目覚めよ、と呼ぶ声あり

「ねえ、ちょっとあんたたちどうなってんの?」
どストレートな質問をしてくれたのはもちろんアリス。
楽屋にあった差し入れのお菓子をつまんでいた私は、ぱらぱらと散るクズに奮闘していた。齧る度に崩れるパイ生地を口に押し込んで、スカートをぱたぱたと振る。むせそうになるのを珈琲を飲んで堪えた。
「え?何?」
お陰でアリスの声が聞こえていなかった。聞き返すとアリスは鬼の形相。
「だから!万里!ぜんっぜんこないじゃん最近!」
なんだよその話か。私は若干うんざりした気持ちで気の無い返事をする。それがまたアリスの神経を逆なでした、らしい。
「別れたの?」
「そもそも付き合ってません」
「またそれかよ。口約束の問題じゃなくて関係性の問題でしょうが」
鋭いことを言う。私はアリスをジロリと睨んでからため息をついた。降参。
「…その理屈で言うなら、別れました。だからもうこの話はおしまい」
そう言って私は席を立った。そろそろ帰る時間。
ちょっと待った、とアリスに袖を掴まれる。
「もー何!?」
「納得いかない」
「そんなこと言ったって…」
「別れる理由なんかないじゃない。あいつあんなにあんたに夢中だったのに」
側から見るとそんなだったのか。てっきり私ばっかりが好きなんだと思ってた。
「知らないよそんなの。アリスの見てる私達なんて週にほんの数時間じゃない。それ以外の部分の方が多いの!大体あの人女の子全般に対してあんなかんじだったでしょ」
「違う!他の女とあんたはぜんっぜん次元が違ったもん。大事でしょうがないって顔して…それが一体何があったら別れることになんの」
「そんなの…」
その時楽屋のドアが開いて、清瀬が顔を出した。私とアリスを見比べて、訝しげな顔をする。
「何やってんだ、夜子。帰るよ」
うん、と頷いて私はソファの上のポシェットを取る。肩から下げると、アリスにその話はまた今度、と言おうとした。
「清瀬、今日はこの子うちに泊めるから」
「は?」
「だから!今日私と夜子はお泊まり会!ガールズトーク!明日休みだし!オッケー!?」
清瀬は完全にアリスに気圧されて、お、おう、なんて返事をしてしまう。
「ちょっとアリス…」
「決・定」
ガッチリと私の腕を掴んで、アリスは自分の携帯を取り出した。ワンタップでコールする。
「庭野?今すぐ車回して。友達を1人連れて帰るから…女子よ、安心なさい。じゃあね」
お嬢様は運転手とここに来てるのか。清瀬は不安げに私とアリスを交互に見る。
「夜子がいいならいいけど…保護者としては素性のわからん人間の家にムスメは行かせられないよ?」
アリスは手近にあった誰かのライブのフライヤーを乱暴に取って、走り書きをした。
「これが私の電話番号とLINEのID、これが家電、これが秘書兼運転手兼お目付役の電話番号!私は『小早川』よ。小早川有朱。父は現職の厚生労働相・小早川康二。あとはググれ。住所も必要?」
押し付けられた紙を清瀬はしげしげと眺めた。紙とアリスを見比べて、わかった、とため息をつく。
「…きいちゃん、アリスの言ってることは本当だよ」
「別に疑っちゃいないさ。夜中に友達連れて帰って大丈夫なのかよ、ご令嬢」
「平気よ。裏から入るし、お父様とは滅多に会わない。お父様以外の人間は私に甘いの、うちは」
「…車が来てるんだよな?」
「そーよ」
「許可しましょう。夜子、明日の夕方には帰ってこいよ」
肝心の私が合意してないんだけど。アリスの顔を見ると、またがっちりと腕を掴んで来た。逃さぬ、という気迫。こわ。
「…はぁい」
観念した。

大方の予想通り、アリスの家は豪邸だった。豪邸と呼ぶのが正解か、邸宅と呼ぶのが正解か、わからないけど。
『ニヴルヘイム』からは車で15分ほど。市内でも高級住宅街で知られる閑静な地域に建つそこに、黒塗りのベンツは静かに横付けされた。
慣れた仕草でアリスは車を降りると、私が車を降りるのも確認せずに、さっさと裏木戸を開けた。
シートベルトを外すのにもたついていると、運転席から秘書(兼運転手兼お目付役)さんが降りてきて、外してくれた。
ありがとうございます、と会釈をすると、無表情に少しだけ頭を下げる。
「遅い、何してんの」
慌てて追いかける私をアリスはぴしゃりと一喝する。
「ごめんって…もー、無理矢理連れてきてその仕打ち?」
ち、とアリスは舌打ちをする。ほんと、その仕打ち?
裏木戸から裏口をそっと通ると、家政婦さんと思しき若い女性が出迎えてくれた。25、6か。長い黒髪を清楚にまとめている。黒いワンピースに庶民的なエプロン。
「お帰りなさい、有朱さん。先生は今夜は宿舎にお泊まりでいらっしゃいませんから、大丈夫ですよ」
にっこりと笑う。アリスも解けたように笑った。
「香絵さん、起きててくれたの?ありがとう。ごめんね、遅くなって」
まるで姉に甘えるように笑顔を見せる。こんなかわいい笑い方するの、初めて見た。
「庭野さんも、お疲れ様でした。どうぞお休みください」
香絵さんは、私たちの後ろに控えていた秘書さんにも声をかけた。
彼は会釈をひとつして、ではごゆっくり、と言い残してその場を離れた。足音のしない人だ。しなやかな豹みたいに廊下を歩いていく。
「こちら、森住夜子さん。友達。今夜は私の部屋に泊めます。お風呂もらってもいいかな?」
「ええ、もちろん。お部屋にお布団も準備しています。お茶をお持ちしますか?」
「いいの、自分でやります。香絵さんももう寝て?」
香絵さんははにかむように笑って、私に深々と頭を下げた。
「岡野香絵と申します。有朱さんの身の回りのお世話をさせていただいております。どうぞ『香絵』とお呼びくださいね。有朱さんがお友達を連れていらっしゃるなんて初めて。お目にかかれて光栄です、森住さん。なにかありましたら何でもおっしゃってくださいな」
柔和な笑顔。私は戸惑いながらぎこちなく挨拶した。家政婦さんも秘書さんも、本物は初めて見た。こういう世界が本当にあるのか。
これが「お嬢様」かぁ、と有朱の顔を見ると、ほっぺたを引っ張られた。
理不尽だ。
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