残夏の候
携帯のアラームが、重い体を夢から現実の世界へ落としてゆく。深く寝られたのか、夢を見ていたのか、現実との境目を頭が行ったり来たりしている中、カーテンを開けようと伸ばしかけた腕を止める。外の世界はもう燦々と明るくなっている。未だ寝ている迅を起こさぬよう、光を取り込むのは後回しにしてゆっくりと寝室を出る。
リビングのカーテンを開けると、まだ朝も早いうちから太陽が本気を出していた。九を示している部屋のカレンダーをちらりと見やり、「まだまだ暑いな」とひとりごとを溢しても、寝室の方からは人が起きる気配などまったく流れて来ない。
静かな室内に音が欲しくて、テレビの電源を入れる。朝のこの時間帯はどこも情報番組で、毎日同じような内容が頭の中を右から左へ駆け抜けてゆく。唯一まともに目を向ける天気予報では、女性キャスターが柔かに今日は晴れのち曇り、ところにより雨でしょうと言っている。そのよくわからない天気を聞いても、どうしたらいいのかわからなかった。それを逐一気にして生活するのも面倒なので、今後一切この星の天気をどれか一つに絞って欲しいと思う。ああ、けれど、そうなるとこの女性は仕事が無くなってしまう、それは可哀想だ。そんなことを考えているだけで、貴重な朝の時間は刻一刻と過ぎてゆく。
キッチンに立ちパンを三枚トースターに入れる。最初はこの焼き時間の加減がわからず、全然焼き色がつかなくて何度もツマミを回し、結局真っ黒になったパンを削って食べたりしたこともあった。さすがに今ではもう枚数にも左右されず、毎回完璧なキツネ色に焼けるようになった。朝あまり食べない向こうのぶんを一枚、自分用に二枚焼くので、前の二枚ずつしか焼けないトースターから今の大きいものに変えたときは、やっと焼き立てのパンをふたりで同時に食べられるようになり少し嬉しくなったものだった。
焼けたパンをコーヒーで流し込む。一枚は皿に取っておく。身支度を整え、そういえば今日は任務の後忍田さんに呼ばれていたので帰りが遅くなりそうだ、と考えつつ思考はもう今日の夕飯のほうへ傾いていた。今日はまた昨日の余りのカレーだろうか。気分を変えてカレーうどんでもいいな。それとも昼に全部食べられてしまうかもしれない。あいつ意外と昼と夜は食うからなあ。
「留守番よろしく」
聞こえていなくてもいいや、とひとりごとのように呟いて部屋を出る。マンションを出たところで、ついいつもの癖で自室のベランダの方を見上げる。そこには誰の姿も無い。初めてふたりでここに住み始めた頃から、こちらが任務で向こうが非番の日はいつもわざわざベランダまで出て、ひらりと手を振りこちらを見送ってくれていた。それで俺が調子に乗って、投げキッスなんてものをしてやると、澄んだ声でけらけらと笑っていたものだ。
空には雲一つなく、すでに強い日差しが照りつけていた。その空にあの笑い声が重なる。そのどこまでも吹いていきそうな清らかな声に、瞳からではなく心臓からなにかしらの液体が溢れて、体はゲリラ豪雨の後のようにびしょ濡れになった。天気予報は確かに当たっていた。
部屋のカレンダーは去年の九月で止まっている。これをめくらないでいることが、懺悔の香に囚われた俺からお前へしてやれる唯一のことなのだ。
朝のニュースでは今日から九月に入ったとも言っていた。もうすぐお前が死んで一年になろうとしている。
*
ベランダに出ると、朝だというのにすでに本気を出し始めた太陽の光が目を焼くようで、思わず目を閉じる。部屋の中からは、女性の声が本日の天気を知らせている。そんな情報に頼らなくても、こうやって空を見ていれば全部わかるのにと思う。こんなに雲ひとつなく晴れているのに、雨なんて降るわけがない。
街を見下ろすと、今日もなんの気ない顔で歩く人たちが目に入る。取り戻した平和もいつまで続くかはわからない。それでもこうして晴天の中、外を歩く子供や大人、老人たちをここから見下ろしていると、この街も生きて、循環を続けているのが伝わってくる。
前はよくここで、夕日に包まれてゆくこの景色をふたりで見ていた。街の人の未来を見るためにベランダに出ると、必ず後からやって来て邪魔をされた。俺の未来は?と毎回ふざけて聞いてくるその人のために、いくつも回答を用意しておくのが大変だった。これから続いてゆくその道を見るのがおれは怖かったからだ。いつも目を逸らして、作り物の将来の話をする自分を見て、よく楽しそうに笑っていた。
玄関が閉まる音がする。しばらくすると現れる、地上に降りた瞳と視線が交差する。あちらが任務に出掛けるときも夕刻のふたりの時間も、ここで過ごすのはわりと好きだった。見たくもないものに埋もれてしまいそうになっても、すぐにそこから掬い上げてくれた。こちらを見上げるその顔を笑いながら見送るときも、月並みだけれど、ああ幸せだなあ、なんて思ってしまった。それが明日も明後日も続いていくのだと、「現在」に頼り切った考えに甘えてしまっていた。
今になって、どうしても見たいものがある。地獄のような副作用を持つこの脳を今まで呪い続けてきたけれど、あと一度きりでいいから使わせて欲しいと都合の良い願いを毎日空に送っている。今度こそ、ちゃんと逸らさずにそれを見るから。ここから離れられないおれが言うのも可笑しいけど、いい加減こっちを見るのはやめて自分の道を歩いてよ。あんたにはこの幸せを取り戻した街で、幸せになって欲しいんだよ。
空はこんなにも晴れているのに、頬に雨が当たった気がした。天気予報も馬鹿にできないな、と空を見るのをやめてその場に座り込んだ。
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