恋人たちのファンタジー、あるいはフィクションがもたらす効果について

遮光カーテンを閉め切った部屋は、昼間でも薄暗い。さっきまでぽつぽつ会話してたのに、だんだん返事が間遠くなって、ふと隣を見たら夜子はすうすうと寝息をたてていた。
顔にかかっている髪の毛を払ってやる。終わったら晩飯を作る前に一緒に宿題をやろうと言っていたんだけど、疲れてるようだから、このまま少し寝かせてやろう。今日はそんなに無理させたつもりはないんだけど、予餞会やら卒業ライブやらが続いて疲れが溜まってたんだと思う。そうでなくても最近夜子も少し慣れてきたようで、気持ちよさそうにしてくれるから、わんことしてはこれ幸いと張り切ってしまうのだ。うーん前言撤回、やっぱり少し無理させたのかも。
喉が渇いた。
夜子のこめかみにキスして、毛布で身体を包んでやると、ボクサーとジーンズだけ拾ってシャワーを浴びることにした。


ジーンズに上半身裸のまま、タオルで頭を拭きながら、リビングに通じる階段を降りる。そのままアイランドキッチンの向こう側にある冷蔵庫を目指した。夜子の家に通うようになってから、1年以上経つ。すっかり「勝手知ったる人の家」だ。
冷蔵庫の扉をばこりと開いて、ミネラルウォーターをペットボトルを探す。
500mlのペットボトルを上から2段目に発見して引き抜く。するとその向こう側にいかにも忘れ去られてる感じの白いプラスチックの容器が見えた。夜子が好きなヨーグルト。手にとって裏面を確認すると、賞味期限が1ヶ月前だ。この家でこんなことは珍しい。
どうしたもんかな、と思案したところで、背後からみし、と床板を踏む音がした。密やかな気配。なんだ、夜子もう起きたのか、と思って俺は振り向きながら話しかける。
「夜子ぉ、なんかヤバげなかんじのヨーグルト出て来たけど……げ」
そこに居たのは、サイズも質感もまるで違う人間。
危うくヨーグルトの容器を取り落としそうになったけど、間一髪その人物が受け止めてくれる。
「…っぶね、そんなびびんなよー」
にやにやと笑いながら容器を渡してくれる。
「………お疲れ様っス、ケンジさん」
びびるだろ、この状況。流石にどんな顔していいかわからない。俺は受け取った容器を取り敢えず冷蔵庫に戻す。扉をぴたりと閉じて、ケンジさんと相対した。
「えーーーーと、ですね…」
「いや、大丈夫。みんな身体の触り方とかでなんとなくわかってるから。でも、まぁ、俺でよかったねほんと。清瀬だったら地獄だったかも…」
「ですよね…」
ははははは、とお互いに乾いた笑いを漏らす。それから俺は深くため息をついてアイランドキッチンにもたれた。ケンジさんは地続きになってるダイニングに回って、椅子にかかっていたパーカーを投げてよこす。俺が今日着て来たやつだ。
「着とけ。風邪引くぞ」
受け止めて軽く頭を下げると、肩にかけていたタオルを外してパーカーに袖を通した。外は大分暖かくなってきた。俺はアイランドキッチンに置いたミネラルウォーターのペットボトルを掲げて「飲んでも?」と訊く。ケンジさんはどうぞ、と手のひらを上に向けた。蓋を外して煽る。内心かなり焦ったので喉がカラカラ。
ケンジさんは俺の隣に並ぶように、アイランドキッチンに尻をつけてもたれる。
「夜子は?」
「上で寝てます。なんか疲れてるみたいで…」
ふふーん、とケンジさんはチェシャ猫のように笑う。若いもんねぇ、なんてからかってくるからもうお手上げ。それからちょっとためらいがちに首を傾げた。
「そのー、一応保護者の端くれとして確認するんだけど、ちゃんとゴムつけてるよね?」
ケンジさんはこういうことほんとストレート。
「それはもう、絶対。俺、夜子大事なんで」
両手を胸の高さで広げる。うん、とケンジさんは笑顔を作った。
「お前のことは信用してるよ、みんな。でもなにしろ若いからね、盛り上がってうっかりナマで…ってこともあるかもしんないから、気をつけて。俺も覚えあるから人の事言えた義理じゃないんだけどね」
はい、と俺は頷いた。そのへんは祥子さんに厳しく躾けられましたので。
「しかしあの小さな夜子がねぇ。男とセックスする年になったか!」
はー、と感心したように溜息をつく。こーんなだったのにさぁ、と腹の辺りで手のひらを水平にする。
「いっつも白いクマのぬいぐるみ抱えてさ、『ケンちゃんギター弾いてよー』なんつって俺の後付いて回ってたのに」
やべ、なんか泣けてきた、と親指で目尻を拭う。この叔父達は本当に夜子を愛している。血なんか繋がっていなくても。
「そのうち、また夜子そっくりの小さな女の子がついて回ることになるかもよ」
俺は冗談めかして言う。本当は冗談なんかじゃないんだけど。
ケンジさんはちょっとびっくりしたように目を見開いて、気が早ぇよ、と苦笑いした。
冗談のまま一緒に笑おうとしたけど、なんとなくできなかった。この人達には、いつも本当に気持ちを言っておきたい。夜子の大事なこの叔父達には。
「…ガキの恋愛って、思ってる?」
だから代わりにケンジさんの目を真っ直ぐ見て言った。きっとこの人はわかってくれるはずだから。
「俺、一生ものの恋愛してるつもり。夜子と」
そうだ、俺にはもうこの次は要らない。俺をあんな風に守ってくれる女の子に、この先出会えるとは到底思えない。
ケンジさんはじっと俺の目を見つめて、うん、と言った。
「思ってるよ、ガキの恋愛だって。まだ14だろ?この先何人の人間に出逢うと思ってんの?お前は早くから遊び倒しててもう枯れた気持ちかもしんないけど、夜子にとってはそれこそ初恋みたいなもんだ。お前しか男を知らないで生きてく可能性のが低いね。
大体中坊の頃の相手と10年20年続けて結婚するなんてファンタジーだよ。少女漫画だよ。ほぼあり得ない。それ自体が奇跡」
予想に反してこてんぱんに言われてしまった。そしてその言葉は予想以上にショックなもので、ボディブローを喰らったような気持ちになった。わかってくれるとは思ってなかったけど、少しは肯定してくれるかな、なんて淡い期待を抱いていたのに。
あからさまに凹んだ俺に、ケンジさんは同情とも慰めともつかないような笑顔を向けた。
「でもな」言って、俺の肩にそっと手を乗せる。硬い指と手のひら。アーティストの手だ。
「そういうファンタジーなカップルを、俺は1組だけ知ってるよ」
「…いるの?」
「うん、俺と清瀬」
えっ、そうなの!?と思わず大きな声が出てしまった。
ケンジさんは俺の反応に、期待通りとばかりに嬉しそうに笑う。
「中1の終わりぐらいかな、付き合いだしたのは。それからずっと、途中でくっついたり離れたりは何度かあったけど、基本的には今日まで25年間ずーっと一緒よ。ま、俺らは結婚は出来ないけどね」
「…そうなんだ…」
俺は嘆息した。
「だから瀬名はガキの頃から知ってるし、夜子なんか生まれた時から。オムツも替えました、何度もね。それに清瀬はさ、俺のせいで親に勘当されちゃったから、責任とらないと」
結構切実な関係なのよ、とケンジさんは軽く言う。
「あいつらの親も可哀想っちゃ可哀想だね。次男はゲイで勘当、期待の末っ子は17でガキこさえて勘当の上事故死。才能溢れる孫を本当は確保したかったけど、頼りだったはずの長男に持って行かれて会わせてもらえず」
「夜子のお祖父さんお祖母さんって今どうしてるの?」
そうだ、ずっと疑問に思ってた。両親が亡くなったら、独身の叔父よりまず祖父母が引き取りそうなもんだ。
「健在よ?でも夜子は多分一度もあったことないと思う。少なくとも俺の知る限りはね」
「…そういうもん?」
いくら子供を勘当したからと言って、孫まで憎いものだろうか。現にさっきケンジさんは『才能ある孫を確保したかった』と言った。
「七瀬がね、絶対に会わせたがらないんだよ。夜子って砂胡さんそっくりじゃん。じじばばは『心弱い瀬名をそそのかした』砂胡さんを毛虫のように嫌ってたからさ。夜子の顔見たらひどいこと言うんじゃないかって、思ってる」
これ以上そういう目に合わなくていいだろ、夜子は。そうケンジさんはつぶやいた。そうなら俺にも異論はない。血が繋がっていようがなんだろうが、人間は相性だ。わざわざひどい扱いを受けるくらいなら、会わない方が良い。夜子が傷つけられるのは、俺だって我慢ならない。
「森住の家は割りかし良いお家なのよ。一応『継ぐ』って概念がある程度にはね。そもそもは官僚の家系みたい。それがさあ」
俺たちは顔を見合わせて思わず笑った。
「コピーライターに、バーの親父に、ミュージシャン。官僚が聞いて呆れるよな!」
ある意味絶えてんだよあの家は!とケンジさんはゲラゲラ笑った。
「ハタチになった時にさ、よせばいいのに清瀬のやつ、両親にカミングアウトしたんだよ。俺を紹介するって言って。馬鹿だよね。わかってもらえるわけないのに。それでもう両親共大激怒でさあ、俺なんかもう塩撒かれるどころか、岩塩ぶつけられたもんね。なんかあの、魔除けみたいなんで玄関に飾るような塊のやつ」
おかしそうに笑う。ケンジさんは強い人だ。双子が割とナーバスだから(正反対のようでそういうところはそっくりの双子だ)それに対するケンジさんの明るさと強さが、この家をバランス良く保っていると思う。そして1滴も血が繋がっていないはずの夜子は、一見大人しいけど、実はケンジさんに1番メンタリティが近い。
この家はそういう夜子を中心に回ってる。俺ももちろん、その衛星のひとつを担っていると自負している。
「投げつけられた岩塩で俺、おでこんとこ切ってさ。もう血がダラダラ出ちゃって。2針縫っただけなんだけど、清瀬が泣くんだよ。あいつ実はすぐ泣くの。泣きながら何度も何度も謝って、その時『こいつを一生守ってやんなきゃ』って思ったな…」

遠くを見るような表情。ケンジさんと清瀬さんにそんなドラマがあるなんて知らなかった。でもよく考えれば当たり前だ。性的マイノリティが認知されだしたのなんて、本当に最近。それを25年前からなんて、きっとずっと厳しい時代をくぐりぬけてきたはずだ。
ふたりはいつも自然に家族で、一緒にいると安心する。そういうものを築き上げるのも、容易ではなかっただろう。ここ1年くらいの付き合いだけど、俺はふたりも、ふたりの関係も、とても好きだ。
「つって、その1週間後に別れたけどね」
ケンジさんはちらりと舌を出した。
「まじかよ…感動したのに…」
ひひひ、と彼は笑う。
「その1年後になんか再会してまたヨリが戻って、次に別れたのは30目前の頃だったな。原因は些細なことで、もう忘れたな…。夜子が泣いてさぁ。『絶対やだ!ケンちゃんいなくなんないでー!』とか言って。なんとか宥めて、清瀬と暮らしてた家片付けて、引っ越し先探して…なんて時にあの事故。
引っ越しどころじゃなくなって、葬式までバタバタして、夜子どうする、マスコミどうする、なんてやってた時に疲れてうっかりセックスしちゃって、なんとなく戻っちゃった。
それからはもう夜子育てるために4人で本格的に家族になっちゃったから、必死で生活して、別れるなんて考える余裕もねーな、今…」
「別れる要素なんかあるの?」
「んー…、ない。ないな、そういえば」
「じゃあいいじゃん。もうずっといてよ、一緒に。俺だって今ふたりが『別れる』なんて言ったら泣いて引き止めるよ」
やめろよ気色悪い、とケンジさんは照れたように笑った。
「その前に七瀬の結婚騒動なんかもあってさ…聞いたことある?」
俺は頷いた。以前に夜子に聞かされた。この家の由来だ。
「あの年は本当に色々あったな。それでバラバラになりそうだった俺たちを繋ぎとめたのが夜子だったんだよ。夜子にとっては辛い経験だったと思うけど、俺たちは瀬名と砂胡さんの代わりに今の家族を手に入れたんだな、皮肉なもんだ」
万里と夜子が出会ったのも、とケンジさんは呟いた。
「いつも思うんだ。何かどうしようもないものに動かされてる、決められてると思う時が。こんなことは本当は思いたくないけど、逆らえない何かによって、人間は『決められてる』時があるんじゃないか?良くも悪くもだ。俺と清瀬はどうしても離れられないだとか、瀬名と砂胡さんはいなくなってしまうんだとか、だから夜子とお前は出逢うべきだったのかも、しれないね」
ケンジさんは俺を見た。不思議な眼の色だった。
そんなことはない。決められてるなんて、そんな。それではあまりにも悲しいじゃないか。
「だからさ、『良くも悪くも』だよ」
まるで思考を読まれているようだった。こういうところも、夜子に似てる。
「お前と夜子はずっと一緒に居られるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。一緒に居られる奴らはさ、何度離れてもなんかまた会っちゃうんだよ。どうしても戻ってきちゃうんだ。そういうものがあるかもしれないねって話よ。
せいぜい仲良くして、ファンタジー目指してくださいな。個人的な意見を言えば、俺はお前が好きだよ。だから、出来ればずっと夜子と一緒にいてやって欲しい。あの子は強い子だけど、傷があるからさ」
うん、と俺は頷いた。
「ずっと大事にする。約束するよ」
ケンジさんは俺の頭をかき混ぜて(また犬扱いだ)、アイランドキッチンから尻を離した。
「そろそろ行くわ。忘れもん取りに来たのよ、俺。これからレコーディングぅ」
じゃーなー、と手を振って、リビングを出て行く。俺はもう一度、すっかりぬるくなったミネラルウォーターに口を付けた。
少しだけ、甘いような気がした。


とんとん、と軽い足音がして、階段から夜子が降りてくる。シャワーを浴びて来たようで、髪が濡れてる。ノースリーブのワンピースに羽織ったパーカーの肩がずり落ちていて、夏の子供みたい。
とことことアイランドキッチンにもたれたままの俺のところまで歩いて来て、脇に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを取った。ごくごくと飲み干す。
「…私どれくらい寝てた?」
「30分くらいかな。宿題やる?」
うん、と夜子は頷いて、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。そのままリビングの方へ歩いていこうとする腕を捉える。ぐ、と後ろに引っ張られる形になって、夜子は振り向いた。
「どうしたの?」
小さな手。俺はうん、と曖昧な返事をして夜子の顔を見つめた。小さな赤い唇。黒目がちな瞳。
「万里?」
黙ったままの俺に夜子は訝しげにする。ひたひたと裸足の足を動かして、俺に身体を近づける。細い指を伸ばして頬に触れてくる。その手を取って、指先に口付けた。
「愛してるよ、夜子」
えっ、と言ったまま夜子は固まってしまう。みるみる顔が真っ赤になっていく。あれ、意外な反応。
「…なんで今更照れるの」
夜子は顔をぱたぱたと手で扇ぎながら、俺の肩に額を付けて抱きついて来た。
「今までそんな言い方したことなかったから、動揺した…」
「そうだっけ?」
「そうだよ、もう…そういうの、殺し文句って言うんだよ。ほんと、天然タラシなんだから万里は」
「夜子以外にこんなこと言わないよ」
「当たり前でしょ!」
馬鹿!と言って、夜子は俺の胸をぽかりと叩いた。その身体をぎゅっと抱きしめて、髪に顔を埋めた。
神様、誓います。病める時も、健やかなる時も、俺は決してこの子を離しません。だからどうか、俺たちにもファンタジーを。奇跡を。
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