短い鎖
思えば、一刻も早くあの空間から逃げ出したかったし、もっと言えば太刀川に誘われたこの見舞いもあまり乗り気ではなかった。親しいボーダー関係者でなければおそらく断っていただろう。
スノーボードで木に激突し、肋骨を折って入院した諏訪が悪いという訳ではない。なんなら諏訪の顔を見たら気が紛れ安心したし、自分の様子を見て気を使ってくれたのか、まだ夕方だったのに寝るから帰れ、と言われ差し入れの小説とタバコだけ置いてさっさと帰ってきたようなものだった(肺を挫傷している人間にタバコを差し入れしたのはもちろん太刀川だ)。
病院着が似合わないだの、肋骨くらいで入院するようなタマじゃないだの、大部屋の病室で散々笑っていた太刀川も、帰りがけに諏訪に殴られてからすっかり大人しくなった。むしろ気持ちが悪くなるくらい静かで、この帰り道でもいまだ一言も喋っていない。どうせさっき諏訪になにか言われたのだろう。ちらりと横に目をやると、こちらをじいと見ていたであろう太刀川と一瞬目が合い、すぐに逸らされた。ふう、と諦めてため息をひとつ吐き、もうすっかり日も落ちて暗くなった道路の端で立ち止まった。
「……匂いがさ、ダメなんだよね」
「病院の?」
「そう」
正面玄関を入るとすぐに鼻をすんと通っていく消毒用アルコールの匂いも、病棟に上がればそこにプラスされる、食事と食器をごちゃまぜにした小学校の給食室のような匂い、そこにいる人々の「偽物の生活」のような匂いも、体がまったく受け付けなかった。この独特の匂いが好きではない、いつまで経っても慣れない。そう言った声自体は聞くこともあるが、そこにいるだけで眩暈がして、今自分がどこを歩いているのかわからなくなる。気がつけば地下に続く階段を延々と下らされているような、酷い気分になるのだ。
病院で誰かを看取ったのは最近のことではない。きっとよくある話だ。長い間入院していた祖母がいて、小さい頃よく家族に連れられてお見舞いにきていた。そのうち入院生活に退屈している祖母が、次はいつきてくれるの?と聞くようになる。曖昧に返事をする家族の陰で、明日もくるよ、とこっそり伝える。しかし次の日にひとり勇んでやってきたのはいいものの、家族と離れて見る正面玄関の大きさも、その病院の中に入ったときの匂いも、いつもとは何もかもが違っていて、怖くなってそのまま引き返してしまった。どれだけ落胆しただろうかと考えるたびに、あのとき見た喜ぶ祖母の顔が甦ってきて、それから家族でお見舞いに行くのも断っていたらそのうち祖母は亡くなってしまった。それから、どの病院に行ってもあのときひとりで嗅いだ匂いがするようになってしまった。顔に白い布を掛けられた祖母と最期の別れをしたときに病室で嗅いだ匂いではない。一人で路頭に迷い、途方に暮れていたときのあの匂いだけがどうしても忘れられなかった。別のだれかで上書きしてしまえばいいのだろうかなんて最低な考えまで浮かんだこともあった。そんなところにいる人間を、もう二度とだれも見たくはないのに。
「……ずっと呼んでるのかなあ」
ぽつぽつとそんなことを話していて、最後にぽとりと口から落ちたのはそんな言葉だった。向こうへ行った者よりも生きている者のほうがなにかをするという力は強いはずなのに、呪縛という意味ではそれがひっくり返るのはどうしてなのだろうといつも考えていた。空を越えるほど長い鎖をこっちまで寄越さないといけないぶん、向こうでは勢いも強度も磨いているのだろうか。そんな厄介なものを切るためにはこっちも気合を入れて鋏を研がなければならないのに、自分のそれはずっと錆びついたままだ。もたもたしているうちに鎖は右から左から、どんどんと増えて雁字搦めになる。そのひやりとした無機質な金属に巻かれて、もうどこへも行けはしないのだ。
「おまえは、ここにいればいいんじゃないの」
ふいに、ポケットに突っ込んでいた手が取り出された。前に立っている太刀川の体温が、手のひらから伝わってくる。そこで今日初めて、人の温度というものを感じた気がした。絡まった指と指が触れているところから、固まっていたなにかが溶けだしていった。そうだ、こんな身近に、こんなにも短いけれどなによりも盤石で温かい鎖があったことを忘れていた。ときに離れることもあるけれど、いつの間にか当たり前のように近くにあって、何度も何度も奈落の底から救い出してくれる。慰めでも哀れみでもない、ぶっきらぼうだけれどそのとき一番欲しい言葉もなんてことないように添えてくれる。それがあれば、たとえ鋏が切れなくても大丈夫なのだと思ってしまう。
太刀川が手を取ったまま歩き出す。それにつられて、自分の足も前に進む。暗かったはずの道が、どこまでも続いているように見える。この繋がりに引っ張られているうちはまだ歩いていける、そう確信させてくれるものが、たしかにそこから流れ込んできた。
「腹減ったし、ラーメンでも食おうぜ」
「一昨日も食べなかったっけ」
「ふっ……今日はなんと、諏訪の兄貴からの施しがあるんだな。だから、なんでも食っていいぞ」
「……マジか」
そこまで見抜かれて、気を使わせてしまっていたのか。いつの間にか視野も狭くなっていて、見えていなかったいろいろなものがようやく形を現わし始めた。諏訪さんが退院したら、また本とタバコを持ってお礼に行かないといけないな。退院する前でもいいか。もう、そこへ行くことに、憂鬱を感じてはいなかった。
そして、ラーメン屋につくまでのしばしの間を心ゆくまで堪能するために、隣に並んで繋がれたその手を、強く強く握り返した。
スノーボードで木に激突し、肋骨を折って入院した諏訪が悪いという訳ではない。なんなら諏訪の顔を見たら気が紛れ安心したし、自分の様子を見て気を使ってくれたのか、まだ夕方だったのに寝るから帰れ、と言われ差し入れの小説とタバコだけ置いてさっさと帰ってきたようなものだった(肺を挫傷している人間にタバコを差し入れしたのはもちろん太刀川だ)。
病院着が似合わないだの、肋骨くらいで入院するようなタマじゃないだの、大部屋の病室で散々笑っていた太刀川も、帰りがけに諏訪に殴られてからすっかり大人しくなった。むしろ気持ちが悪くなるくらい静かで、この帰り道でもいまだ一言も喋っていない。どうせさっき諏訪になにか言われたのだろう。ちらりと横に目をやると、こちらをじいと見ていたであろう太刀川と一瞬目が合い、すぐに逸らされた。ふう、と諦めてため息をひとつ吐き、もうすっかり日も落ちて暗くなった道路の端で立ち止まった。
「……匂いがさ、ダメなんだよね」
「病院の?」
「そう」
正面玄関を入るとすぐに鼻をすんと通っていく消毒用アルコールの匂いも、病棟に上がればそこにプラスされる、食事と食器をごちゃまぜにした小学校の給食室のような匂い、そこにいる人々の「偽物の生活」のような匂いも、体がまったく受け付けなかった。この独特の匂いが好きではない、いつまで経っても慣れない。そう言った声自体は聞くこともあるが、そこにいるだけで眩暈がして、今自分がどこを歩いているのかわからなくなる。気がつけば地下に続く階段を延々と下らされているような、酷い気分になるのだ。
病院で誰かを看取ったのは最近のことではない。きっとよくある話だ。長い間入院していた祖母がいて、小さい頃よく家族に連れられてお見舞いにきていた。そのうち入院生活に退屈している祖母が、次はいつきてくれるの?と聞くようになる。曖昧に返事をする家族の陰で、明日もくるよ、とこっそり伝える。しかし次の日にひとり勇んでやってきたのはいいものの、家族と離れて見る正面玄関の大きさも、その病院の中に入ったときの匂いも、いつもとは何もかもが違っていて、怖くなってそのまま引き返してしまった。どれだけ落胆しただろうかと考えるたびに、あのとき見た喜ぶ祖母の顔が甦ってきて、それから家族でお見舞いに行くのも断っていたらそのうち祖母は亡くなってしまった。それから、どの病院に行ってもあのときひとりで嗅いだ匂いがするようになってしまった。顔に白い布を掛けられた祖母と最期の別れをしたときに病室で嗅いだ匂いではない。一人で路頭に迷い、途方に暮れていたときのあの匂いだけがどうしても忘れられなかった。別のだれかで上書きしてしまえばいいのだろうかなんて最低な考えまで浮かんだこともあった。そんなところにいる人間を、もう二度とだれも見たくはないのに。
「……ずっと呼んでるのかなあ」
ぽつぽつとそんなことを話していて、最後にぽとりと口から落ちたのはそんな言葉だった。向こうへ行った者よりも生きている者のほうがなにかをするという力は強いはずなのに、呪縛という意味ではそれがひっくり返るのはどうしてなのだろうといつも考えていた。空を越えるほど長い鎖をこっちまで寄越さないといけないぶん、向こうでは勢いも強度も磨いているのだろうか。そんな厄介なものを切るためにはこっちも気合を入れて鋏を研がなければならないのに、自分のそれはずっと錆びついたままだ。もたもたしているうちに鎖は右から左から、どんどんと増えて雁字搦めになる。そのひやりとした無機質な金属に巻かれて、もうどこへも行けはしないのだ。
「おまえは、ここにいればいいんじゃないの」
ふいに、ポケットに突っ込んでいた手が取り出された。前に立っている太刀川の体温が、手のひらから伝わってくる。そこで今日初めて、人の温度というものを感じた気がした。絡まった指と指が触れているところから、固まっていたなにかが溶けだしていった。そうだ、こんな身近に、こんなにも短いけれどなによりも盤石で温かい鎖があったことを忘れていた。ときに離れることもあるけれど、いつの間にか当たり前のように近くにあって、何度も何度も奈落の底から救い出してくれる。慰めでも哀れみでもない、ぶっきらぼうだけれどそのとき一番欲しい言葉もなんてことないように添えてくれる。それがあれば、たとえ鋏が切れなくても大丈夫なのだと思ってしまう。
太刀川が手を取ったまま歩き出す。それにつられて、自分の足も前に進む。暗かったはずの道が、どこまでも続いているように見える。この繋がりに引っ張られているうちはまだ歩いていける、そう確信させてくれるものが、たしかにそこから流れ込んできた。
「腹減ったし、ラーメンでも食おうぜ」
「一昨日も食べなかったっけ」
「ふっ……今日はなんと、諏訪の兄貴からの施しがあるんだな。だから、なんでも食っていいぞ」
「……マジか」
そこまで見抜かれて、気を使わせてしまっていたのか。いつの間にか視野も狭くなっていて、見えていなかったいろいろなものがようやく形を現わし始めた。諏訪さんが退院したら、また本とタバコを持ってお礼に行かないといけないな。退院する前でもいいか。もう、そこへ行くことに、憂鬱を感じてはいなかった。
そして、ラーメン屋につくまでのしばしの間を心ゆくまで堪能するために、隣に並んで繋がれたその手を、強く強く握り返した。
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