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八月のバースデー

 「迅、おめでとう」
 
 嵐山にそう言われ、ぽかんとする迅はまるで自分の名前さえも忘れてしまったかのようだった。それに苦笑する嵐山は迅の肩に手を置き、その青い瞳をまっすぐに見て問いかける。
 
 「自分の誕生日も忘れたのか?」
 「あ、ああ。そっか、今日だっけ」
 
 嵐山の口から出た言葉でやっと思い出したように、迅は嵐山の目を見て答えた。しかし迅のその目は、嵐山の翡翠に映る自分をぼうっと見つめていた。その様子に気づいた嵐山が、肩に置いた手に少しだけ力を込めた。
 
 「迅。今日くらいは、自分を祝ってやってもいいんじゃないか」
 「……そうだね。そりゃそうだ」
 
 そう言っていつもどおり微笑んだ迅の目は、まだ嵐山の瞳を通して、どこか別の場所を見ていた。
 
 
 
 今日ではない。
 あの頃、年を取るという実感は無くとも、お互いの誕生日というだけで心が踊った。どちらかの誕生日に、どちらかがケーキを買って、年の数だけ蝋燭を立てた。まるでキャンプファイヤーのようなケーキを見て、慌てて火を吹き消して笑っていた。いつも四月には、同じ年の数の蝋燭に嬉しくなった。そして八月になって、また一本増えた蝋燭に勝ち誇った顔をするその人が羨ましかった。ひとつ年上、というのが身に染みてしまっていて、なんとなくその一本多い蝋燭を見るまで、自分も年を取ったという実感が湧かなかった。
 
 だから、自分の誕生日は今日ではない。
 八月になって、あの四月よりも少しだけ火の勢いが強いケーキを見るまで、年は取らない。そう、自分の中で決まっていた。
 
 八月。
 自分とその人でふたりで一つのホールケーキに、二十本の蝋燭を立てた。
 おれ、やっとハタチになれたよ、太刀川さん。あの、一本の蝋燭をこれ見よがしに刺してくる自慢げな顔はもう見られない。ふたりで、穴のぼこぼこあいたケーキを切り分けもせずにフォークでつつき合うことも、もうできない。蝋燭同じ本数だね、と言ったら、もう少ししたらまた追い抜くけどな、と言って笑ってくれないと、おれも前に進めないのに。
 
 また四月が来る。
 嵐山は相変わらず、迅の誕生日になると、抜け殻のような本人にちゃんと祝福の辞を伝える。迅は嵐山の瞳に、笑いながらありがとう、と告げる。それは、自分の生まれた誕生日を祝ってくれていることへの感謝ではなく、毎年忘れないでくれていることへの感謝だった。嵐山にも忘れられてしまえば、もうこの四月九日のことを覚えている人間はこの世に誰ひとりとしていなくなってしまうと思っていた。
 
 そして八月になる。
 二十本の蝋燭が刺さったケーキをフォークで端からつつきながら、ゆらめく炎を見つめる。これが雪の降るクリスマスの夜とかだったらとても幻想的なんだろうな、と迅は考える。実際は湿気のこもる熱帯夜、網戸の向こう側にはぬるりとした夜が広がっている。食べ切れないケーキを前に、手に持っていたもう一本の蝋燭に火をつける。それをその燃え盛る祭壇に備えたとき、明かりもついていない真っ暗な部屋の中で、迅の声がぽつりと炎の上に落ちた。
 
 「追い越しちゃったね」




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