このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

星空と屋上

 「ねえ太刀川さん。ちょっと散歩でもしない?」
 
 時刻は午前二時を回った頃だった。寒さが一層頭角を現わしてくる時間帯になって、迅が窓から外を眺めながら言う。
 
 「……おまえ、変態か?外なんか、今とんでもなく寒いぞ」
 「いいからいいから」
 
 浮ついたような、なぜか機嫌のいい声で、迅はさっさと身支度を始める。それにもう何を言っても無駄だと悟った太刀川も、諦めて迅に従った。靴を履いて玄関を出ると、体がひとまわり縮んでしまいそうなくらい冷たい空気が全身を包む。それに怯むことなく、しんと澄んで静まり返った深夜の空気の中、迅は迷わず警戒区域のほうへと進んで行った。やがて小さな空き地へと入ると、その中央で空を見上げる。
 
 「今日ってなんか見える日だっけ?」
 
 後ろから太刀川に声を掛けられても、上着のポケットに手を突っ込んだまま、迅は微動だにせず一点を見つめていた。空が地平線の先に沈む端は、黒が薄く滲んでいる。空気が澄んでいるせいか、その境界がはっきりと見えていても一生辿り着くことはできないような、絶望さえ感じる距離を突きつけられる景色だった。
 
 「なんか、こうしてると三門じゃないみたい。オーロラなんかも見えちゃったりして」
 「ああ……黒いやつなら、ワンチャン見えるかもな」
 「ここでそんなこと言うと冗談じゃなくなるから……」
 
 ろくでもないことを言い出す太刀川を諫めながら、迅はもう満足したとでもいうように帰ろっか、と呟きながら振り返ろうとした。しかし、すぐ後ろまで来ていた太刀川の腕に包まれ、完全にそちらを向くことは叶わなかった。ポケットに入れていた手が太刀川の冷えた手に握られ、肩に埋もれた頭の、一本一本に渡って氷細工のように冷え切った髪が頬に触れるくすぐったい感触に、迅はようやくその寒さを実感する。
 
 「どうしたの、くっついて」
 「ん、理由がなきゃだめか?」
 
 話しながら迅のほうを見ようとする太刀川により、お互いの頬と頬までもが触れ合う。外気に晒されて、もはや感覚も乏しくなっていた肌がそこでようやく解けてゆく。そのままそこから溶けて混ざり合って、どっちがどっちかわからなくなってしまいそうだ。そんなことを考えながら迅は再び空へと視線を戻した。きっとこの人も今同じものが見えていると、何となくだが確信した。ふたり握った手はそのままに、しばらく時間を忘れて闇の滲んだ天に浮かぶ光を眺めていたのだった。





 あのときは、表情に出さないようにしていたつもりだったんだけどなあ。
 
 玉狛支部の屋上、迅はひとり空を見上げて、少し前の冬の夜の出来事を思い出していた。もう三月も半ばを過ぎると、だいぶ日が昇るのも早くなっているのだと思い知らされる。深夜と早朝の間、これから夜が明けようとしている空の色は、川の向こうの水平線間際からまるで闇を忘れてしまったかのような透き通ったエメラルドに染まってきていた。
 ああ、まるで。
 そう思っていたところへ、こんな時間に屋上の「外」からやってくるという、奇想天外な登場をこなす人物の姿が目の前に現れた。それでもそんなことをするのはおそらくこの人しかいないだろうから、いつかやるだろうと思っていた想像が現実になっただけで、不思議と驚きはしなかった。黒のロングコートを風にたなびかせながら屋上の外壁の上に降り立った太刀川はその上に座り込むと、よう、とまるで防衛任務中とは思えない気の抜けた挨拶を寄越してきた。
 
 「こんなところで隊長が油売ってて大丈夫なの?」
 「今日は暇でな、まだ一回もこいつを抜いてないんだぜ。ハズレだな」
 
 弧月の柄に手を掛けつまらなそうな顔をするその人に、おそらく世間的にはそれは当たりなんだろうけど、ということは言わないでおいた。三月とはいえまだ少し肌寒い明け方で、手に持っていたカップの中身はすっかり冷えてしまっていたし、一言言葉を交わすたびに口から白い息が空に浮かんでいった。それが空へと透けて昇ってゆく様子を見ていると、またしてもあのときのことが思い出される。
 
 「ねえ、見てよあっちの空」
 「何だ、門か?」
 
 完全に防衛任務中の脳になってしまっている、獲物を欲したその狂犬は、期待を隠しきれずに指差されたほうの空を見上げた。迅は違うよ、と苦笑して太刀川と同じように外壁の上へと上がると、そこに腰を下ろして地平線の辺りを指でなぞる。
 
 「オーロラみたいじゃない?」
 
 その言葉と景色で思い出したのか、ああ、と太刀川も口を開けたままその空のグラデーションを眺めた。最初に見ていたときよりもだいぶ夜空の面積は減ってきていて、見えていた星達も大部分が帰り支度を始めていた。もうすぐ夜明けだ。これから太陽が出てくるのを前に、太刀川は小さく身震いをする。
 
 「なんか、思い出すと寒くなってくんな」
 「太刀川さんは今寒くなりようがないでしょ」
 「まあそれを言うならおまえもだけどな」
 
 トリオン体でいるのを見抜かれた迅が、あのときはちゃんと生身だったよ、と弁明する。寒さを感じないこの体に慣れてしまうと、ふいにそこから解放されたときの自分自身の重さにすら戸惑ってしまうことがある。持っている陶器のマグカップがいまだちゃんと手中に収まっているかを確かめるように、すり、と指を這わせる。そんな様子を上から覗き込みながら、太刀川が白く浮かぶ息をかきわけるように、それでもあくまで自然に口を開いた。

 「おまえ、また何か見たのか」
 
 まさか、それを言いにわざわざこんなところまでやってきたというわけではないだろう。それでもこの間のこともあり、この人の前で隠し事をするというのもなかなか骨が折れるなあ、と迅は短くひとつ息を吐く。
 
 「ううん。今日の夕飯何にしようかなって、考えてただけだよ。本当に」
 
 嘘ではない。けれどもじっとその瞳に見つめられて、何かをぽろっと溢してしまいそうな気分になる。やましいことは何もないはずなのに、ふと目線を外してしまう。外壁の外へと垂れ下がった隊服の裾が、柔らかい風に吹かれてひらりと揺らめく。もう春になるのだな、と思うと嬉しさもありつつ、あの頬を刺すような冷たく澄んだ空気とその向こうに広がる星空を、どうしても心惜しく思ってしまう。
 
 「ならいいけど。そんじゃ、夕飯めちゃくちゃ楽しみにしてるからな」
 
 そう言うと、そろそろ行くわ、と立ち上がり、別れの挨拶の代わりに迅の頭を一撫でしてそこから下へ飛び降りてゆく。隊服が風を集めてふわりと広がり、そのまま空も飛べてしまえそうな身のこなしだった。

 「あ、太刀川さん」
 「え、なに?」
 
 地面に降り立ち、小さくなったその姿がいなくなってしまう前に、迅は声を張り上げて呼び止めた。振り返ったその表情さえ見えなかったが、代わりに見えたことをそのまま伝えた。
 
 「今日は、素敵な一日になるよ」
 
 しばらくその言葉の意味を噛み砕きながらこちらを見上げていたその顔に、ふ、と笑みが咲いたように見えた。
 
 「星占いかよ」
 
 そして身を返し、そのまま建物と建物の間へと消えていく。もう今日は近界民も出ない、というのは言わないでおいたので、まだ彼の心はそれを求めて湧きたっているのだろう。それを想像したら、迅は思わずひとりで笑ってしまった。だってその姿は、腰にあんな物さえ差していなければ、まるで早朝から昆虫採集に出掛ける少年のようだったから。

 東の空から光が差す。オレンジ色が加わった空の向こうから、朝を知らせる太陽が顔を出す。空にはもう目に見える星はひとつ、ふたつほどしか残っていなかった。けれど瞼の裏側には、無数の星の光が見えている。今日とあの日にふたりで見た、星空と空のグラデーションが焼き付いていた。そのおかげか気のせいか、迅はどこか軽くなったような気のする体を伸ばすと、冷たくなったカップの中身を一気に飲み干して、あの日と同じような、浮ついた足取りで屋上を後にした。





1/1ページ
    スキ