「奏多……」


もう、諦めようか。


「井宿っ……」


そう呼ばれるのも……もう慣れたのだ。


「“オイラ”は……ここにいるのだ。奏多」
「ッ………」


君が……これだけで喜んでくれるのなら……俺は構わない……。











体をひねって奏多を前に抱き直す。
ぎゅうっと抱きついてくる奏多の髪を梳いた。


「どうしたのだ？珍しい……」
「だ、だって……い、今……」
「オイラ、と言ったから？」


胸のところで小さく頭が動いた。


「この部屋に入った途端、懐かしいのと、もどかしいのと、嬉しいのと、悲しいのと……何だかとても不思議な気分になったのだ」
「……混乱、させてる？」
「いいや、大丈夫。ここで何をしたのかもちゃんと覚えているのだ」
「………そう………」


また、スリ……と頬をピッタリ寄せてきた。
いじらしいことをしてくる。
何度か髪を梳いてやると、奏多は落ち着いてきたように力を抜いた。


「ごめんなさい。私……少しだけ怖かったの」
「怖い？……なぜ？」


これには奏多は答えなかった。
静かに体を離すと、奏多は下を向きながら目尻をぬぐった。


泣いて、いたのか……。


懐かしくて？嬉しくて？井宿だと嬉しいのか？
聞けばよかったのかもしれない。


だけどこの時の俺は、聞くことが出来なかった。


「さあ、ご飯の準備するわね！そこに座ってて！あ、上着はこっちに掛けておくわね」


俺の上着をいそいそと脱がしにかかる。
少しだけ身をかがめて、奏多が脱がせやすいように体を傾けた。


奏多がハンガーにかけている間に、シャツの袖を折り曲げながら捲った。


「オイラもやるのだ」
「えっ？ああ、いいのいいの！寛いでてよ！」


……と言われても。
さすがにほぼ初めてだというところで寛げるほど、神経は図太くない。


でも、奏多は決して許してはくれなくて。
仕方なしにリビングにある二人掛けソファに腰を下ろした。


トントントン、とリズムのいい音が聞こえ始める。
ああ、そうか。奏多の手料理を食べるのも、初めてなんだ。


“井宿”では食べていたことを思い出した。


そうだ。
井宿は奏多と、暮らしていた時だってあったんだ。


「……………」


………嫌な気分だ。
自分が自分に、嫉妬しているのか。
情けない。


ふと、テレビの向こうの部屋が気になった。
あそこは……奏多の寝室だ。


そうだ。
あの時は“翼宿”と一緒に入ったんだ。
現代に連れ戻される奏多を引き止めようと必死にしがみついて、翼宿とこの世界に来た。


どんどん溢れてくる。
夢でみた映像が、今では鮮明に思い出される。


それもそうだ。
実際に、ここでしてきたことなのだから。


気がついた時には、立ち上がって寝室へのドアを開けていた。
勝手にはまずい。そう止める自分は、あっという間にどこかに消えた。


身に覚えのある景色。
初めて入るのに、初めてではない。
むしろ……記憶が戻ってきた。感情とともに。


あそこだ。
あのクローゼットの上から、奏多は引っ張り出してきたんだ。
数冊の本が入った箱を。


まだ、あるのだろうか。
あれは……あれは………








「井宿？」







ビク、と肩がはねた。
………“気”が、読めなかった……。


いや、待て。


“気”だと？
俺は何を言ってるんだ。
もう、“気”なんて読めるはずがないのに。


「何を……しているの？」
「……あ、いや……すまないのだ。勝手に入ってしまって……」


言葉を紡ぐことがとても難しかった。
何を言われても怒られても仕方の無いことをしていると、自覚が襲った。


それなのに奏多はただやんわりと笑って、俺の背中に手を添わせてきた。


「いいのよ。明日は土曜日だし、井宿もお休みでしょ？泊まってく？」


………今度は何を言い出した！？


「っ………奏多……？」
「ふふっ、すごい驚いてる顔ね」
「それは君が……！」


思わず顔が熱くなるのは仕方の無いことだ。
なんせ……君をずっと求め続けているのには違わないのだから。


「どちらでも構わないわよ。とりあえず……そうね、ご飯にしましょうか」


ああ……こういう時、君が年上の女性だと思い知る。
その余裕……俺は君の余裕に翻弄されてばかりだ。