夜明け前のこと

彼が現れたのは夏の終わりだった。そこに集まる誰もがそうであったように、誰かの友達の友達、のような体でふらりと訪れて、そのまま常連となったのだった。

まだ成長途中の華奢な体型で、背はこれから伸びます、というくらい。異様にこなれた雰囲気と、冗談みたいに綺麗な顔で、あっという間に人気者になった。

私はと言えば、叔父との「フロアには降りない」という約束を律儀に守っていたお陰で、彼が現れてから約3ヶ月遅れてその存在を認識するに至った。
フロアには降りない私がなぜ彼と出会ったのか?
正解は、彼の方がバックステージに侵入したからだ。侵入、と言う言い方はいささか乱暴かもしれない。彼はれっきとした「招待」を受けてバックステージに入ってきたのだから。
気まぐれに現れるヴォーカルのアリスが、彼を気に入って引っ張り込んだというのが成り行き。初対面で彼は私の腕をやんわり、だが有無を言わさずといった風情で掴み、誰もが見惚れるような笑顔でこう言った。

「美少女発見。ちょっと2人でお話ししませんか?」

えーちょっと万里ぃ、と異議を唱えるアリスにごめんね後でねまたねと手を振って、彼、日下万里は私を実にスマートに引きずって楽屋に駆け込んだのだった。

楽屋のドアを後ろ手に閉めて、日下万里は私の顔をひたと見つめた。
「…何やってんの森住さん。こんなとこ出入りするタイプに見えないんだけど?」
スマートスタイリッシュが売りのモテ男の割に、随分ぞんざいな物言いだ。いささかムッとした私は、そっと手首を返して彼の手を解いた。
「あなたにとって私がどんな印象であろうと構わないけど、それを私本人に強いるのは失礼じゃないかな。今の発言は不愉快です、日下万里君」
彼は1度ゆっくりと瞬きした。そして、そうか、と零した。
「確かに。ごめん、無礼だった。結構動揺してたんだ。まさかこんなところでクラスメイトに会うとは思わなかったもんだから…失言でした、申し訳ない」
あまりにあっさりと頭を下げられて、私も少しだけ動揺しそうになってしまった。思ったよりずっと、育ちの良い人だ。
「いいえ、私もかみついてごめんなさい。さっきの自分の演奏に納得がいかなくて八つ当たりした…少しだけ」そうだ、あれのせいだ。不愉快の根源は自分。しょんぼり。
日下万里は困ったように眉を下げて笑い、そんなに悪いとは思わなかったけど、とフォローめいたことを言ってくれる。

ミスタッチもそうだが、アドリブのキレもなかったし、なにより全然グルーヴしてなかった。せっかく久し振りにアリスの歌があったのに。悔しい。こんなんじゃだめだ。全然だめだ。

「森住さん」声と共に額に長い指が触れた。ぎゅ、と人差し指と親指でスワイプするように皮膚を伸ばしにかかる。
「美人が台無し」
美人に言われてもなぁ。私はかろうじて唇の端を持ち上げて、ありがと、言った。
「取り敢えず、お互いこのことは他言無用ってことでOK?」
私はこくりと頷いた。あとさ、と彼は続ける。
「ここでは『日下君』はやめて『万里』で頼みます。あんましフルネーム晒したくないというか、まぁ、調子が狂うので」
「わかりました。私も『夜』か『夜子』でいいよ。みんなそう呼ぶ」
「オーライ。じゃ秘密は守られる、ということで」
差し出された拳に拳を軽くぶつけてから、私はもうひとつ、と付け足した。
「こんなところ、はやめてあげて。あのオーナー、私の叔父なの」
万里はきょとんとした顔をして、それから弾けるように笑い出した。

これが、私たちの関係の始まり。
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