にせものの詞藻
遺書を書いたことは一度だけある。初めての遠征だったのと、その頃はまだ母親が生きていたので、母親に宛てて慎重に言葉を選び、丁寧に文字を綴った。その遠征があっけなく終わり、遺書も自分のもとへと返されたとき、ああこんなものか、と思った。行く前はずしりとのしかかるような重みを心身ともに与えていたのに、帰ってきてしまえばそれはただの紙切れとなり下がった。母親に見せる気にも捨てる気にもなれず、なんとなく机の引出しの奥のほうにしまいこんでいたそれは、後日母親の棺桶の中に入れて一緒に燃やすこととなった。そのときは、ほんのついでのつもりだった。
ほんとうなら、その紙に書かれたとおりならば、自分がその中に入るはずだったのだ。約束を破られ、お役御免となったその紙切れが無念を晴らすため、代わりに自分の一番大切な人を一緒に連れて行った。時が経つにつれ、そう考えるようになっていった。サイドエフェクトを重宝され、それから一度も遠征には行くことなくここまで過ごしてきたが、それでよかったと思っていた。近界に行きたくないわけでも、死にたくないわけでもない。もう、あの二文字を見たくないだけだ。
それからボーダーには数々の個性豊かな人間が入隊してきた。その中に、なんとなく自分と似ていると思う人物を見つけた。容姿が似ている者と、心の内が似ている者。容姿が似ているほうは、同い年だったこともあり、それから親友と呼べるほど親しい間柄となった。もうひとりのほうは、似ているという言葉では簡単には言い表せない、もっと深いところでのつながりが感じとれるような、不思議な感覚を味わせてくれる人だった。
そして、その人とは自分のライバルと呼べるような、互いに切磋琢磨しあえる仲になった。真正面からぶつかりあい、そのくせ相手の裏をかこうと躍起になって手札を隠し、相手の考えを感じ取り、見切り、躱し、剣を振るった。一緒に戦っていくなかで、その人となりを咀嚼していった。それは向こうも同じだった。ふたりで夢中になり、お互いの個人ポイントが他の隊員を大きく上回ったころ、自然と恋仲になっていた。
ある日、その人が本部の一角で一枚の紙とペンを持ち、苦悩に満ちた表情で机に向かっていた。なんだか嫌な予感がした。自分の姿を見つけると、その人は一転嬉しそうな顔でちょうどよかった、と声を掛ける。その口から、今度ついに遠征に行けることになったんだ、と希望溢れる声が紡がれるのを聞いていると、自分の初遠征が決まったときのことが薄ぼんやりと思い出されていた、そんなときだった。
「お前、遠征行ったことあるんだろ。そのとき遺書書いた?」
その言葉の響きが、ぐわんと脳をゆさぶった。そんなものをすらすらと書ける人間のほうがおかしいとさえ思うが、目の前にいるのはことさら苦労しそうなタイプの人間だ。真白な紙を前にうんうん唸りながら、なにかまともな言葉をひねり出そうとしているその姿が一瞬遠くなった。体から色が抜け落ちて、地面に吸い取られてゆくような感覚を必死に堪え、平静を装った顔で答える。
「うん、一回だけだけど」
「ちゃんと書いた?」
「もちろん。けど、帰ってきたら、まじめに書いたのがばからしくなっちゃったなあ」
そう言うと太刀川は、だよなあ、と不満溢れる表情でペンをくるくると器用に回す。しかしまたすぐに、けどなあ、と渋々机上の白紙に向かい直す。
「一回忍田さんに怒られてるから、次はまともに書かないとやべえんだよ」
彼にとってその人は、いまだに何事においても逆らえない師であるのだろう。これだけ嫌がっていても手放すことはできないようで、ペンを握る手にも力が込められる。
その手が自分に触れるとき、唇が唇に触れるとき、その手をその唇を、どこか本物と思えない自分がいた。言ってしまえば、どれだけの時間一緒にいようと、触れ合うほどの距離で隣にいようと、所詮他人なのだ。その注がれる愛情が偽物だと言いたいわけではないのだけれど、どうしても、その壊れものを扱うように優しく触れられるその手に値するだけの価値を、自分が持っているとは思えなかった。
この人が遠征から無事に帰ってきたら、こんなにも手をかけて書かれたこの紙はまたしても不要品となる。そうなったら、今度は自分の番ではないだろうかと考えた。この紙切れが役割を果たすために、代わりに自分を連れて行ってくれるのではないか。それがこの紙の持つ効力なのだ。自分がそんなものを書いたせいで、母親が帰らぬ人となったときのように。
「向こうに行っても、おれのこと、忘れないでね」
口をついて出た言葉は、なんとも女々しいものだった。この期に及んで、やっぱり少し怖くなったらしい。
「寂しかったら、いつでも電話しろよ」
「いや携帯通じないでしょ」
「じゃあ、本部の通信使うか」
思わず、ばかじゃないの、と言って笑った。それでもう吹っ切れた気がした。おれたちは似ている。似たものどうしは、一緒にはいられない。同じ形どうしはうまく嵌まらない。それを書いてしまったら、もうあの頃のままではいられないのだ。
その夜は太刀川の家に泊まった。
なかなか寝付けず、温かなシーツを抜け出して、水を飲みにキッチンへと向かう。そこで、リビングのテーブルの上にある、あのあと試行錯誤してなんとか完成させたであろう遺書が置かれているのを見つけた。
中身は見ずとも、その前に座り、たった一枚なのに鉛のように重く机にのめりこんでゆこうとするその紙を眺める。こんなもののために、さよならを言わなくてはならない。理不尽なこの世界の循環を嘆いた。
そこでふと、違和感に気づく。
よく見ると、表書きの遺書の「遺」の字が「遣」になっていた。
また、一人で思わず笑ってしまった。それと同時に、頬を一筋の涙が伝った。その涙がどちらの意味の涙なのかはわからなかったが、自分の中では確実に、もうこの人を他人だなどと思えなくなっていたということだけはわかった。
もう少しだけ、一緒にいさせてくれないかな。
そのただの手紙にようやく本音を吐き出すと、冷えた体を再び体温の宿るシーツの中へと潜りこませた。
ほんとうなら、その紙に書かれたとおりならば、自分がその中に入るはずだったのだ。約束を破られ、お役御免となったその紙切れが無念を晴らすため、代わりに自分の一番大切な人を一緒に連れて行った。時が経つにつれ、そう考えるようになっていった。サイドエフェクトを重宝され、それから一度も遠征には行くことなくここまで過ごしてきたが、それでよかったと思っていた。近界に行きたくないわけでも、死にたくないわけでもない。もう、あの二文字を見たくないだけだ。
それからボーダーには数々の個性豊かな人間が入隊してきた。その中に、なんとなく自分と似ていると思う人物を見つけた。容姿が似ている者と、心の内が似ている者。容姿が似ているほうは、同い年だったこともあり、それから親友と呼べるほど親しい間柄となった。もうひとりのほうは、似ているという言葉では簡単には言い表せない、もっと深いところでのつながりが感じとれるような、不思議な感覚を味わせてくれる人だった。
そして、その人とは自分のライバルと呼べるような、互いに切磋琢磨しあえる仲になった。真正面からぶつかりあい、そのくせ相手の裏をかこうと躍起になって手札を隠し、相手の考えを感じ取り、見切り、躱し、剣を振るった。一緒に戦っていくなかで、その人となりを咀嚼していった。それは向こうも同じだった。ふたりで夢中になり、お互いの個人ポイントが他の隊員を大きく上回ったころ、自然と恋仲になっていた。
ある日、その人が本部の一角で一枚の紙とペンを持ち、苦悩に満ちた表情で机に向かっていた。なんだか嫌な予感がした。自分の姿を見つけると、その人は一転嬉しそうな顔でちょうどよかった、と声を掛ける。その口から、今度ついに遠征に行けることになったんだ、と希望溢れる声が紡がれるのを聞いていると、自分の初遠征が決まったときのことが薄ぼんやりと思い出されていた、そんなときだった。
「お前、遠征行ったことあるんだろ。そのとき遺書書いた?」
その言葉の響きが、ぐわんと脳をゆさぶった。そんなものをすらすらと書ける人間のほうがおかしいとさえ思うが、目の前にいるのはことさら苦労しそうなタイプの人間だ。真白な紙を前にうんうん唸りながら、なにかまともな言葉をひねり出そうとしているその姿が一瞬遠くなった。体から色が抜け落ちて、地面に吸い取られてゆくような感覚を必死に堪え、平静を装った顔で答える。
「うん、一回だけだけど」
「ちゃんと書いた?」
「もちろん。けど、帰ってきたら、まじめに書いたのがばからしくなっちゃったなあ」
そう言うと太刀川は、だよなあ、と不満溢れる表情でペンをくるくると器用に回す。しかしまたすぐに、けどなあ、と渋々机上の白紙に向かい直す。
「一回忍田さんに怒られてるから、次はまともに書かないとやべえんだよ」
彼にとってその人は、いまだに何事においても逆らえない師であるのだろう。これだけ嫌がっていても手放すことはできないようで、ペンを握る手にも力が込められる。
その手が自分に触れるとき、唇が唇に触れるとき、その手をその唇を、どこか本物と思えない自分がいた。言ってしまえば、どれだけの時間一緒にいようと、触れ合うほどの距離で隣にいようと、所詮他人なのだ。その注がれる愛情が偽物だと言いたいわけではないのだけれど、どうしても、その壊れものを扱うように優しく触れられるその手に値するだけの価値を、自分が持っているとは思えなかった。
この人が遠征から無事に帰ってきたら、こんなにも手をかけて書かれたこの紙はまたしても不要品となる。そうなったら、今度は自分の番ではないだろうかと考えた。この紙切れが役割を果たすために、代わりに自分を連れて行ってくれるのではないか。それがこの紙の持つ効力なのだ。自分がそんなものを書いたせいで、母親が帰らぬ人となったときのように。
「向こうに行っても、おれのこと、忘れないでね」
口をついて出た言葉は、なんとも女々しいものだった。この期に及んで、やっぱり少し怖くなったらしい。
「寂しかったら、いつでも電話しろよ」
「いや携帯通じないでしょ」
「じゃあ、本部の通信使うか」
思わず、ばかじゃないの、と言って笑った。それでもう吹っ切れた気がした。おれたちは似ている。似たものどうしは、一緒にはいられない。同じ形どうしはうまく嵌まらない。それを書いてしまったら、もうあの頃のままではいられないのだ。
その夜は太刀川の家に泊まった。
なかなか寝付けず、温かなシーツを抜け出して、水を飲みにキッチンへと向かう。そこで、リビングのテーブルの上にある、あのあと試行錯誤してなんとか完成させたであろう遺書が置かれているのを見つけた。
中身は見ずとも、その前に座り、たった一枚なのに鉛のように重く机にのめりこんでゆこうとするその紙を眺める。こんなもののために、さよならを言わなくてはならない。理不尽なこの世界の循環を嘆いた。
そこでふと、違和感に気づく。
よく見ると、表書きの遺書の「遺」の字が「遣」になっていた。
また、一人で思わず笑ってしまった。それと同時に、頬を一筋の涙が伝った。その涙がどちらの意味の涙なのかはわからなかったが、自分の中では確実に、もうこの人を他人だなどと思えなくなっていたということだけはわかった。
もう少しだけ、一緒にいさせてくれないかな。
そのただの手紙にようやく本音を吐き出すと、冷えた体を再び体温の宿るシーツの中へと潜りこませた。
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