われて、最初は嬉しくて舞い上がったけど、何を着ればいいのかわからなくて困った。いかにも女の子な格好も気恥ずかしいし、普段通り過ぎるのもつまらない。そもそも普段からシンプルな服ばかり着ているから、デート仕様の服なんて持ってない。家族と食事する時やフォーマルな場に出る時(ほとんどないけど)着るワンピースやセットアップは気合が入り過ぎるし…と、ステレオタイプに死ぬほど悩んでしまった結果、ペンシルレッグのパンツに大きめのスプリングニットというセレクトになってしまった。せめて小物で可愛くしようとベレー帽に少しだけヒールのついたショートブーツ。チェーンのポシェットに、少しだけメイク。それからお母さんの形見の香水をハンカチに。これが私の精一杯だ。
「髪、自分で巻いたの?上手だね。グロスも可愛い。すんごい美味しそうなんだけど、これ、今キスしたらダメなやつ?」
髪を触られて、顔を覗き込まれる。頑張りどころをくまなく拾われて、逆にバツが悪いような気持ちになってしまう。
「ダメなやつ!もー万里って…」
「何?」
「~~~何でもない!褒めてくれてありがと!お洒落した甲斐がありました!」
やけになって言うと、万里は苦笑して私の右手を取った。指を絡めて握る。手を繋いで歩くこと自体は珍しくないのに、昼間にこんな堂々と歩くのは初めてだ。少しドキドキする。
「俺のためにお洒落してくれたの?嬉しいなぁぁ。もう今日の夜子ほんと可愛いよ。超可愛い。こんな可愛い子独り占めできるなんて幸せだなー俺!」
非の打ち所のないほどの笑顔で言われてしまうともう何も言えなくなってしまうのだ。もはや暴力的なほどの褒めだ。見えない尻尾を高速で振る万里に私はため息をついた。
万里はパーカーにジャケット、ジーンズにコンバース。お父さんのお下がりだと言う、彼お気に入りのシルバーとターコイズのペンダント。いつもと変わらないけど、こなれてて素敵。でも言うと調子に乗りそうだから言わない!
私は手を繋いだまま万里の左腕を抱きしめるようにぎゅっとしがみついた。
「で、どこ行くんだっけ。浜美?」
「うん、そう。付き合ってくれる?」
万里はそう言って、私の手を引いて歩き出した。
横浜美術館で、思い入れのある展覧会が開かれているという。七瀬も好きな、少し変わった写真家だ。モノクロームで削り出すような写真で、日本よりも海外で絶大な人気を誇る。少し寂しいような作風だけど、怖いように美しい。
「小さい頃にさ、家族3人で観に行ったんだ。その時は浜美じゃなかったんだけど、すごい強烈で良く覚えてる。その後父ちゃんがNY駐在になっちゃったから、家族でのんびり出かけた最後の思い出でもあるわけ」
あの写真に漂う寂しさと万里が抱える寂しさは共鳴しているのかもしれない。そう思うと切なくなった。
万里の両親は、彼のこの寂しさを知っているんだろうか。どうしてこの人の心にこんな穴を空けるんだろう。どうして寒い家にこの人を一人にしておいて平気なんだろう。万里の埋まらない寂しさを思うといつも、少し恨めしい気持ちになってしまう。万里の中にはいつも、両親に守ってもらえなかった幼い彼が棲んでいる。それが悲しくてたまらなくなる。
春休みとはいえ、会期の真ん中の平日午前。訪れている人間は少なく、展示会場に人はまばらだった。ゆっくり展示を観るにはちょうど良い。
会場はすっきりと色の少ないデザインで洗練されている。写真に合わせてガイドもすべてモノクロームで、余計なものが一切ない。七瀬お気に入りの、水平線を撮った作品群は、すべて同じ高さに並べて一つの大きな海のように展示されていて、壮観だった。後で図録をお土産に買おう。
私たちは思い思いに好きな作品を観て回った。興味のあるものを見つけるとすぐに周りが見えなくなるのが私の悪い癖なのだけれど、案の定会場に入るなりふらふらと興味を惹かれる作品に吸い寄せられてしまい、いつの間にか繋いでいた手を離してしまっていた。
途中で気づいて慌てて万里の姿を探すと、彼は彼で特に気にする風でもなく、作品を順繰りに眺めている。駆け寄ると、自由にしてていいから後で会おう、とまたリリースされてしまった。
開き直って自分のペースで鑑賞することにした。有機物を無機質に捉え、無機物を有機的に捉える。不思議な空間だ。ずっとここにたった一人でいたら、もしかしたら狂ってしまうかもしれない。でも魅力的で美しくてたまらない。美しさと怖さは似ている。これを音楽にしたらどんな感じかな。テルミンとか似合いそう。
そんなことを考えながらふわふわと歩いて、最後の部屋に入る。そこには大きな劇場の写真。おそらく外国の、クラシックなスタイルの劇場の、スクリーンの部分が発光するように白い。その真ん前にぽつんと万里が立っている。
私はそっとその側に歩み寄った。後方の隅に置かれたパイプ椅子に静かに腰掛けている学芸員を除けば、私たちの他には誰もいない。
万里の隣に立って、改めて写真を見上げる。映画一本分を露光したというそのスクリーンの白には、時間が凝縮されている。万里は、視線を写真に固定したまま、隣に立つ私の手をそっと握った。私も、応えるように握り返す。
「これが一番好きなんだ。映画を凝縮したら真っ白に光るって不思議だよね」
うん、と私も前も向いたまま頷く。
「この展示が終わったら巡回に出されて、日本に帰ってくるのは来年。常設じゃないから次はいつ観られるのかわからないね」
「…次も一緒に観ようよ。何年後でも」
私はそう言って、少し手を強く握った。次の瞬間鼻先に柔らかい髪の毛が触れて、かすめるように唇に舌が触れる。犬のキスだ。
「あれ、マンゴー味」
「フレーバー付きだから…って、おい!」
左足を蹴ってやるつもりが避けられてしまった。
「誰もいないって」
「後ろにいるでしょ!」
「…寝てるよ?」
振り向くと、見張っているはずの学芸員が船を漕いでいる。思わず二人で顔を見合わせて笑った。
「…夜子と一緒にこれを観たかったんだ。観られてよかった」
綺麗な笑顔。連れてきてくれてありがとう、と言うと、万里は周りを見回してからもう一度私に犬のキスをくれた。
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