短編
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約束を破られた。そう認識した時に湧き出た感情は、失望や怒りよりも落胆が大きかった。
黒尾ってしっかりしてるように見えて、抜けてる所があるんだな。それか、忘れられるほど私の存在が小さいか。後者の割合が大きいかも、と一人納得してすっかり暗くなった空を見上げる。
「暗いの苦手なんだけどなー……」
――少し遅くなるかもしれないけど、たまには一緒に帰りたい……って思ったん、デス、けど。どうですかね。
いつもの余裕ある黒尾クンはなりをひそめ、ほんのり頬を赤く染めて大きな体を小さくして、提案なんだかお願いなんだかしてきたのが可愛く見えて。夜道が怖いからと部活でも居残りはしない主義の私が頷いたのは他でもない黒尾のためだというのに。美術部らしく校内で絵具を弄っていたが人気のなさから校外へ出て、校門から出て行く生徒でも見て気を紛らわそうと過ごしていたら、なんということでしょう。約束したトサカ頭の人が同じジャージを着た方々と出て行くじゃありませんか。
すっぽかされた?
忘れられた?
目の前の事が信じられなくて瞬きを数回。そして落胆。
その場でじっとしていても仕方がないので、スマホにイヤホンを挿してお気に入りの音楽をかける。これで夜道も怖くない、はず。
私だって、彼氏と手を繋いで帰るという恋人定番の行為をしてみたかったんだけどなあ。
黒尾を知ったのは、二年生で同じクラスになった時。これまで出会った人の中で一番の背の高さを誇る彼が最初は怖かったが、席に座ってくれればそれも和らぎ、きっかけは覚えていないが会話するうちに面白い人だと分かって仲良くなった。
三年生でも同じクラスになり、席が近かったのでよろしくと挨拶をして、告白されたのが五月頃。ただのクラスメイトとしか思っていなかったから、なんでまた私なんか、と理由を尋ねたら「冷静なんだかボケてんだか分かんないとこが……かわいい」と、おそらく褒められた。
全国を目指すバレー部、それも主将の黒尾は忙しい。デートらしい事はあまり出来ないがメールや電話をしたり、学校でも休み時間に話したりとそれなりに関係を築いてきた。黒尾がモテる事は知っていたけど、名前も知らない女の子に悪口を言われるほど「彼女」という存在の大きさは考えもしていなかった。覚悟のない人間への言葉のパンチは威力があり、受けた傷の治療法も分からない。黒尾に言っていいものなんだろうか。でも言われても困るのでは? 何て返してもらったら私は納得するんだろう。モテてごめん、とか? 私はそうだよ、と答えて終わりだ。
モテるといえば芸能人。そんな人の彼女さんや彼氏さんはどうしているんだろう。黒尾は芸能人じゃないはずなんだけど。
これまでの事を振り返りながら登校すると、後から朝練終わりの黒尾が教室に入ってきた。何やら慌てた様子でこちらの席までやって来る。
「おはよう黒尾、慌ててどうし、」
「昨日! ごめん!!」
どうした、と聞く前に珍しく息を切らして深く頭を下げる黒尾に首を傾げる。昨日。ごめん。昨日といえば約束をしていたが、いつの間にかなしになっていて落ち込んだなぁ。ごめんとは、何を指しているのか。
「そういえば昨日の約束、いつなくなったの? 聞き逃してたみたいでさ、馬鹿みたいに暗くなるまで待っちゃったよ。あはは」
「いや、なくなってなくて! 俺が……忘れてて……」
曰く、後輩への指導が熱くなり約束を忘れ、今朝になって先に切り上げていた海君に彼女とはどうだったのか聞かれて思い出したという。なるほどなぁ、と無意識に「あー……」と声を漏らすと黒尾はもう一度頭を下げた。
「本当にごめん! 帰り、怖かったよな……」
いつだったか暗いのが苦手という話をしたのを覚えているのか、苦い顔をする黒尾に苦笑する。
「大丈夫、大丈夫。大抵のことはなんとかなるもんだよ」
「海みたいなこと言う……じゃなくて。謝るしかできないんだけど、ごめん……反省してる」
「いいよ」
いつまでも黒尾の苦しそうな顔を見たくなくて、もういいよと肩を叩く。黒尾はまだ思うところがあるのか唇を噛んでいたが、予鈴が鳴ったのもあり自分の席へ戻って行った。
椅子に座り直し、ぼんやりと考える。
忘れられただけ、か。だけ、というのもおかしな話だが、そうなんだ、という感想を抱いている。黒尾は軽そうに見えて誠実な人という印象があるから、そういう事もあるんだなぁという驚きもある。バレー、頑張ってるし。今年こそ全国、ゴミ捨て場の決戦はそこで。でも経過にすぎず目指すは勿論優勝。それを聞いて、頑張ってね、応援してる、と言ったのは私だ。だからあまり責められない。
あれ。違う理由だったら、責めてたのかな。
ぼうっとしている間にも時間は過ぎて、授業は進むし昼休みもやってくる。受験生だというのに勉強に身が入らないのはまずい、と頭では分かっているのだが、なんだか集中出来ない。
「ナマエ」
名前を呼ばれて顔を上げると、捨てられた犬のような顔をした黒尾に見下ろされていた。
「えっ、どどうしたの、黒尾!?」
「…………あの。お話し、シマセンカ」
飯、食いがてら。と弁当を持ち上げたのを見て、頷く。友達の方に目をやると手を振られたので、お礼を込めて手を振る。また一緒に食べてね。
二人で教室を出て、校舎裏の木陰で弁当を広げる。かつて色んな場所へ行ったがそれなりに人が居て、静かなのはここぐらいだな、とここが定位置になった。
「改めて、昨日は本当にごめん」
こちらが申し訳なくなるぐらい落ち込んだ様子の黒尾に、いいよ、という以外言葉が見つからなかった。それを聞いた黒尾は眉を寄せて視線を落とす。
「……ナマエにとって、俺はどうでもいいってこと?」
「そんなこと言ってない」
「けどさ、いまだに名前呼んでくれねーし……」
黒尾は私のことを名前で呼ぶ。これからは恋人だ、となった時に名前で呼びたいと言われ、了承したのだが未だにむず痒い心地になる。同じ理由で黒尾のことも下の名前で呼べていない。
だけど、だからって、どうでもいいって話にならないだろう。
「まだ気恥ずかしくて呼べないだけで……」
「付き合ってもう四ヶ月だぞ? そろそろ名前くらい呼べるんじゃねえの」
なんで怒ってるの。さっきまで落ち込んでたじゃん。
鉄朗。
心の中では呼べるようになった、けど。どうしても音にならない。
閉じてしまった口に戸惑っていると、黒尾がため息をついた。
「……もういいよ。お前、俺のこと好きじゃねーもんな」
「……は?」
「好きって言ってくれたことねーじゃん」
「好き」
「……えっ」
「好き」
言えるよ。何度でも。好きだもん。
「好きだよ。黒尾のこと好きだから、名前呼ぶ練習だってしてる、だけどいざ目の前にすると声出ないんだよ、なんで?」
「え、っと、なんで……だろう、な……?」
「黒尾は呼べるじゃん、私のこと、名前で! なんで?」
「な、なんでって言われても……」
目頭が熱くなって、涙が溢れそうになる。なんで泣きそうなんだろう、不安でいっぱいなんだろう。
黒尾が怒ってるから、付き合ってるのに好き合ってないみたいに言うから、このまま別れるんじゃないかって、怖いんだ。
別れても仕方ないって、私じゃ釣り合ってないって思うのに。嫌なんだ、私。
怒った顔から戸惑ったような顔になった黒尾は、どうしたらいいのか迷うみたいに手をうろつかせている。
「黒尾だって、最初の一回しか好きって言ってくれてない。だから私、タイミング分からなくなっちゃって……ねえ、好きっていつ言っていいの? 友達に聞いたら惚気るなって言われるし、男友達に聞くのは恥ずかしいし」
「それは……うん……」
「黒尾に聞けばよかった? どの話を、どこまで言っていいの? 黒尾がモテるの困る、かもって、言ったって……どうかしようって思う……?」
「え、んん……?」
「黒尾は私のよく分かんないとこが好きって言ってくれたけどさ、私は今落ち込んでたのに急に怒り出した黒尾のこと、よく分かんなくて、怖いよ。黒尾なら全部好きとも言えない、だから……黒尾が別れたいって言うなら、そうするしか」
「ま、まま待て、待って、落ち着いて!」
涙を堪えるあまり早口になり、息が荒くなる。一生懸命落ち着こうとして、でも溢れそうで、何度も瞬きをして紛らわそうとする。頭を振って、空を仰いで。
結局、泣いた。
「……ナマエ」
どうして、そんな優しい声で呼べるの。どうして私は、名前で呼ぶだけのことが、できないの。
「ごめんな、ナマエの気持ち、何も知らなかった。悩んでるのも気づかなかった」
俯いて顔を覆う私の背中を、大きな手が弱々しく摩る。気のせいか、若干声も手も震えているように感じる。
「俺ばっかり好きなのかもって……いじけただけで、怒ってない。別れたくない」
「……ほんとに?」
「うん。……ナマエは、嫌になった?」
勢いよく首を振ると、そっか、と少しだけ笑う声がした。
「俺達、もっと話し合った方がいいな。これからは何でも言ってほしい、俺も不安に思ったらちゃんと言うから」
「……たとえば? 言いたいこと、言ってよ」
鼻を啜り、ハンカチを取り出して顔を拭く。そうしてやっと顔を上げられた。
黒尾はもう本当に怒っていないみたいで、優しい顔をしている。いつもの、二人きりでいる時の顔。
でもなんだか、寂しそうだ。
「……好きって、たくさん言ってほしい」
「好き。大好き。たくさんって、いつ言っていいの?」
「言いたい時、いつでも」
「寝る前の電話、おやすみだけじゃなくて好きだよって言いたいし、言ってほしい」
「わ、えっ? 言ってくれんの? 俺も言いたかったんだよな」
「嬉しい。好き」
「っはは、俺も。嬉しい。好き」
「他には?」
「……いや、大丈夫」
「ちゃんと言うって言った」
目を泳がせる黒尾を許してはならないと強く見やると、観念したように頭をかく。
「……名前で呼んでほしい」
「黒尾てつ、て、てつ、」
「……うん、これは追々でいいよ」
「てつ、てつ……」
てつろう。てつろう。
じっと待つその人の名前を、早く呼んであげたいのに、うまく言えない。
「……う〜っ、なんでぇ……? てつ、呼べない……てつ、てつ、ろ」
「あっ」
「てつ、ろー! てつろう! てつろう!!」
鉄朗。
「ん!」
満面の笑みで返事をしてくれた鉄朗を見て、「好き」咄嗟に言うくらい、好きで溢れた。
「言えたー! やったー!!」
「ははは! 喜びすぎ! 嬉しすぎ!!」
「はあー……やっと呼べた……」
安堵からまた涙が滲んで、無意識に強く握りしめていたハンカチで拭う。鉄朗も目尻を指先で拭いていて、泣いたのかな、なんて思う。
「ナマエは、不安なこととか俺に言いたいこと、あるか?」
「……昨日のこと、いいよって言ったけど、よくないかも……」
「本当にごめん……」
「責めたいんじゃないし、バレーも応援してるけど、モヤモヤした……」
「責めていい。むしろ責めてくれないから、どうでもいいのかなって不安になった」
「……暗いの苦手なの知ってるでしょ。それに、手繋いで帰れるって期待してたから、ショックだった」
「……ごめん、こんなこと今言うべきじゃないんだろうけど、期待してくれてたのめっちゃ嬉しい。今度は手繋いで帰ろうな」
こくり、頷いた時に弁当箱が視界に入り、そういえばまだ途中だったと再び手をつける。鉄朗も「そうだった」思い出したように食べ始めた。
「他にも言いたいこと、あるんじゃないか?」
「なんだっけ……忘れた」
泣いたら少しスッキリしたし、今はお腹が空いて何を悩んでいたのか忘れてしまった。
けれど鉄朗は覚えていたようで、食べているのとは別で言いにくそうに口をもごつかせている。
「俺がモテて困る、みたいなこと言ってたような……」
「ああ、うん。鉄朗のこと好きな子達が鉄朗に言い寄るのも私の悪口言うのも、いい気分はしないんだけど……モテるのやめてって言ってやめれるものじゃないだろうし」
「……待って。誰に? 詳しく教えてくれる?」
「……鉄朗、怒ってるのか笑ってるのか分かんない顔してるよ……」
「あ、怖かった? ごめんな? けどナマエに対してじゃねえから。信じて」
「う、うん……」
私に怒ってるわけじゃないらしい。それなら、いいんだけど……。
昼休みに話し合った日から、鉄朗は休み時間になると私の席まで来るようになった。これまで教室ではクラスメイトとほぼ変わらない距離感だったのに。
友達がそんな鉄朗を見て訝しむ目つきを隠さずに言う。
「今まで友達と変わらない感じだったくせに、なに? イチャつくならよそでやってくれる?」
「そばにいるだけでイチャついてねーだろ。俺はもっと見せつけてもいいんだけど?」
後ろから抱き込むように腕が回り、慣れない距離と体温に身を縮こまらせる。
「は、恥ずかしい……!」
「ほんっと俺の彼女かわいい。なー?」
最後のそれは誰に向けて言ったのか。呆れたようにため息をついたから、友達かな。
「な、ナマエ。名前呼んでよ」
「鉄朗?」
「もっかい」
「鉄朗」
へへ、と嬉しそうな声が上から降ってきて、私まで嬉しくなる。やっと呼べるようになって、これから何度でも呼べる。
つられて笑うと、少し強めに頭を撫でられた。恥ずかしい、けど嬉しい。スキンシップって、こんなに心が満たされるものなのか。
大きなため息をついたのは目の前の友達だった。
「ご馳走様なんですけど」
「俺はまだでーす」
「勝手にやってろ」
「……アンタ、嫌ならちゃんと言いなよ」
友達は怒った口調のわりに、優しい手つきで頭を撫でてから離れて行った。惚気は許してくれないけど、優しい子だ。
「……あいつは味方だな」
「そうだね……?」
あの友達に嫌な事を言われたとは思っていないし鉄朗に言ってもいないと思うのだけど、何か気になる事があったのだろうか。急なスキンシップといい不可解な行動に疑問を抱いて鉄朗を見上げると、目が合って不敵に笑った。対戦相手に挨拶する時のような食えない笑みとは少し違うが、似た雰囲気を感じる。
訳が分からないまま再度頭を撫でられた。
「……嬉しいけど、教室はちょっと嫌かも」
「じゃあ、もうちょっとだけ我慢して」
「そう来るかー……」
まあ、いいけど。
「今日一緒に帰れる? 絶対居残り練習しねえから」
「必要なら練習した方がいいんじゃ」
「オーバーワークになってもいけないし、そこは大丈夫。……お詫びデート、みたいな? どう、ですかね」
「する」
「っはは、よかった。……ありがとな」
一生懸命伸ばした手で鉄朗の頭を撫でる。セットしているわけではないからか、案外ふわふわしていた。
2026.03.
黒尾ってしっかりしてるように見えて、抜けてる所があるんだな。それか、忘れられるほど私の存在が小さいか。後者の割合が大きいかも、と一人納得してすっかり暗くなった空を見上げる。
「暗いの苦手なんだけどなー……」
――少し遅くなるかもしれないけど、たまには一緒に帰りたい……って思ったん、デス、けど。どうですかね。
いつもの余裕ある黒尾クンはなりをひそめ、ほんのり頬を赤く染めて大きな体を小さくして、提案なんだかお願いなんだかしてきたのが可愛く見えて。夜道が怖いからと部活でも居残りはしない主義の私が頷いたのは他でもない黒尾のためだというのに。美術部らしく校内で絵具を弄っていたが人気のなさから校外へ出て、校門から出て行く生徒でも見て気を紛らわそうと過ごしていたら、なんということでしょう。約束したトサカ頭の人が同じジャージを着た方々と出て行くじゃありませんか。
すっぽかされた?
忘れられた?
目の前の事が信じられなくて瞬きを数回。そして落胆。
その場でじっとしていても仕方がないので、スマホにイヤホンを挿してお気に入りの音楽をかける。これで夜道も怖くない、はず。
私だって、彼氏と手を繋いで帰るという恋人定番の行為をしてみたかったんだけどなあ。
黒尾を知ったのは、二年生で同じクラスになった時。これまで出会った人の中で一番の背の高さを誇る彼が最初は怖かったが、席に座ってくれればそれも和らぎ、きっかけは覚えていないが会話するうちに面白い人だと分かって仲良くなった。
三年生でも同じクラスになり、席が近かったのでよろしくと挨拶をして、告白されたのが五月頃。ただのクラスメイトとしか思っていなかったから、なんでまた私なんか、と理由を尋ねたら「冷静なんだかボケてんだか分かんないとこが……かわいい」と、おそらく褒められた。
全国を目指すバレー部、それも主将の黒尾は忙しい。デートらしい事はあまり出来ないがメールや電話をしたり、学校でも休み時間に話したりとそれなりに関係を築いてきた。黒尾がモテる事は知っていたけど、名前も知らない女の子に悪口を言われるほど「彼女」という存在の大きさは考えもしていなかった。覚悟のない人間への言葉のパンチは威力があり、受けた傷の治療法も分からない。黒尾に言っていいものなんだろうか。でも言われても困るのでは? 何て返してもらったら私は納得するんだろう。モテてごめん、とか? 私はそうだよ、と答えて終わりだ。
モテるといえば芸能人。そんな人の彼女さんや彼氏さんはどうしているんだろう。黒尾は芸能人じゃないはずなんだけど。
これまでの事を振り返りながら登校すると、後から朝練終わりの黒尾が教室に入ってきた。何やら慌てた様子でこちらの席までやって来る。
「おはよう黒尾、慌ててどうし、」
「昨日! ごめん!!」
どうした、と聞く前に珍しく息を切らして深く頭を下げる黒尾に首を傾げる。昨日。ごめん。昨日といえば約束をしていたが、いつの間にかなしになっていて落ち込んだなぁ。ごめんとは、何を指しているのか。
「そういえば昨日の約束、いつなくなったの? 聞き逃してたみたいでさ、馬鹿みたいに暗くなるまで待っちゃったよ。あはは」
「いや、なくなってなくて! 俺が……忘れてて……」
曰く、後輩への指導が熱くなり約束を忘れ、今朝になって先に切り上げていた海君に彼女とはどうだったのか聞かれて思い出したという。なるほどなぁ、と無意識に「あー……」と声を漏らすと黒尾はもう一度頭を下げた。
「本当にごめん! 帰り、怖かったよな……」
いつだったか暗いのが苦手という話をしたのを覚えているのか、苦い顔をする黒尾に苦笑する。
「大丈夫、大丈夫。大抵のことはなんとかなるもんだよ」
「海みたいなこと言う……じゃなくて。謝るしかできないんだけど、ごめん……反省してる」
「いいよ」
いつまでも黒尾の苦しそうな顔を見たくなくて、もういいよと肩を叩く。黒尾はまだ思うところがあるのか唇を噛んでいたが、予鈴が鳴ったのもあり自分の席へ戻って行った。
椅子に座り直し、ぼんやりと考える。
忘れられただけ、か。だけ、というのもおかしな話だが、そうなんだ、という感想を抱いている。黒尾は軽そうに見えて誠実な人という印象があるから、そういう事もあるんだなぁという驚きもある。バレー、頑張ってるし。今年こそ全国、ゴミ捨て場の決戦はそこで。でも経過にすぎず目指すは勿論優勝。それを聞いて、頑張ってね、応援してる、と言ったのは私だ。だからあまり責められない。
あれ。違う理由だったら、責めてたのかな。
ぼうっとしている間にも時間は過ぎて、授業は進むし昼休みもやってくる。受験生だというのに勉強に身が入らないのはまずい、と頭では分かっているのだが、なんだか集中出来ない。
「ナマエ」
名前を呼ばれて顔を上げると、捨てられた犬のような顔をした黒尾に見下ろされていた。
「えっ、どどうしたの、黒尾!?」
「…………あの。お話し、シマセンカ」
飯、食いがてら。と弁当を持ち上げたのを見て、頷く。友達の方に目をやると手を振られたので、お礼を込めて手を振る。また一緒に食べてね。
二人で教室を出て、校舎裏の木陰で弁当を広げる。かつて色んな場所へ行ったがそれなりに人が居て、静かなのはここぐらいだな、とここが定位置になった。
「改めて、昨日は本当にごめん」
こちらが申し訳なくなるぐらい落ち込んだ様子の黒尾に、いいよ、という以外言葉が見つからなかった。それを聞いた黒尾は眉を寄せて視線を落とす。
「……ナマエにとって、俺はどうでもいいってこと?」
「そんなこと言ってない」
「けどさ、いまだに名前呼んでくれねーし……」
黒尾は私のことを名前で呼ぶ。これからは恋人だ、となった時に名前で呼びたいと言われ、了承したのだが未だにむず痒い心地になる。同じ理由で黒尾のことも下の名前で呼べていない。
だけど、だからって、どうでもいいって話にならないだろう。
「まだ気恥ずかしくて呼べないだけで……」
「付き合ってもう四ヶ月だぞ? そろそろ名前くらい呼べるんじゃねえの」
なんで怒ってるの。さっきまで落ち込んでたじゃん。
鉄朗。
心の中では呼べるようになった、けど。どうしても音にならない。
閉じてしまった口に戸惑っていると、黒尾がため息をついた。
「……もういいよ。お前、俺のこと好きじゃねーもんな」
「……は?」
「好きって言ってくれたことねーじゃん」
「好き」
「……えっ」
「好き」
言えるよ。何度でも。好きだもん。
「好きだよ。黒尾のこと好きだから、名前呼ぶ練習だってしてる、だけどいざ目の前にすると声出ないんだよ、なんで?」
「え、っと、なんで……だろう、な……?」
「黒尾は呼べるじゃん、私のこと、名前で! なんで?」
「な、なんでって言われても……」
目頭が熱くなって、涙が溢れそうになる。なんで泣きそうなんだろう、不安でいっぱいなんだろう。
黒尾が怒ってるから、付き合ってるのに好き合ってないみたいに言うから、このまま別れるんじゃないかって、怖いんだ。
別れても仕方ないって、私じゃ釣り合ってないって思うのに。嫌なんだ、私。
怒った顔から戸惑ったような顔になった黒尾は、どうしたらいいのか迷うみたいに手をうろつかせている。
「黒尾だって、最初の一回しか好きって言ってくれてない。だから私、タイミング分からなくなっちゃって……ねえ、好きっていつ言っていいの? 友達に聞いたら惚気るなって言われるし、男友達に聞くのは恥ずかしいし」
「それは……うん……」
「黒尾に聞けばよかった? どの話を、どこまで言っていいの? 黒尾がモテるの困る、かもって、言ったって……どうかしようって思う……?」
「え、んん……?」
「黒尾は私のよく分かんないとこが好きって言ってくれたけどさ、私は今落ち込んでたのに急に怒り出した黒尾のこと、よく分かんなくて、怖いよ。黒尾なら全部好きとも言えない、だから……黒尾が別れたいって言うなら、そうするしか」
「ま、まま待て、待って、落ち着いて!」
涙を堪えるあまり早口になり、息が荒くなる。一生懸命落ち着こうとして、でも溢れそうで、何度も瞬きをして紛らわそうとする。頭を振って、空を仰いで。
結局、泣いた。
「……ナマエ」
どうして、そんな優しい声で呼べるの。どうして私は、名前で呼ぶだけのことが、できないの。
「ごめんな、ナマエの気持ち、何も知らなかった。悩んでるのも気づかなかった」
俯いて顔を覆う私の背中を、大きな手が弱々しく摩る。気のせいか、若干声も手も震えているように感じる。
「俺ばっかり好きなのかもって……いじけただけで、怒ってない。別れたくない」
「……ほんとに?」
「うん。……ナマエは、嫌になった?」
勢いよく首を振ると、そっか、と少しだけ笑う声がした。
「俺達、もっと話し合った方がいいな。これからは何でも言ってほしい、俺も不安に思ったらちゃんと言うから」
「……たとえば? 言いたいこと、言ってよ」
鼻を啜り、ハンカチを取り出して顔を拭く。そうしてやっと顔を上げられた。
黒尾はもう本当に怒っていないみたいで、優しい顔をしている。いつもの、二人きりでいる時の顔。
でもなんだか、寂しそうだ。
「……好きって、たくさん言ってほしい」
「好き。大好き。たくさんって、いつ言っていいの?」
「言いたい時、いつでも」
「寝る前の電話、おやすみだけじゃなくて好きだよって言いたいし、言ってほしい」
「わ、えっ? 言ってくれんの? 俺も言いたかったんだよな」
「嬉しい。好き」
「っはは、俺も。嬉しい。好き」
「他には?」
「……いや、大丈夫」
「ちゃんと言うって言った」
目を泳がせる黒尾を許してはならないと強く見やると、観念したように頭をかく。
「……名前で呼んでほしい」
「黒尾てつ、て、てつ、」
「……うん、これは追々でいいよ」
「てつ、てつ……」
てつろう。てつろう。
じっと待つその人の名前を、早く呼んであげたいのに、うまく言えない。
「……う〜っ、なんでぇ……? てつ、呼べない……てつ、てつ、ろ」
「あっ」
「てつ、ろー! てつろう! てつろう!!」
鉄朗。
「ん!」
満面の笑みで返事をしてくれた鉄朗を見て、「好き」咄嗟に言うくらい、好きで溢れた。
「言えたー! やったー!!」
「ははは! 喜びすぎ! 嬉しすぎ!!」
「はあー……やっと呼べた……」
安堵からまた涙が滲んで、無意識に強く握りしめていたハンカチで拭う。鉄朗も目尻を指先で拭いていて、泣いたのかな、なんて思う。
「ナマエは、不安なこととか俺に言いたいこと、あるか?」
「……昨日のこと、いいよって言ったけど、よくないかも……」
「本当にごめん……」
「責めたいんじゃないし、バレーも応援してるけど、モヤモヤした……」
「責めていい。むしろ責めてくれないから、どうでもいいのかなって不安になった」
「……暗いの苦手なの知ってるでしょ。それに、手繋いで帰れるって期待してたから、ショックだった」
「……ごめん、こんなこと今言うべきじゃないんだろうけど、期待してくれてたのめっちゃ嬉しい。今度は手繋いで帰ろうな」
こくり、頷いた時に弁当箱が視界に入り、そういえばまだ途中だったと再び手をつける。鉄朗も「そうだった」思い出したように食べ始めた。
「他にも言いたいこと、あるんじゃないか?」
「なんだっけ……忘れた」
泣いたら少しスッキリしたし、今はお腹が空いて何を悩んでいたのか忘れてしまった。
けれど鉄朗は覚えていたようで、食べているのとは別で言いにくそうに口をもごつかせている。
「俺がモテて困る、みたいなこと言ってたような……」
「ああ、うん。鉄朗のこと好きな子達が鉄朗に言い寄るのも私の悪口言うのも、いい気分はしないんだけど……モテるのやめてって言ってやめれるものじゃないだろうし」
「……待って。誰に? 詳しく教えてくれる?」
「……鉄朗、怒ってるのか笑ってるのか分かんない顔してるよ……」
「あ、怖かった? ごめんな? けどナマエに対してじゃねえから。信じて」
「う、うん……」
私に怒ってるわけじゃないらしい。それなら、いいんだけど……。
昼休みに話し合った日から、鉄朗は休み時間になると私の席まで来るようになった。これまで教室ではクラスメイトとほぼ変わらない距離感だったのに。
友達がそんな鉄朗を見て訝しむ目つきを隠さずに言う。
「今まで友達と変わらない感じだったくせに、なに? イチャつくならよそでやってくれる?」
「そばにいるだけでイチャついてねーだろ。俺はもっと見せつけてもいいんだけど?」
後ろから抱き込むように腕が回り、慣れない距離と体温に身を縮こまらせる。
「は、恥ずかしい……!」
「ほんっと俺の彼女かわいい。なー?」
最後のそれは誰に向けて言ったのか。呆れたようにため息をついたから、友達かな。
「な、ナマエ。名前呼んでよ」
「鉄朗?」
「もっかい」
「鉄朗」
へへ、と嬉しそうな声が上から降ってきて、私まで嬉しくなる。やっと呼べるようになって、これから何度でも呼べる。
つられて笑うと、少し強めに頭を撫でられた。恥ずかしい、けど嬉しい。スキンシップって、こんなに心が満たされるものなのか。
大きなため息をついたのは目の前の友達だった。
「ご馳走様なんですけど」
「俺はまだでーす」
「勝手にやってろ」
「……アンタ、嫌ならちゃんと言いなよ」
友達は怒った口調のわりに、優しい手つきで頭を撫でてから離れて行った。惚気は許してくれないけど、優しい子だ。
「……あいつは味方だな」
「そうだね……?」
あの友達に嫌な事を言われたとは思っていないし鉄朗に言ってもいないと思うのだけど、何か気になる事があったのだろうか。急なスキンシップといい不可解な行動に疑問を抱いて鉄朗を見上げると、目が合って不敵に笑った。対戦相手に挨拶する時のような食えない笑みとは少し違うが、似た雰囲気を感じる。
訳が分からないまま再度頭を撫でられた。
「……嬉しいけど、教室はちょっと嫌かも」
「じゃあ、もうちょっとだけ我慢して」
「そう来るかー……」
まあ、いいけど。
「今日一緒に帰れる? 絶対居残り練習しねえから」
「必要なら練習した方がいいんじゃ」
「オーバーワークになってもいけないし、そこは大丈夫。……お詫びデート、みたいな? どう、ですかね」
「する」
「っはは、よかった。……ありがとな」
一生懸命伸ばした手で鉄朗の頭を撫でる。セットしているわけではないからか、案外ふわふわしていた。
2026.03.
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