このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

たのしいおんがくのじかん

 「太刀川さん、お疲れ様」
 
 楽屋を開けると、ペットボトルを空にする勢いで水を飲み干しているひとがいた。たった今演奏会が終わったばかりで、額にはうっすらと汗が滲んでいる。美味しそうに水を飲み終わると、掌で前髪ごと汗を拭いながら、黒の蝶ネクタイを鬱陶しそうに緩めていた。
 
 「おう、お疲れ。迅」
 「相変わらず暑そうだね」
 
 黒の燕尾服に黒いシャツを合わせ、そのうえ蝶ネクタイまで黒いので、遠くから見るとつけているかどうかすらわからない。以前そう指摘したのだが、これは俺のホリデーなんだ、と意味のわからないことを言われたので、それ以上その話題について触れるのを諦めた。後から気づいたが、恐らくポリシーと言いたかったのだと思う。
 
 「あちい。終わってんのに俺だけ何度もステージ往復しなきゃならんしな、あれが一番疲れる」
 
 ぱたぱたと手で自分を仰ぎながら、あれ誰がやり出したんだ?と不貞腐れ椅子にもたれる姿は、ステージ上の姿とはまるで正反対だ。何十もの楽器を本番の一発勝負で正確にまとめ上げなければならない指揮者は、普通原曲を聞き、総譜を読み込み、音のひとつひとつまで身に染み込ませなければならない。
 しかしこの常任指揮者がこのオーケストラに新しく赴任して、最初に団員の前で放った言葉は、「俺は総譜は読めん」だった。これにはもちろん団員全員が驚愕し、不安のどん底に叩き落とされた。最悪指揮者が駄目だったときは、ファーストバイオリンのトップに座る自分が何とかしなければ、と腹を括っていたのだが、その心配は杞憂に終わった。確かに彼は練習中ですら楽譜のほうを一切見なかった。それなのに、音の違いやテンポのズレは全て指摘され直されて、紡がれるいくつもの音は流れるように導かれていった。読めないくせに、総譜に載っている情報は全て彼の頭の中に入っていたのだ。そんな指揮者見たことがない、と団員達は再び驚愕の渦に巻き込まれたのだった。
 
 指揮者に一番近いとされるコンサートマスターは、団員と指揮者との掛橋となって演奏を成功に導かなければならない。しかしこの指揮者は、練習中も本番もほぼこちらを見ようとはしなかった。それでも指揮棒の動き、呼吸で合わせることは難しくはなかったのだが、今回の演目の最終曲、一箇所だけファーストバイオリンが息を揃えて入りを合わせないといけないシビアなフレーズがあった。練習では今まで通り、指揮棒による合図を出してくれてはいたのだが、今回の本番、初めてステージ上で目が合った。真剣な表情に宿る熱を映した瞳に、思わずどきりと心臓が跳ねた。演奏自体は今までで最高の出来となったのだが、そのときの指揮棒を振る手、表情、あの瞳が、目に焼き付いてしまっていた。
 
 「なあ、この後暇だろ?飲み行こうぜ」
 
 そんな自分の思いを知らないであろうこの人は、緩めた蝶ネクタイを外すと机の上に放り投げていた。
 
 「うん、おれも着替えてくるね」
 
 これ以上ここでこのひとといると、なんだか変な気分にならそうだった。だからそう言って、そそくさと楽屋を出ようとしたときだった。迅、と名前を呼ばれて振り返ると、すぐ後ろに来ていた太刀川さんに腕をとられ、外された蝶ネクタイのように机の上に放り出された。
 
 「俺が手伝ってやるよ」
 「え、ちょ、太刀川さ……」
 
 ジャケットを剥ぎ取られ、シャツのボタンに手をかけるその人の目は完全に肉食動物のそれだった。自分は演奏が終わると全て振り出しに戻ってまた最初から、とフラットになるタイプだったが、彼は真逆で、昂った感情のぶつけ所を探しているようだった。しまった、と思ったがもう遅い。
 
 「ひとりで、できるから、っ」
 「ふたりでやったほうが早いだろ」
 
 馬乗りになられているのと、その瞳の熱に囚われて、身動きが取れなかった。そのうちにスラックスのベルトに手がかかり、諦めかけた、しかしその次の展開はなかなか訪れなかった。なにか起きたのかと見上げると、太刀川さんは自分の上で、別の何かに取り憑かれてしまったように動かなくなっていた。
 
 「ええと、太刀川さん……?」
 「……あそこ、上手くハマったな」
 「え、何の話?」
 「第四楽章のフォルテんとこ」
 「演奏の話?」
 「今までで一番ハマったと思った。あそこ、まじで良かったよな、な?」
 
 急に少年のようなテンションで話し始めたと思ったら、まさかこの状況で演奏の話を始めるとは。ついていけなかったけど、本当にこの人らしいと思った。
 
 「……うん、おれもそう思う。上手くいって良かった」
 「なに笑ってんの?」
 「太刀川さんのせいだよ」
 
 そこまで言って、おかしさがこみあげてきて、声を上げて笑った。それを太刀川さんは不思議そうに眺めていた。
 
 あのときの、手と表情と瞳が、頭の中で交錯する。さっきまでの彼の目は、演奏中と同じ、熱を持った瞳だった。演奏後は冷静でいられると自信を持って思っていたのだけれど、実は自分も彼と同じタイプなのかもしれないと思った。この人が演奏会の後も、同じ表情をしているのをわかっていて、自分一人で楽屋を訪れたのだから。
 
 「ね、早く飲み行こ?」
 
 起き上がって誤魔化すように吐いた台詞は、今思えばもうこの熱で浮ついてしまっていたのに、それを隠そうと必死になっていた。乱れた服を直して、ほら、なにもありませんでしたと顔も取り繕って見せた。そこで、もう熱も冷めただろうと、向こうの瞳をもう一度覗き込んでしまった。それが結果的に、再び彼を煽ることになったというのは、今となってはもう自明のことである。



1/1ページ
    スキ