寒露に咲く
十月。朝晩肌寒い日が増えてくる時期になった。朝のニュース番組では二十四節気の話が出ていて、過ごしやすいこの季節も、すぐに冬に変わってしまうのだろうなという物寂しい気分にさせる。その言葉がなんとなく一日じゅう頭に残っていた迅は、ふいにネットを開いて、最大手の百科事典にその単語を打ち込む。そこには[雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころ]との記載があり、どれもイメージは何となく湧くものの、実際その姿をあまり意識して目にしないものばかりで、ぼうっと頭の中で過ぎゆく季節に思いを馳せていた。
ガチャリ。静かな室内に、玄関から鍵の回る音が響く。その音にどうしようもなく胸が弾んでしまうのを、聞き間違えかもしれない、という自分への戒めで抑え込む。しかし少し遅れて扉の閉まる音、そして同居人の「ただいま」という待ち侘びた声が聞こえてくる。外が暗くなるのもだんだんと早まってきていて、ひとりで部屋に居ると、夕刻頃から門前雀羅を張るような静寂に耐えられなくなりそうになることも多かった。そんな孤独に包まれた世界から、その音たちは毎回迅を拾い上げてくれた。
「おかえり、太刀川さん」
顔に嬉しさが滲み出てしまわないように最大限努めている迅を見て太刀川はくすりと笑うと、掌ではなく手の甲をぽん、と迅の頭の上に置く。
「今手洗ってくるから、待ってて」
そうして洗面所に向かう太刀川の背中を見送ると、迅はテレビの電源を入れる。そして手を洗いうがいを済ませた太刀川がリビングに戻ってみると、たいして面白くもなさそうな顔でテレビを眺めながら、それでも最初にいた場所から一歩も動かずに待っている迅のその姿に、利口な犬みたいだな、という感想が浮かび、太刀川の口からまた笑いが漏れる。わざわざこんな静かな場所にいなくても、テレビなり音楽なりつけていればいいと思うのに、迅は必ず太刀川が帰ってから電源を入れるのだった。ひとりで見ていても楽しくないのだろうか、いつも帰りが遅い太刀川は夜まで相手の帰りを待ったことなどなかったので、そこが不思議でならなかった。
ソファには座らず、背もたれにして床に座り込む迅の真上に陣取るように、太刀川はソファに腰を沈める。太刀川の両足の間に挟まるような体勢となった迅が、頭を上に向け太刀川の顔を見上げる。
「お風呂、沸いてるけど入る?」
その顔を見て、両手で迅の頭を挟んで固定すると、ずい、と顔を近づける太刀川に迅は思わず目を閉じた。しかし唇が触れるわけでもなく、おずおずと目を開けてみると、睫毛も触れそうな距離にその顔があった。
「たちかわさん、近いです……」
「おまえ、あんまりかわいいことすんなよ」
「いやいや、なにもかわいくないって」
「風呂、一緒に入ろうって誘い?」
「ち、違うし」
「ふーん……」
「お、おれ、先入るから」
無防備に晒された顎から首筋にかけてのラインを、指の腹で猫をあやすように撫でられ、そのゾクリとする感覚に迅は逃げるようにその場を立った。服を脱いで浴室に入ると、いつもとは違い湯船からの蒸気のおかげで全身が暖かさに包まれる。普段はお互いシャワーで簡単に済ませてしまっていたが、ここ最近の冷えについに湯を張ろうと決意し、そのために日中から風呂掃除に励んだのだ。それもすべて、太刀川に喜んでもらうために。その場所に勢いとはいえ一番に駆け込んでしまい、体を洗う最中もずっと自己嫌悪と後悔に襲われていた。湯船に浸からずに出ようかとも思ったが、せっかく溜めたお湯なのだから少しくらいは入りたいという気持ちもあり、片足をそろりと水面につけた、その時だった。
「よう、いいお湯?」
「っえ、」
入ってくる人間に心当たりはただひとりしかいないのだけれど、浴室の扉を勢いよく開けて入ってきた裸の太刀川を見て狼狽えてしまい、迅はそのまま勢いよく湯船に飛び込んだ。
「お、今日風呂沸かしてくれたのか。あったかいわけだ」
「ちょっと、なんで急に入って……」
「え?先入ってるねって言われたから、後から来てやったんだけど」
「…………」
なにもおかしいことはない、とでも言うように素の表情で言い放ちそのまま体を洗い始める太刀川に、迅はもはやなにも言い返せなかった。湯船で呆然としている迅を他所目にさっと体を流し、いーれて、と無邪気な顔で迅の真正面に陣取って湯に浸かる。大の男ふたりが入るには手狭なその箱から、収まりきらなかった水がざぶざぶと流れ出ていった。
「はあ……久しぶりに浸かると気持ちいいな」
「おじさん臭いからやめてくれる?」
ばしゃりと湯船の湯で顔を軽く流す太刀川を軽く牽制しつつ、迅はまじまじとその顔を見つめる。
「……そっちでいいんだね」
「なにが?」
「いや、くっついてくるかと思ってた……後ろに」
そう言ったはいいものの、慣れない場所で視線がばちりと交差しきまりが悪くなったのか、自分の背後を覗き込むように肩の後ろに視線を落とした迅に、太刀川は途端に嬉しそうな顔をする。
「お、後ろからハグのが良かった?早く言えよ、はい」
おいで、と言わんばかりに両手を広げる太刀川を、そうじゃない、と跳ね除け横を向く迅に、素直じゃないんだから、と野次が飛ぶ。
「こっちのほうが顔、見えるしいいだろ」
「ほんっと、そういう口は達者だよね」
「それに、」
向かい合う体勢で、足の行き所がなく立てていた迅の片膝に手をつき、太刀川が身を乗り出したと思った次の瞬間には迅は唇を塞がれていた。少し濡れた長めの前髪が額に張り付く感覚と、立ち昇る湯気に包まれ、頭が溶けていってしまいそうになる。
「……こういうこともし易いし」
「……っ、」
「お、迅が咲いた」
唇が離れ、真っ赤になった顔を揶揄われる。そこに、やられっぱなしで気に食わない、という迅の負けん気がむくりと顔を出す。今度は太刀川の立てた膝に掴まると、くるりと身を回し両足の間に捻じ入った。その衝撃でまた湯船から湯が減っていく。背中を預け、顔だけ後ろを向いて、ほぼ唇をぶつけるように太刀川にキスを見舞った。最中は目を閉じていてわからなかったけれど、唇を離し目を開けると、ぽかんと呆けた太刀川の顔が目に入る。
「この体勢だって、できるから」
それだけ言ってそのまま水面に潜ってしまいそうなほど顔を伏せる迅の体が、後ろから伸びた両腕で思い切り抱きしめられる。
「おまえ、反則」
「ちょ、たちかわさ……苦しい」
「だめ、離さん」
「ほんと、無理……逆上せる」
いつもよりも力無さげなその言葉に、太刀川が覗き込むと先程よりも三割増しで赤い顔をする迅が、頭をくたりと後ろに預けるところだった。慌てた太刀川に迅はすぐに湯船から出され、温くしたシャワーを浴びせられる。太刀川が浴室に入ってきたときからずっと湯船に浸かりっぱなしで、しかも余計に体温の上がることをしていたので無理もなかった。少し顔色が戻ってきた迅に、ほぼ半分ほどの湯量になってしまった湯船の中から、太刀川が声を掛ける。
「大丈夫か?」
「うん、だいぶいいよ。ごめん。おれ、もう上がるね」
「おう、気をつけろよ」
「先に、寝室行ってるから」
「おう、?」
「……今度は、ちゃんと待ってるから」
そして、また紅潮した顔を携えて足早に浴室から出て行く迅を、またしても呆けた顔となった太刀川は黙って見送る。その日咲いた花は、陰の寒気と共に、この時期でしか味わえない暖を連れてきて、秋の訪れをそれぞれの心に植え付けた。ふたりで過ごす初めての秋に、こんななんてことない出来事でも、忘れ難い色を差し込んでいった。
そして最後、ひとり湯船に残された太刀川はぽつりと「寒くなって良かったな……」と呟くのだった。
ガチャリ。静かな室内に、玄関から鍵の回る音が響く。その音にどうしようもなく胸が弾んでしまうのを、聞き間違えかもしれない、という自分への戒めで抑え込む。しかし少し遅れて扉の閉まる音、そして同居人の「ただいま」という待ち侘びた声が聞こえてくる。外が暗くなるのもだんだんと早まってきていて、ひとりで部屋に居ると、夕刻頃から門前雀羅を張るような静寂に耐えられなくなりそうになることも多かった。そんな孤独に包まれた世界から、その音たちは毎回迅を拾い上げてくれた。
「おかえり、太刀川さん」
顔に嬉しさが滲み出てしまわないように最大限努めている迅を見て太刀川はくすりと笑うと、掌ではなく手の甲をぽん、と迅の頭の上に置く。
「今手洗ってくるから、待ってて」
そうして洗面所に向かう太刀川の背中を見送ると、迅はテレビの電源を入れる。そして手を洗いうがいを済ませた太刀川がリビングに戻ってみると、たいして面白くもなさそうな顔でテレビを眺めながら、それでも最初にいた場所から一歩も動かずに待っている迅のその姿に、利口な犬みたいだな、という感想が浮かび、太刀川の口からまた笑いが漏れる。わざわざこんな静かな場所にいなくても、テレビなり音楽なりつけていればいいと思うのに、迅は必ず太刀川が帰ってから電源を入れるのだった。ひとりで見ていても楽しくないのだろうか、いつも帰りが遅い太刀川は夜まで相手の帰りを待ったことなどなかったので、そこが不思議でならなかった。
ソファには座らず、背もたれにして床に座り込む迅の真上に陣取るように、太刀川はソファに腰を沈める。太刀川の両足の間に挟まるような体勢となった迅が、頭を上に向け太刀川の顔を見上げる。
「お風呂、沸いてるけど入る?」
その顔を見て、両手で迅の頭を挟んで固定すると、ずい、と顔を近づける太刀川に迅は思わず目を閉じた。しかし唇が触れるわけでもなく、おずおずと目を開けてみると、睫毛も触れそうな距離にその顔があった。
「たちかわさん、近いです……」
「おまえ、あんまりかわいいことすんなよ」
「いやいや、なにもかわいくないって」
「風呂、一緒に入ろうって誘い?」
「ち、違うし」
「ふーん……」
「お、おれ、先入るから」
無防備に晒された顎から首筋にかけてのラインを、指の腹で猫をあやすように撫でられ、そのゾクリとする感覚に迅は逃げるようにその場を立った。服を脱いで浴室に入ると、いつもとは違い湯船からの蒸気のおかげで全身が暖かさに包まれる。普段はお互いシャワーで簡単に済ませてしまっていたが、ここ最近の冷えについに湯を張ろうと決意し、そのために日中から風呂掃除に励んだのだ。それもすべて、太刀川に喜んでもらうために。その場所に勢いとはいえ一番に駆け込んでしまい、体を洗う最中もずっと自己嫌悪と後悔に襲われていた。湯船に浸からずに出ようかとも思ったが、せっかく溜めたお湯なのだから少しくらいは入りたいという気持ちもあり、片足をそろりと水面につけた、その時だった。
「よう、いいお湯?」
「っえ、」
入ってくる人間に心当たりはただひとりしかいないのだけれど、浴室の扉を勢いよく開けて入ってきた裸の太刀川を見て狼狽えてしまい、迅はそのまま勢いよく湯船に飛び込んだ。
「お、今日風呂沸かしてくれたのか。あったかいわけだ」
「ちょっと、なんで急に入って……」
「え?先入ってるねって言われたから、後から来てやったんだけど」
「…………」
なにもおかしいことはない、とでも言うように素の表情で言い放ちそのまま体を洗い始める太刀川に、迅はもはやなにも言い返せなかった。湯船で呆然としている迅を他所目にさっと体を流し、いーれて、と無邪気な顔で迅の真正面に陣取って湯に浸かる。大の男ふたりが入るには手狭なその箱から、収まりきらなかった水がざぶざぶと流れ出ていった。
「はあ……久しぶりに浸かると気持ちいいな」
「おじさん臭いからやめてくれる?」
ばしゃりと湯船の湯で顔を軽く流す太刀川を軽く牽制しつつ、迅はまじまじとその顔を見つめる。
「……そっちでいいんだね」
「なにが?」
「いや、くっついてくるかと思ってた……後ろに」
そう言ったはいいものの、慣れない場所で視線がばちりと交差しきまりが悪くなったのか、自分の背後を覗き込むように肩の後ろに視線を落とした迅に、太刀川は途端に嬉しそうな顔をする。
「お、後ろからハグのが良かった?早く言えよ、はい」
おいで、と言わんばかりに両手を広げる太刀川を、そうじゃない、と跳ね除け横を向く迅に、素直じゃないんだから、と野次が飛ぶ。
「こっちのほうが顔、見えるしいいだろ」
「ほんっと、そういう口は達者だよね」
「それに、」
向かい合う体勢で、足の行き所がなく立てていた迅の片膝に手をつき、太刀川が身を乗り出したと思った次の瞬間には迅は唇を塞がれていた。少し濡れた長めの前髪が額に張り付く感覚と、立ち昇る湯気に包まれ、頭が溶けていってしまいそうになる。
「……こういうこともし易いし」
「……っ、」
「お、迅が咲いた」
唇が離れ、真っ赤になった顔を揶揄われる。そこに、やられっぱなしで気に食わない、という迅の負けん気がむくりと顔を出す。今度は太刀川の立てた膝に掴まると、くるりと身を回し両足の間に捻じ入った。その衝撃でまた湯船から湯が減っていく。背中を預け、顔だけ後ろを向いて、ほぼ唇をぶつけるように太刀川にキスを見舞った。最中は目を閉じていてわからなかったけれど、唇を離し目を開けると、ぽかんと呆けた太刀川の顔が目に入る。
「この体勢だって、できるから」
それだけ言ってそのまま水面に潜ってしまいそうなほど顔を伏せる迅の体が、後ろから伸びた両腕で思い切り抱きしめられる。
「おまえ、反則」
「ちょ、たちかわさ……苦しい」
「だめ、離さん」
「ほんと、無理……逆上せる」
いつもよりも力無さげなその言葉に、太刀川が覗き込むと先程よりも三割増しで赤い顔をする迅が、頭をくたりと後ろに預けるところだった。慌てた太刀川に迅はすぐに湯船から出され、温くしたシャワーを浴びせられる。太刀川が浴室に入ってきたときからずっと湯船に浸かりっぱなしで、しかも余計に体温の上がることをしていたので無理もなかった。少し顔色が戻ってきた迅に、ほぼ半分ほどの湯量になってしまった湯船の中から、太刀川が声を掛ける。
「大丈夫か?」
「うん、だいぶいいよ。ごめん。おれ、もう上がるね」
「おう、気をつけろよ」
「先に、寝室行ってるから」
「おう、?」
「……今度は、ちゃんと待ってるから」
そして、また紅潮した顔を携えて足早に浴室から出て行く迅を、またしても呆けた顔となった太刀川は黙って見送る。その日咲いた花は、陰の寒気と共に、この時期でしか味わえない暖を連れてきて、秋の訪れをそれぞれの心に植え付けた。ふたりで過ごす初めての秋に、こんななんてことない出来事でも、忘れ難い色を差し込んでいった。
そして最後、ひとり湯船に残された太刀川はぽつりと「寒くなって良かったな……」と呟くのだった。
1/1ページ