天使と悪魔
時間は深夜一時を回った頃だった。電気を付けたままリビングで微睡んでいたところに、机に置いた携帯がけたたましく意識を引っ張り起こす。「太刀川慶」と表示されたその電話に渋々出ると、電話の向こうから聞こえてきたのは諏訪さんの声で、後ろから飛んでくる声からもその飲み会の惨状が容易に想像できた。とりあえずここに来い、と場所だけ伝え有無を言わせず切れたその電話を握り、一つ深めの溜息を部屋に置いて、上着を羽織り外に出る。
家から十五分ほどのその店までの道を歩きながら、もうすっかり冷えるようになった夜の澄んだ空気を肺に取り込む。急いで向かうのも癪だったので、途中にある公園に憂さ晴らしを兼ねて入り、ひとりでブランコを漕ぐ。けれど、なぜか気分が高揚してしまっているのに気づいて、すぐに降りる。こんな夜遅くに酔った人間の介抱を頼まれて、何が嬉しいというんだろう。いまだ酒の一滴も体に入れたことがないのに、ふわふわと浮つく意識を何とか制御し、仕切り直して目的地へと向かう。
しばらくして繁華街に入ると、店前に立ち尽くしている大男を発見した。見るからにふらふらと酔っ払っているその様子を見て踵を返したくなるも、すぐにこちらに気づいて寄ってこられるともう逃げるわけにはいかなくなる。
「じんだ。ただいま〜」
「まだ家じゃないから……皆は?帰った?」
「おう、置いてかれた。ちゃんと帰れたかな」
素面の人間にとってはただただ酒臭い話を聞きながら、この状態でも人の心配をしているこの人間に更に溜息が落ちる。
「まあ聞けよー、今日も風間さんやばかったぞ」
「また?今度はどうしたの?」
「寝てたのに急に起きて、最後一個だけ残った唐揚げに求愛してた」
「はは、なにそれ」
「どんな夢見てたんだろうなあ」
その話のおかげで、寝てたのに起こされたとか、いい加減ひとりで帰ってこれるようになれだとか、言いたかった数々の言葉はするりと胃に落ちて消化されていった。風間さん様様である。今日は朝に家を出てからお互い別行動で、太刀川さんはそのまま飲み会に連れて行かれたので、今やっとこうして話せているのが少し嬉しかった。それなのに、もう歩くの疲れた、と言って先ほどの公園に入ってゆくその人を追いかけていると、やっぱりもう少しちゃんとして欲しいという思いが口から溢れそうになる。
「なあじん。砂遊び、懐かしいな」
「食べないでよ」
砂場の縁に座り込み穴を掘り出したのを見ながら、子供用に作られたその場にこの体格の男は全くもって似つかわしくなく、住民に通報されて警察に職質でもされたらどうしよう、と辺りを伺っていた。そんな心配をされているとは露知らず、じーん、と気の抜けた声を掛けてくるその酔っ払いの方を振り返ると、なにやら細かいものが視界一杯に舞う。
「はっぱカッター!」
青臭さと体についた草の欠片に、とても成人男性がしていいようなことではない技を披露されたのだとわかりしばらく何も言えなかった。はっはっは、と満足気に笑うその本人に、もう帰るよ、と声を掛けるも、その場から動く気配はない。
「立てない〜」
「……っもう、成人した男がふざけんな!」
この際ありったけの力を込めてその腕を引っ張るも、生身の自分ではこのやる気の無い脱力した大男の体はびくともしなかった。それどころか逆に掴んでいた腕を取られ、支点を失った体はバランスを崩し、そのまま二人とも砂場へと転がり込んだ。
「……もう最悪」
「ふはは。もう風呂入った?」
「当たり前じゃん、寝てたんだし」
「じゃあ帰ったらもう一回入ろうぜ、な?」
「……それが目的?」
「いいや、」
髪まで砂にまみれてもはや怒る気にもなれず、諦めてその場に寝転がったところに、火照った顔が近づく。唇が触れ、酒の匂いと砂混じりの舌が交錯する。こんなところで、と働く理性を触れ合う鼻の熱が押し留めていく。唇はすぐに離れたが、目の前にはいつも通りの自信に溢れる顔があった。
「てんしのキッス」
「…はあ?」
「こんらんするかと思って」
そう言ってばたん、と隣に大の字になって寝転ぶと、「このままここで寝たいなー」と猫のように伸びをしているこのマイペースな男に、言いようのない悔しさが募った。元々売られた喧嘩は買うタイプだ。そのまま仰向けの無防備な腹の上に跨ると、覆い被さるように顔を近づける。
「ねえ。『あくま』のほう、してあげようか」
「……ねむらせてくれるのか?」
髪についていた砂粒がぱら、とその顔に落ちていく。酔って赤ら顔をしていても表情は余裕を保っているが、その喉がごくりと鳴ったのを聞き逃さなかった。両の頬に手を添え、ゆっくりと唇を寄せていく。期待通り、という表情が目に入ったところで満足し、その油断しきった額に自分の額をぶつけた。誰もいない公園に、小さな鈍い音が響く。
「痛え!え、何?」
「寝たら置いてくからね」
そうして立ち上がると、砂を払ってさっさと歩き出す。後ろから、待てよじーん、とこちらまで気の抜ける声が聞こえてくるが、一向に構わず公園を出る。このまま明日の朝になって、このしょうもないやりとりを思い出したら、こっちは一滴も飲んでいないというのに頭が痛くなりそうだった。
そんな馬鹿げたことをしていて忘れていたが、ふと落ち着いてこの道を歩くと、夜の空気の凛とした温度に身が引き締まる。行きよりひとり分増えた足音を確認し、冷めてしまった風呂を沸かし直すため、足早に家路につくのだった。
家から十五分ほどのその店までの道を歩きながら、もうすっかり冷えるようになった夜の澄んだ空気を肺に取り込む。急いで向かうのも癪だったので、途中にある公園に憂さ晴らしを兼ねて入り、ひとりでブランコを漕ぐ。けれど、なぜか気分が高揚してしまっているのに気づいて、すぐに降りる。こんな夜遅くに酔った人間の介抱を頼まれて、何が嬉しいというんだろう。いまだ酒の一滴も体に入れたことがないのに、ふわふわと浮つく意識を何とか制御し、仕切り直して目的地へと向かう。
しばらくして繁華街に入ると、店前に立ち尽くしている大男を発見した。見るからにふらふらと酔っ払っているその様子を見て踵を返したくなるも、すぐにこちらに気づいて寄ってこられるともう逃げるわけにはいかなくなる。
「じんだ。ただいま〜」
「まだ家じゃないから……皆は?帰った?」
「おう、置いてかれた。ちゃんと帰れたかな」
素面の人間にとってはただただ酒臭い話を聞きながら、この状態でも人の心配をしているこの人間に更に溜息が落ちる。
「まあ聞けよー、今日も風間さんやばかったぞ」
「また?今度はどうしたの?」
「寝てたのに急に起きて、最後一個だけ残った唐揚げに求愛してた」
「はは、なにそれ」
「どんな夢見てたんだろうなあ」
その話のおかげで、寝てたのに起こされたとか、いい加減ひとりで帰ってこれるようになれだとか、言いたかった数々の言葉はするりと胃に落ちて消化されていった。風間さん様様である。今日は朝に家を出てからお互い別行動で、太刀川さんはそのまま飲み会に連れて行かれたので、今やっとこうして話せているのが少し嬉しかった。それなのに、もう歩くの疲れた、と言って先ほどの公園に入ってゆくその人を追いかけていると、やっぱりもう少しちゃんとして欲しいという思いが口から溢れそうになる。
「なあじん。砂遊び、懐かしいな」
「食べないでよ」
砂場の縁に座り込み穴を掘り出したのを見ながら、子供用に作られたその場にこの体格の男は全くもって似つかわしくなく、住民に通報されて警察に職質でもされたらどうしよう、と辺りを伺っていた。そんな心配をされているとは露知らず、じーん、と気の抜けた声を掛けてくるその酔っ払いの方を振り返ると、なにやら細かいものが視界一杯に舞う。
「はっぱカッター!」
青臭さと体についた草の欠片に、とても成人男性がしていいようなことではない技を披露されたのだとわかりしばらく何も言えなかった。はっはっは、と満足気に笑うその本人に、もう帰るよ、と声を掛けるも、その場から動く気配はない。
「立てない〜」
「……っもう、成人した男がふざけんな!」
この際ありったけの力を込めてその腕を引っ張るも、生身の自分ではこのやる気の無い脱力した大男の体はびくともしなかった。それどころか逆に掴んでいた腕を取られ、支点を失った体はバランスを崩し、そのまま二人とも砂場へと転がり込んだ。
「……もう最悪」
「ふはは。もう風呂入った?」
「当たり前じゃん、寝てたんだし」
「じゃあ帰ったらもう一回入ろうぜ、な?」
「……それが目的?」
「いいや、」
髪まで砂にまみれてもはや怒る気にもなれず、諦めてその場に寝転がったところに、火照った顔が近づく。唇が触れ、酒の匂いと砂混じりの舌が交錯する。こんなところで、と働く理性を触れ合う鼻の熱が押し留めていく。唇はすぐに離れたが、目の前にはいつも通りの自信に溢れる顔があった。
「てんしのキッス」
「…はあ?」
「こんらんするかと思って」
そう言ってばたん、と隣に大の字になって寝転ぶと、「このままここで寝たいなー」と猫のように伸びをしているこのマイペースな男に、言いようのない悔しさが募った。元々売られた喧嘩は買うタイプだ。そのまま仰向けの無防備な腹の上に跨ると、覆い被さるように顔を近づける。
「ねえ。『あくま』のほう、してあげようか」
「……ねむらせてくれるのか?」
髪についていた砂粒がぱら、とその顔に落ちていく。酔って赤ら顔をしていても表情は余裕を保っているが、その喉がごくりと鳴ったのを聞き逃さなかった。両の頬に手を添え、ゆっくりと唇を寄せていく。期待通り、という表情が目に入ったところで満足し、その油断しきった額に自分の額をぶつけた。誰もいない公園に、小さな鈍い音が響く。
「痛え!え、何?」
「寝たら置いてくからね」
そうして立ち上がると、砂を払ってさっさと歩き出す。後ろから、待てよじーん、とこちらまで気の抜ける声が聞こえてくるが、一向に構わず公園を出る。このまま明日の朝になって、このしょうもないやりとりを思い出したら、こっちは一滴も飲んでいないというのに頭が痛くなりそうだった。
そんな馬鹿げたことをしていて忘れていたが、ふと落ち着いてこの道を歩くと、夜の空気の凛とした温度に身が引き締まる。行きよりひとり分増えた足音を確認し、冷めてしまった風呂を沸かし直すため、足早に家路につくのだった。
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