はたして猫は犬になるのか
次の日の朝、水森は朝食を作っていた。人の家の冷蔵庫を勝手に開ける、というのは抵抗があったが、このままではまた食パンのみの朝食になってしまう。
昨日の襲撃を考えると、勝手にコンビニなどに出る気にはなれなかったし、この家にあるものでどうにかするしかないのだ。
冷蔵庫の中には賞味期限ギリギリの卵と、萎びかけたキャベツ、後は調味料の類が合った。買ったのは彼女だろう。勝手に使うことへの申し訳なさを感じつつ、浮気とか不倫とか二番手の人は、こうやって痕跡残していくのかな、なんて考えた。
昨晩、砂噛の家に戻ってからも、水森の胸はおかしかった。砂噛が近くにいると、動悸が激しくなり、落ち着かない気分になるのだ。初対面からかっこいいと思っていたが、それに輪をかけて顔が良く見えてしまう。もはや、輝いているのでは、と疑うほどだ。
きっかけは、医務室で抱きしめられたことだろう。我ながら単純すぎないか、とちょっと自分自身に幻滅したが、でもあれはズルいと思い直す。
あの時の砂噛の声には強い感情が乗っていた。水森を気遣いつつ、溢れ出る安堵を体現したその声に、確かに自分への想いを感じた。
あんなに強く抱きしめられたのも初めてだった。すがりつくように、逃げられないように。そんな強さだった。
よっぽど、仲の良い先輩後輩だったんだな、と水森は解釈したが、どうにも自分はそんな気持ちを純粋に受け止められなかった。
あの腕でもう一度抱きしめてほしいと思うこの感情は、砂噛から向けられる友愛とはきっと違う。もっと、どろどろ甘く、どうしようもないほど苦いものだ。
自覚した恋情を持て余しつつ、水森は朝食の準備を続けた。キッチンを漁ると、真新しいフライパンが出てきた。これも彼女が買ったんだろうな、と複雑な気持ちになりつつ、卵を割り入れる。目玉焼きでいいだろう。
キャベツは千切りにするにはしなびているので、細かく刻んで塩揉みし、簡易的なザワークラウトにした。母が不在の日に作ったら、妹が気に入っていたので、よく作っているレシピである。
飲み物はどうしたものか、と考えてもう一度冷蔵庫を開ける。缶ビールしかない。ダメな大人の冷蔵庫だ。豆から挽いてコーヒー飲んでそうな顔して、この体たらく。そんなギャップもなかなか、と考えている自分に気づき、水森は頭を抱えた。重症だ、これは。
砂噛が起きてきたのは昨日と同じ六時だった。体内時計がしっかりしているようだ。
水森が用意した朝食(結局飲み物は諦めて水にした)を見て、驚いた顔をしている。
水森は、何か問われる前に、言い訳のように話し始めた。
「その、食パンだけだと足りなくて。冷蔵庫のもの勝手に使ってすみません」
「いや、助かる」
バツが悪そうなその顔を、ちょっとかわいいと感じてしまった。ちくしょう、これじゃ、鉄さんにのろけてた彼女と同じじゃないか、と水森は複雑な気分になった。
二人で朝食を食べる。会話が弾む訳ではないが、それでも居心地の悪さは感じなかった。
ふと視線を上げると、砂噛がこちらを見ていた。その視線に脈が速くなるのを感じ、誤魔化すように水森は問いかけた。
「な、なんか味、変でした?」
「いや、犬っぽくなったなと思って」
犬。鉄にも言われた言葉だが、よく意味はわからない。COSMOS特有の隠語なのだろうか。
砂噛は特に説明する気はないらしく、そのまま続けて話した。
「お前さ、初日あんなに警戒してたのに、それ解いたのなんで?」
水森は言葉に詰まった。一番の要因は、砂噛に抱きしめられたことだが、それを正直に言う訳にはいかない。そもそも、その前からわりと絆されつつあったので、そちらを重点的に話すことにした。
「オレの鼻のこと知っているからっていうのもあると思いますけど、皆さん、オレに極力嘘つかなかったから」
これは事実だ。隠しごとはあった気がするが、それでも、こちらが不安にならないようにか、砂噛も、鉄も、あまり話していないが穂村も嘘はつかなかった。
水森の言葉に、砂噛はあっさり納得した。以前の自分もその傾向があったのかもしれない。
「いい人認定が緩すぎるだろ。もっと警戒しろ」
「守ってくれる人に警戒しろって言われても……」
皮肉げに笑われたので、軽口で返す。和やかな時間に、この時がずっと続いたら良いのに、と感じてしまう。だがそんな淡い願いはすぐに打ち砕かれた。
「月曜日だが、会社に来てもらう。課長から話があるそうだ」
今日で決着つけような、と砂噛に言われ、水森は沈む気持ちを隠しつつ、頷くしかなかった。
朝食の片付けの時、フライパンをわざと元の位置と別の所に置いた。正直、元の配置の方が水森としてもしっくりきたが、自分のいた痕跡を残したかった。二番手の思考回路じゃん、と自分に嫌気がさした。それでも、これくらい許してよ、と顔も知らない砂噛の恋人に言い訳した。
会社に着くと、砂噛は技術部によると言って離れていった。少し私とお話ししましょうか、と入れ替わりで部屋に入ってきた穂村に誘われて、水森は打ち合わせスペースの椅子に座った。
「昨日はよく眠れましたか?」
「はい、一応」
穂村からの問いかけに、水森は歯切れ悪く答えた。襲撃されたこともそうだったが、砂噛への気持ちの整理でなかなか寝れなかった。
「昨日の襲撃の際、怖い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「いえ……、守って貰いましたし。今日、鉄さんは?」
「鉄は、昨日無理をさせたので、休ませています」
淡々と穂村は述べた。水森の目から見ても、鉄は昨日明らかに疲弊していた。だが、それがなぜなのかは理解できなかった。
水森が理解できなかったのは、それだけではなかった。昨日のあの襲撃が、なぜあのような形で終わったのか、全くついていけなかった。
「なんで、無理やり取り押さえなかったんですか?」
昨日、あの河原で穂村と砂噛は完全に優位に立っていたはずだ。それこそ、二人で取り押さえられただろう。
「あの男、鈴木は手元に持っているスマホで、MESに干渉します」
穂村はもはや、鈴木を呼び捨てしていた。彼女の中で完全に、顧客ではなくなったのだろう。
「水森さんが、一昨日やられたのも、それです。特定の周波数をスマホに発生させているんです」
自分があの男に恐怖を感じたのは、その時の記憶がどこかに残っているのかもしれない、と水森は合点がいった。
「昨日のオレの頭痛も、その影響ですか?」
「いえ、医療班にも確認しましたが、そういった影響は見られませんでした。もともと無理な記憶改竄が加えられているので、鈴木の姿を見たことで記憶が戻りかけて、脳に過負荷がかかったのでは、と推測しています」
そこで、穂村は言葉を区切った。じっと、見極めるように、水森を見つめる。
「何か思い出しました?」
「……すみません」
水森は謝るしかなかった。鈴木に恐怖を感じたものの、何をされたのかなど、具体的な記憶は戻っていなかった。会社のことも、思い出せないでいる。
「謝ることはありません。状態の正確な把握のための質問です」
穂村の言葉には嘘が全くなく、それが水森の心を少し軽くした。だが、穂村の次の言葉が、無情にも重くのしかかる。
「昨日、私もMESを付けていました。あのまま喰らっていたら、私も記憶をなくしていたかもしれません」
「そんな……それじゃあ、近づけないじゃないですか」
慌てる水森の言葉に、穂村はなんでもないことのように答えた。
「ええ、だから鉄にがんばってもらいました」
それが何の対策になるのか、水森には分からなかった。だが、穂村の言葉に、じゃあ問題ないんだな、と納得してしまっている自分もいる。
黙ってしまった水森に、では行きましょうか、と穂村が声をかけた。
「どこにですか?」
「文明レベルだけで、こちらをナメている相手をぶっ飛ばしに」
それまでと異なる乱暴な口調に穂村の怒りを感じ、水森は緊張から背筋を伸ばした。
昨日と同じ河原に、穂村と並んで水森は立っていた。日差しが強いので、橋の下にいましょうか、という穂村の言葉が、この非日常にそぐわず少し面白かった。
昨日逃げて行ったのに、ここに現れますかね?という水森の疑問に、穂村ははぐらかさずに答えてくれた。
「むしろ、昨日逃げられたことで、向こうも自分の技術が脅しになると自信を深めたはずです。こちらの位置情報も把握されてますし、必ずきます」
やがて、穂村の言葉通り、昨日と同じパーカー姿で鈴木は現れた。昨日よりも、明らかに態度が大きい。ニヤニヤ笑いながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
こちらまで後数歩の距離で、鈴木は立ち止まり、スマホを取り出した。
「なぁ、穂村さん、取引しよう」
「取引?」
鈴木は、持っているスマホを水森に向けた。反射的にびくりと体を揺らした水森をせせら笑いながら、鈴木は続けた。
「そこの調査員の記憶を戻してやるよ。代わりに、返済をチャラにしてくれ」
「結構だ」
穂村のにべもない答えに、鈴木は虚をつかれたようだった。
「取引なんてしない。記憶もお金も返してもらおうか」
ぽかんとしていた鈴木だが、穂村の言葉を理解したのか、憤怒に顔を歪めた。
「じゃあ、お前ら二人とも記憶消して、逃げてやるよ!」
そう言うと、鈴木は二人に向かって突進してきた。二人の目の前にスマホをかざした時、勝利を確信したように、笑みを浮かべる。
しかし、その笑みはすぐに消えた。穂村が鈴木の腕を締め上げたからだ。信じられないと言った様子で鈴木は問いかける。
「な、なんで」
「なんで、も何も、あらへんわ」
急に上から降ってきた関西弁に、三人は上を見上げた。上にある橋からこちらを覗くのは、砂噛と背の高い女性だ。
「馬喰さん」
穂村の呼びかけに、馬喰はひらひらと手を振ると、砂噛に向かって何か話しかけていた。こちらを指差す馬喰に、砂噛はげんなりとした顔で首肯している。
「よいせ、と」
掛け声と共に馬喰を抱えると、砂噛が橋から飛び降りてきた。昨日から穂村といい、砂噛といい、人間離れした動きを連発しているが、もはや水森も慣れてきていた。
砂噛に下ろされた馬喰はこちらに近づいてくる。
「うちの優秀な調査員には、ちぃとばかし耳がいい奴いてなー。お前が使ってる周波数、耳で覚えたんや」
「馬鹿な!地球人に聞こえる音域じゃない!」
やれやれ、と芝居がかった動作を馬喰はして見せた。明確に馬鹿にしている。
「耳、いいって言ったやろ。そんで、そこから天才のうちがあんたのソレ無効化するツール作ったんや」
どや、と馬喰が掲げたそれは、一見するとただの黒い玉だった。耳を澄ますと、何かが高速でスピンしているような音が聞こえる。
「あんたのスマホ、効果範囲狭そうやけど、うちのこれは効果範囲一キロやで!」
はっはっはー!と馬喰は嬉しそうに高笑いしている。MESに干渉されたの悔しかったんですね、と穂村がつぶやくのが聞こえた。
「さて、そう言うわけだ。観念してスマホを渡せ」
穂村が鈴木に言う。終わったんだな、と水森が息をついた次の瞬間、鈴木が動き出した。穂村の腕を振り払うと、水森の首に腕を回す。そして、彼にスマホを突きつけると、叫ぶように言った。
「離れろ!オレの改造が一つと思うなよ。他の周波数も使えるようにしてある!」
じりじりと後退りをする鈴木に、穂村も砂噛も手を出せずにいる。二人が手を出せないのを見て、鈴木は自分の逆転を確信した。
「なぁ、もうやめたら?」
自分の近くからした、冷静な声に鈴木は驚いた。先ほどまであんなにスマホに怯えていたのに、今の水森には恐怖の感情が見当たらなかった。
「な、何を……」
「だって、それ嘘じゃん」
水森の言葉に、穂村と砂噛が同時に駆け出す。そこからは、あっけなかった。砂噛が、鈴木を抑え込んだところで、穂村がスマホを奪い取った。
「完勝やなー」
馬喰のどこか気の抜けた声を聞き、終わりなんだな、と水森は感じた。
「ほい、ここをタップしたら動作開始するから、あんたのMESに近づけてな」
鈴木から押収したスマートフォンをいじっていた馬喰が水森に話しかけた。正確なログと、干渉に使った周波数を確認し、記憶を元に戻すための改造を施したという。
「これ使ったら、今の記憶って消えるんですか?」
「さてね、なんせ前例がないんや。改竄されている間の記憶は、残るんか、消えるんか、やってみぃひんと分からんわ」
馬喰の言葉に、水森は少し悲しくなった。今の自分は改竄によって生まれた存在だ。穂村も、鉄も、本来の正しい水森に戻すために戦ってくれたのだ。当然、砂噛も。
前の自分に戻ったとき、今の自分の感情はどうなるのだろう。砂噛に感じる、この甘くて苦しい感情は。
きっと記憶とともに、感情も消えてしまうんだろう、と水森は考えた。偶発的に発生した気持ちだ。ただの会社の先輩後輩としてやっていくなら、むしろ、消えたほうがいい感情かもしれない。
水森は覚悟を決めた。そして穂村と何やら事後処理の話をしている砂噛の元へと向かった。
穂村に一礼した後、砂噛に向き直り、頭を下げる。
「砂噛さん、二日間お世話になりました」
「そんな今生の別れみたいな顔で言うなよ。記憶戻ったら一緒に働くんだから」
砂噛はちょっと笑って水森を茶化した。水森の感傷など分かっていないようだった。当然だ。他者からしたら、自分と水森は地続きなのだから。
理解は求めない。ただ、ちょっとばかり、自分がいたことを刻みたくなり、水森は砂噛のネクタイを引っ張った。
自分よりも背の高い砂噛の顔が近くに来る。少し背伸びをすると、自然に体が動いた。ほんの数瞬、触れるか触れないかくらいのキスをして、水森はぱっとネクタイから手を離した。
「さよなら、ちょっと好きでした」
ぽかん、とする砂噛の顔を見て、やっぱりかわいいな、と水森は思った。そのまま、渡されたスマホを操作し、ピアスへと近づける。
意識が薄れていく。消えるのかな、と思いながら、水森はそれでも楽しかったな、と笑みを浮かべた。
昨日の襲撃を考えると、勝手にコンビニなどに出る気にはなれなかったし、この家にあるものでどうにかするしかないのだ。
冷蔵庫の中には賞味期限ギリギリの卵と、萎びかけたキャベツ、後は調味料の類が合った。買ったのは彼女だろう。勝手に使うことへの申し訳なさを感じつつ、浮気とか不倫とか二番手の人は、こうやって痕跡残していくのかな、なんて考えた。
昨晩、砂噛の家に戻ってからも、水森の胸はおかしかった。砂噛が近くにいると、動悸が激しくなり、落ち着かない気分になるのだ。初対面からかっこいいと思っていたが、それに輪をかけて顔が良く見えてしまう。もはや、輝いているのでは、と疑うほどだ。
きっかけは、医務室で抱きしめられたことだろう。我ながら単純すぎないか、とちょっと自分自身に幻滅したが、でもあれはズルいと思い直す。
あの時の砂噛の声には強い感情が乗っていた。水森を気遣いつつ、溢れ出る安堵を体現したその声に、確かに自分への想いを感じた。
あんなに強く抱きしめられたのも初めてだった。すがりつくように、逃げられないように。そんな強さだった。
よっぽど、仲の良い先輩後輩だったんだな、と水森は解釈したが、どうにも自分はそんな気持ちを純粋に受け止められなかった。
あの腕でもう一度抱きしめてほしいと思うこの感情は、砂噛から向けられる友愛とはきっと違う。もっと、どろどろ甘く、どうしようもないほど苦いものだ。
自覚した恋情を持て余しつつ、水森は朝食の準備を続けた。キッチンを漁ると、真新しいフライパンが出てきた。これも彼女が買ったんだろうな、と複雑な気持ちになりつつ、卵を割り入れる。目玉焼きでいいだろう。
キャベツは千切りにするにはしなびているので、細かく刻んで塩揉みし、簡易的なザワークラウトにした。母が不在の日に作ったら、妹が気に入っていたので、よく作っているレシピである。
飲み物はどうしたものか、と考えてもう一度冷蔵庫を開ける。缶ビールしかない。ダメな大人の冷蔵庫だ。豆から挽いてコーヒー飲んでそうな顔して、この体たらく。そんなギャップもなかなか、と考えている自分に気づき、水森は頭を抱えた。重症だ、これは。
砂噛が起きてきたのは昨日と同じ六時だった。体内時計がしっかりしているようだ。
水森が用意した朝食(結局飲み物は諦めて水にした)を見て、驚いた顔をしている。
水森は、何か問われる前に、言い訳のように話し始めた。
「その、食パンだけだと足りなくて。冷蔵庫のもの勝手に使ってすみません」
「いや、助かる」
バツが悪そうなその顔を、ちょっとかわいいと感じてしまった。ちくしょう、これじゃ、鉄さんにのろけてた彼女と同じじゃないか、と水森は複雑な気分になった。
二人で朝食を食べる。会話が弾む訳ではないが、それでも居心地の悪さは感じなかった。
ふと視線を上げると、砂噛がこちらを見ていた。その視線に脈が速くなるのを感じ、誤魔化すように水森は問いかけた。
「な、なんか味、変でした?」
「いや、犬っぽくなったなと思って」
犬。鉄にも言われた言葉だが、よく意味はわからない。COSMOS特有の隠語なのだろうか。
砂噛は特に説明する気はないらしく、そのまま続けて話した。
「お前さ、初日あんなに警戒してたのに、それ解いたのなんで?」
水森は言葉に詰まった。一番の要因は、砂噛に抱きしめられたことだが、それを正直に言う訳にはいかない。そもそも、その前からわりと絆されつつあったので、そちらを重点的に話すことにした。
「オレの鼻のこと知っているからっていうのもあると思いますけど、皆さん、オレに極力嘘つかなかったから」
これは事実だ。隠しごとはあった気がするが、それでも、こちらが不安にならないようにか、砂噛も、鉄も、あまり話していないが穂村も嘘はつかなかった。
水森の言葉に、砂噛はあっさり納得した。以前の自分もその傾向があったのかもしれない。
「いい人認定が緩すぎるだろ。もっと警戒しろ」
「守ってくれる人に警戒しろって言われても……」
皮肉げに笑われたので、軽口で返す。和やかな時間に、この時がずっと続いたら良いのに、と感じてしまう。だがそんな淡い願いはすぐに打ち砕かれた。
「月曜日だが、会社に来てもらう。課長から話があるそうだ」
今日で決着つけような、と砂噛に言われ、水森は沈む気持ちを隠しつつ、頷くしかなかった。
朝食の片付けの時、フライパンをわざと元の位置と別の所に置いた。正直、元の配置の方が水森としてもしっくりきたが、自分のいた痕跡を残したかった。二番手の思考回路じゃん、と自分に嫌気がさした。それでも、これくらい許してよ、と顔も知らない砂噛の恋人に言い訳した。
会社に着くと、砂噛は技術部によると言って離れていった。少し私とお話ししましょうか、と入れ替わりで部屋に入ってきた穂村に誘われて、水森は打ち合わせスペースの椅子に座った。
「昨日はよく眠れましたか?」
「はい、一応」
穂村からの問いかけに、水森は歯切れ悪く答えた。襲撃されたこともそうだったが、砂噛への気持ちの整理でなかなか寝れなかった。
「昨日の襲撃の際、怖い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「いえ……、守って貰いましたし。今日、鉄さんは?」
「鉄は、昨日無理をさせたので、休ませています」
淡々と穂村は述べた。水森の目から見ても、鉄は昨日明らかに疲弊していた。だが、それがなぜなのかは理解できなかった。
水森が理解できなかったのは、それだけではなかった。昨日のあの襲撃が、なぜあのような形で終わったのか、全くついていけなかった。
「なんで、無理やり取り押さえなかったんですか?」
昨日、あの河原で穂村と砂噛は完全に優位に立っていたはずだ。それこそ、二人で取り押さえられただろう。
「あの男、鈴木は手元に持っているスマホで、MESに干渉します」
穂村はもはや、鈴木を呼び捨てしていた。彼女の中で完全に、顧客ではなくなったのだろう。
「水森さんが、一昨日やられたのも、それです。特定の周波数をスマホに発生させているんです」
自分があの男に恐怖を感じたのは、その時の記憶がどこかに残っているのかもしれない、と水森は合点がいった。
「昨日のオレの頭痛も、その影響ですか?」
「いえ、医療班にも確認しましたが、そういった影響は見られませんでした。もともと無理な記憶改竄が加えられているので、鈴木の姿を見たことで記憶が戻りかけて、脳に過負荷がかかったのでは、と推測しています」
そこで、穂村は言葉を区切った。じっと、見極めるように、水森を見つめる。
「何か思い出しました?」
「……すみません」
水森は謝るしかなかった。鈴木に恐怖を感じたものの、何をされたのかなど、具体的な記憶は戻っていなかった。会社のことも、思い出せないでいる。
「謝ることはありません。状態の正確な把握のための質問です」
穂村の言葉には嘘が全くなく、それが水森の心を少し軽くした。だが、穂村の次の言葉が、無情にも重くのしかかる。
「昨日、私もMESを付けていました。あのまま喰らっていたら、私も記憶をなくしていたかもしれません」
「そんな……それじゃあ、近づけないじゃないですか」
慌てる水森の言葉に、穂村はなんでもないことのように答えた。
「ええ、だから鉄にがんばってもらいました」
それが何の対策になるのか、水森には分からなかった。だが、穂村の言葉に、じゃあ問題ないんだな、と納得してしまっている自分もいる。
黙ってしまった水森に、では行きましょうか、と穂村が声をかけた。
「どこにですか?」
「文明レベルだけで、こちらをナメている相手をぶっ飛ばしに」
それまでと異なる乱暴な口調に穂村の怒りを感じ、水森は緊張から背筋を伸ばした。
昨日と同じ河原に、穂村と並んで水森は立っていた。日差しが強いので、橋の下にいましょうか、という穂村の言葉が、この非日常にそぐわず少し面白かった。
昨日逃げて行ったのに、ここに現れますかね?という水森の疑問に、穂村ははぐらかさずに答えてくれた。
「むしろ、昨日逃げられたことで、向こうも自分の技術が脅しになると自信を深めたはずです。こちらの位置情報も把握されてますし、必ずきます」
やがて、穂村の言葉通り、昨日と同じパーカー姿で鈴木は現れた。昨日よりも、明らかに態度が大きい。ニヤニヤ笑いながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
こちらまで後数歩の距離で、鈴木は立ち止まり、スマホを取り出した。
「なぁ、穂村さん、取引しよう」
「取引?」
鈴木は、持っているスマホを水森に向けた。反射的にびくりと体を揺らした水森をせせら笑いながら、鈴木は続けた。
「そこの調査員の記憶を戻してやるよ。代わりに、返済をチャラにしてくれ」
「結構だ」
穂村のにべもない答えに、鈴木は虚をつかれたようだった。
「取引なんてしない。記憶もお金も返してもらおうか」
ぽかんとしていた鈴木だが、穂村の言葉を理解したのか、憤怒に顔を歪めた。
「じゃあ、お前ら二人とも記憶消して、逃げてやるよ!」
そう言うと、鈴木は二人に向かって突進してきた。二人の目の前にスマホをかざした時、勝利を確信したように、笑みを浮かべる。
しかし、その笑みはすぐに消えた。穂村が鈴木の腕を締め上げたからだ。信じられないと言った様子で鈴木は問いかける。
「な、なんで」
「なんで、も何も、あらへんわ」
急に上から降ってきた関西弁に、三人は上を見上げた。上にある橋からこちらを覗くのは、砂噛と背の高い女性だ。
「馬喰さん」
穂村の呼びかけに、馬喰はひらひらと手を振ると、砂噛に向かって何か話しかけていた。こちらを指差す馬喰に、砂噛はげんなりとした顔で首肯している。
「よいせ、と」
掛け声と共に馬喰を抱えると、砂噛が橋から飛び降りてきた。昨日から穂村といい、砂噛といい、人間離れした動きを連発しているが、もはや水森も慣れてきていた。
砂噛に下ろされた馬喰はこちらに近づいてくる。
「うちの優秀な調査員には、ちぃとばかし耳がいい奴いてなー。お前が使ってる周波数、耳で覚えたんや」
「馬鹿な!地球人に聞こえる音域じゃない!」
やれやれ、と芝居がかった動作を馬喰はして見せた。明確に馬鹿にしている。
「耳、いいって言ったやろ。そんで、そこから天才のうちがあんたのソレ無効化するツール作ったんや」
どや、と馬喰が掲げたそれは、一見するとただの黒い玉だった。耳を澄ますと、何かが高速でスピンしているような音が聞こえる。
「あんたのスマホ、効果範囲狭そうやけど、うちのこれは効果範囲一キロやで!」
はっはっはー!と馬喰は嬉しそうに高笑いしている。MESに干渉されたの悔しかったんですね、と穂村がつぶやくのが聞こえた。
「さて、そう言うわけだ。観念してスマホを渡せ」
穂村が鈴木に言う。終わったんだな、と水森が息をついた次の瞬間、鈴木が動き出した。穂村の腕を振り払うと、水森の首に腕を回す。そして、彼にスマホを突きつけると、叫ぶように言った。
「離れろ!オレの改造が一つと思うなよ。他の周波数も使えるようにしてある!」
じりじりと後退りをする鈴木に、穂村も砂噛も手を出せずにいる。二人が手を出せないのを見て、鈴木は自分の逆転を確信した。
「なぁ、もうやめたら?」
自分の近くからした、冷静な声に鈴木は驚いた。先ほどまであんなにスマホに怯えていたのに、今の水森には恐怖の感情が見当たらなかった。
「な、何を……」
「だって、それ嘘じゃん」
水森の言葉に、穂村と砂噛が同時に駆け出す。そこからは、あっけなかった。砂噛が、鈴木を抑え込んだところで、穂村がスマホを奪い取った。
「完勝やなー」
馬喰のどこか気の抜けた声を聞き、終わりなんだな、と水森は感じた。
「ほい、ここをタップしたら動作開始するから、あんたのMESに近づけてな」
鈴木から押収したスマートフォンをいじっていた馬喰が水森に話しかけた。正確なログと、干渉に使った周波数を確認し、記憶を元に戻すための改造を施したという。
「これ使ったら、今の記憶って消えるんですか?」
「さてね、なんせ前例がないんや。改竄されている間の記憶は、残るんか、消えるんか、やってみぃひんと分からんわ」
馬喰の言葉に、水森は少し悲しくなった。今の自分は改竄によって生まれた存在だ。穂村も、鉄も、本来の正しい水森に戻すために戦ってくれたのだ。当然、砂噛も。
前の自分に戻ったとき、今の自分の感情はどうなるのだろう。砂噛に感じる、この甘くて苦しい感情は。
きっと記憶とともに、感情も消えてしまうんだろう、と水森は考えた。偶発的に発生した気持ちだ。ただの会社の先輩後輩としてやっていくなら、むしろ、消えたほうがいい感情かもしれない。
水森は覚悟を決めた。そして穂村と何やら事後処理の話をしている砂噛の元へと向かった。
穂村に一礼した後、砂噛に向き直り、頭を下げる。
「砂噛さん、二日間お世話になりました」
「そんな今生の別れみたいな顔で言うなよ。記憶戻ったら一緒に働くんだから」
砂噛はちょっと笑って水森を茶化した。水森の感傷など分かっていないようだった。当然だ。他者からしたら、自分と水森は地続きなのだから。
理解は求めない。ただ、ちょっとばかり、自分がいたことを刻みたくなり、水森は砂噛のネクタイを引っ張った。
自分よりも背の高い砂噛の顔が近くに来る。少し背伸びをすると、自然に体が動いた。ほんの数瞬、触れるか触れないかくらいのキスをして、水森はぱっとネクタイから手を離した。
「さよなら、ちょっと好きでした」
ぽかん、とする砂噛の顔を見て、やっぱりかわいいな、と水森は思った。そのまま、渡されたスマホを操作し、ピアスへと近づける。
意識が薄れていく。消えるのかな、と思いながら、水森はそれでも楽しかったな、と笑みを浮かべた。
