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茜色

 職員室前にひっそりと貼られた、新聞の切り抜き。白と黒のただでさえ目立たない色合いのそれをそのまま画鋲で留めただけのやる気のない掲示に、なぜ目が留まったのかはわからない。
 
 もう三か月ほど前になるだろうか、教師に頼まれたプリントを届けた帰り、視線のようなものを感じてふと振り返った先にあったそれに、不思議と心を奪われていた。堺アマチュア将棋大会にて中学生が異例のAクラス優勝、という文字に並んで、我らが中学校の名前とその人物が、嬉しさの欠片もないような顔をして盾を持っている姿で印刷されていた。その名前と姿を見ても思い当たる面識はまったくなかったのに、なぜかそれからそこを通るたびに目を向けるようになってしまっていた。この学校に将棋部なんてないし、別に会ってどうこうしようというつもりもないのに、それが不思議だった。
 
 そもそも、今まで新聞なんてテレビ欄以外読んだことがない。将棋のことなんて何一つわからないし興味もない。Aクラスが中学生にとってどの程度のレベルなのかも見当がつかない。なのに、どうしてこんなにも目がいってしまうのか。それは最近になってようやくわかったことだった。
 今まで人の言うことをはいはいと聞いて、言われたことだけをやってきた主体性のない自分から見たら、この人物がとても輝いて見えたのだと思った。それと同時に、こことは少し離れた知らない場所で大人に囲まれた大会で優勝して、嬉しくないはずがないのに、こんな顔で写真に写っているというのがまたなんとも可笑しかった。そう思うと、ますます目が離せなくなっていた。野球部やサッカー部のきらびやかなトロフィーなどが並ぶ棚ではなくて、なんでこんな目立たないところに、と思うこともあったけれど、むしろこのほうが人目を気にすることもなくて良かった、などと本人の気持ちさえ知らず勝手なことばかり考えていたのだった。

 

 ちょうどその辺りで、ボーダーという機関にスカウトされた。校長先生直々に呼び出され、初めてその扉の奥を見た、こんなことがなければ二度と足を踏み入れることもなかったであろうこの学校の応接室に恐る恐る入ったときの景色は、今でもはっきりと覚えている。

 「はあ。ボーダー、ですか」
 「うん。どうかな、興味のほうは」
 
 話を聞くと、その機関に入隊する若い人間を募集しているようだった。ここ大阪では珍しく標準語で話す、「他所から」来たという空気を隠そうともしないその人は、何もかもわからないといった反応の自分を優しく見つめていた。そのおかげか、何もわからないなりに、少しずつ疑問を投げることができた。
 
 「あの、これもしかしてこの学校の全員に聞いとるんですか。大変ですね」
 「はは、そんなことないよ。こんなことを言うと身構えてしまうかもしれないけれど、ここでは君が一人目だ」
 「ええ、んなアホな……何でおれなんですか」
 「声を掛ける基準はいくつかあるけど、一番大きいのは、その人の持つ目には見えない素質のようなものかな。あとは運動神経もあるし、戦術面で大事な頭の良さだったりもある。入隊試験には筆記もあるからね」
 「素質、頭……」
 
 その人が口にした言葉たちは、自分には無関係、というようにどこにも引っかかることなく滑り落ちていった。その代わりに、頭の中に沈んでいたある人物の姿をぱっと映し出した。
 
 「……あ。そんなら、おれなんかより、あの」
 
 そこまで言って、肝心の名前がわからないことに気づく。もう居ても立っても居られなくなっていた。不思議そうにこちらを見ているその人を前に、ちょお待っとってください、と言い終わるか終わらないかのうちに応接室を飛び出した。あんなに眺めていたのに、苗字や名前の一つも覚えていなかった、なんて決まりの悪さを払拭するように廊下を走った。階段を一段飛ばしで駆け上がり、ようやく職員室の前まで辿り着くと、夕陽に照らされる壁がやけにこざっぱりしているように感じた。それもそのはず、この間まで確かにそこに貼られていたはずのあの新聞記事は、もうどこにも見当たらなかった。
 
 「タイミング、悪う……」
 
 誰もいない廊下にぽつりと溢したその呟きは、いつの間にか剥がされていたそれがあったはずの場所へと吸い込まれるようにして消えていった。そこに記されていた、何度も読んだはずの名前は、もうまったく思い出せなくなっていた。



 「そこで何探してん」

 横からふいに掛けられた声。顔を向けると、つんつんと跳ねあがった癖のある髪に、何かしらに不満がありますと言っているような顔。まさに、新聞に載っていたのと同じ姿かたちをしたその人が、あろうことか目の前に立っていた。
 
 「え、あ」
 「そういや自分、よく熱心にそこで何やら見とったよなあ」
 「いた……」
 「は?」
 「ちょ、ちょお。来てください」
 「いやいや、何」
 
 この状況で、ひとつ上の学年の色をした上履きに気づいて咄嗟に敬語を使えた自分を褒めてやりたかった。それくらい、有頂天になってしまっていた。思わず、探し物がやっと手に入って喜ぶ子供のように、その人の手を引いてまた走り出していた。その人が何かを言おうとしているのにも構わず、ただ、その手を引っ張って階段を駆け下りた。
 
 「なあ、自分、何なん」
 「おれ、隠岐です。先輩は?」
 
 怪訝そうな顔をして、それでも大人しく引っ張られてくれていたその人に、ようやく自己紹介をした。こっちからしたら初対面な気はあまりしなかったけれど、向こうにとってはそうではないはずだ。
 
 「……水上敏志」
 
 こんなときでもきちんとフルネームで返すその人に笑ってしまいそうになりながら、その名前があのとき見ていたモノクロの写真の横にぴたりと揃った。窓から差し込むオレンジ色の西日の眩しさなんてもう気にならなくて、やっぱり自分の感覚は正しかったのだと、誇りに思うことしかできないでいた。

 おれなんかよりもこの人のほうが、と言うつもりだった。それなのに、この先歩いてゆく未来に、この鮮やかな橙色とはまた違う色が差し込んだ気がしていた。そして再びその応接室の扉を、今度は何も恐れることなく開けたそのとき、自然と口が動いていた。


 
 

 おれも、この人と一緒なら



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