はたして猫は犬になるのか
枕が変わったからか、水森は早くに目を覚ました。携帯で時間を確かめると、まだ朝の五時、しかも日曜日である。本来なら、二度寝を決め込みたいところだが、そんな気分にはなれなかった。見慣れない部屋を見回して、ため息を一つつくと、水森は起き上がった。
昨日は、信じられないことばかりだった。気がついたら、見覚えのないオフィスにいて、上司だと名乗る美人に「お前の記憶は改竄されている」と急に言われたのだ。発言の内容には驚いたが、その言葉に嘘はなく、続けて話をされた外星人の存在についても、同様になんの臭いもしなかった。
信じざる終えない状況だったが、記憶を改竄されていると言われても、水森には身に覚えがないのだ。自分の記憶に欠けたところはなく、強いて言えば本屋のバイトに行く回数が、ある時期を境に急に増えたくらいだ。たしか、相澤が転校したくらいの時期だ。
美人な上司は、それが改竄で、本当は保険会社の調査員になっていた、と言っていた。嘘を見抜く能力のことも知られていた。自分がなぜそんなことを始めたのか、全く理解はできなかったが、ただ、この人は自分に今まで嘘をついたことがないんだろうな、と思った。
同僚と紹介されたのがギャルだったので、ちょっと疑いたくなったが、こちらも嘘をつくことはなかった。記憶のない水森を明るく笑い飛ばす姿を見て、少し緊張がほぐれた。二人ともいい上司に、いい先輩なんだろうな、と感じたが気を許すことはできなかった。嘘はなくても、自分の記憶にないことを、すんなりとは受け入れがたかった。
それだけでもキャパオーバー気味だったのに、また外星人が襲ってくる可能性が高いと言われた。え、オレ、結構やばい状況?と水森が内心冷や汗をかいていると、こいつが守ってくれるから、と砂噛を紹介された。
砂噛への第一印象は、やたら顔の良い人だな、だった。先ほどの上司やギャルといい、この会社は顔採用なのか?と、水森は割と失礼なことを考えていたが、それは表に出さずにヘラヘラ笑って挨拶した。よく分からないが、守ってもらえるというのなら、多少は愛想よくした方がいいかな、という打算もあった。
先輩だというその男から返されたのは、苦虫を噛み潰したような表情だった。
砂噛が起きて来たのは六時過ぎてからだった。守ってくれるらしいが、寝てて大丈夫なのか、と水森は訝しんだ。
「おはようございます」
「おはよう。やたら早く起きてたな」
砂噛の言葉に、水森は反射的に謝った。
「え、ごめんなさい。うるさかったですか?」
「いや、気配で分かる。気にすんな」
何でもないことのように言われ、どうやらちゃんと守られていたらしい、と水森は認識を改めた。
初対面の時の印象は最悪だったが、昨晩の会話で、砂噛も戸惑っていたのだと分かった。あれ以降、砂噛の態度も軟化しているように感じる。
なんだ、ちょっといい人じゃん、と水森の砂噛に対する好感度が少し上がった。
「砂噛さん、生活能力ないですよね?」
食パンを焼いただけの朝食を食べながら、水森は言った。本当に、焼いただけなのだ。バターもジャムもない。
昨日、というかこの部屋に来て、空のペットボトル落ちているの見た時から思っていたが、この部屋の主に家事の能力はない。昨晩飲んだビールの缶も洗わずに流しに放ってあったので、水森が今朝処理をした。
「……困ったことはない」
「いや、人来たとき困るでしょ、彼女とか」
砂噛は気まずげに目を逸らした。昨晩、恋人の話題を出したときもそうだったが、どうもこの話題の時だけ砂噛の返答は歯切れが悪い。嘘はついていないが、何か隠されていると感じる。
「……その恋人だよ」
「え?」
「部屋片付けてたの」
しぶしぶ、と言った様子で砂噛が言った。
「同棲してるんですか?」
だとしたら自分はかなりお邪魔虫では?と水森は心配になったが、していない、とあっさり否定された。
ただ、昨日砂噛が部屋を汚していくペースを見るに、相当高頻度で恋人が掃除していたな、と水森は推測した。
「えっと、つまり遊びにくるたびに恋人に部屋掃除させてるんですか?」
「そうなるな」
そうなるな、て。水森の中で上がったばかりの砂噛への好感度が下がった。
「家政婦かなんかだと思ってます?」
「違う!」
急に強く否定されて、水森は驚いてしまった。その様子を見て、砂噛は「怒鳴って悪かった」と謝罪する。
「家事をやってくれるのは助かっているが、別にそれ目当てじゃない」
まるで、恋人本人に言うかのように、真剣に見つめられ、気づくと水森は「わかりました」と頷いていた。
恋人がとっても愛されている、と言うことが伝わり、水森は、ちょっといいな、と思ってしまった。こんなに真剣に愛されるってどんな気分なんだろう、と。
「でも、次来る時彼女さんびっくりしませんか?オレ居たら」
「……お前が居る間は来ない予定だ」
嘘はない。だが何か隠されているな、と水森は感じ取り、それ以上追求しなかった。
今日は日曜日であるが、砂噛は出社するらしい。大変ですね、と言ったら、お前も来るんだよ、と呆れたように返される。曰く、脳の検査が今日もあるとのことで、会社に連れて行かれた。
検査が終わると、砂噛の姿はなく、代わりに昨日会ったギャルの先輩が待っていた。
「あ、水森だ。おつー」
「えっと、ギャルの……」
「ウチは鉄な」
今日の昼の護衛だから、よろぴく、とピースされる。内心、この人が護衛って大丈夫か、と思ったが口には出さずに、水森はピースを返した。
「ん、お前ちょっと犬っぽくなった?」
「人間ですが?」
「例えだよ!おんなじリアクションしやがって」
鉄の全力のツッコミにやや引きつつ、水森は、すみませんと謝った。当の鉄は、あまり気にしておらず、一人ごとのようにぶつぶつ呟いている。
「あれかな、ドラ男に絆されたんか。あの、仏頂面に……」
「ドラ男?」
「あ?ああ、さっきまで一緒にいたっしょ?」
どうやら砂噛のことらしい、と水森は理解した。由来は不明だが、あだ名で呼ぶくらいには二人は仲が良いのだろう。
鉄曰く、砂噛は昼は別件の用があるという。ちょっと残念だな、と感じ、水森は自分の感情の動きを意外に思った。昨日は警戒していたはずなのに、もう砂噛を信用してしまっている。自分はこんなに簡単に人を信じる人間だっただろうか?
考えこんでいる水森に、鉄は心配そうに声をかけた。
「ドラ男との生活、問題ない?あいつ何もできないっしょ、家事関係」
その口ぶりから、鉄が砂噛の部屋の惨状を知っていることが感じ取れた。
「え、鉄さんが砂噛さんの彼女なんですか?」
「んな訳あるか!」
鉄の剣幕に水森は気圧される。
「あいつの恋人に聞いたんだよ!」
怒鳴り過ぎて、鉄は肩で息をしている。よほど勘違いされたのが嫌だったらしく、顔を歪めている。
「部屋めっちゃ汚いし、料理も洗濯もできないから、自分が全部やってるって」
「それ、結構負担じゃないですか?」
純粋に、水森は疑問に思った。一緒に住んでもいないのに、そこまでしてやれるものなのだろうか?
「いや、楽しそーだったよ。ダメダメすぎてかわいーって言ってた」
成人男性に可愛いという感性は理解できなかったが、どうやらただのノロケらしい。
「どっちかっていうと、ドラ男が受け入れたことの方が意外だった」
「家事をですか?こだわりないって言ってましたよ」
「あいつ、こだわりっていうか、一切興味がないんだよ、生活に」
だから、恋人ができる前も、特にハウスキーパー等雇わなかったという。生きていければいい、という最低限の暮らしをしていた。それが、恋人によって変えられた。そして、その変化を砂噛は受け入れたのだ。
「すげー愛だよな」
「そ、そうですね」
聞いていて、なんとなく居心地が悪かった。え、オレここまで聞いちゃっていいのか、という罪悪感がある。ただ、砂噛の彼女というのがどんな人物か俄然興味が出てきた。好奇心には勝てず、水森は問いかけた。
「砂噛さんの彼女ってどんな人なんですか?」
「ドラ男の恋人?うーん……」
鉄は、ちょっと考えこんだ後、大真面目な顔で述べた。
「子犬だな」
相変わらず例えはよく分からなかったが、守ってあげたい感じでかわいいのかな、と水森は解釈した。
ずっと会社も気が滅入るから、昼ごはん外行こーぜ、と水森は半ば強引に外に連れ出された。
コーヒーチェーンでサンドウィッチをテイクアウトし、河原へと向かう。夏も終わり、ピクニックという気候でもないこの時期、河原には人気がなかった。
「あの、狙われてるのに外出ていいんですか?」
「狙われてるからだし」
水森からコーヒーを受け取りながら、鉄は答えた。
「どういう……」
水森の問いかけに答えず、鉄は髪をかき上げた。耳に見える白い耳栓を外して行く。おそらく、自分の耳に光る、ピアスと同種の機械であると水森は推測した。
「仲間もいない、戦闘能力も低い。そんな奴、わかりやすいくらいの隙がないと、出てこねーってこと」
会社では見せなかった、鋭い表情を鉄がしている。その様子に、自然に水森の緊張感も高まった。
「ほら、来たよ!」
鉄が指さすほうには、パーカー姿の男がいた。年齢は、二十代後半だろうか。スマホを片手にきょろきょろと周りを見回している。
「いや、アレ道に迷っただけじゃ」
「水森、黙ってろ。雑音になる」
鉄の真剣な声に、水森は口を閉じた。雑音とは何か、そもそもあの男が本当に外星人なのか。色々聞きたかったが、聞ける雰囲気ではなかった。
なんだかなぁ、と思いながら、パーカー男を見ていると、目が合った。男は水森を視認すると、ニタリと笑った。加虐的で、高圧的な笑みに、水森はぞわりとした。
こちらに近づいてくる男に、水森は逃げるべきか迷った。鉄は先ほどから微動だにしない。何かに集中するように目を閉じて、脂汗を流している。流石に置いて行くわけにはいかないが、本能があの男にこれ以上近寄られたらまずいと叫んでいる。
男がこちらまで後数メートルという距離まで近寄ったところで、水森は鉄の前に庇うように躍り出た。直前まで迷ったが、嘘のないこの先輩を見捨てられなかった。
来る、と感じ、水森は思わず目を閉じた。何か、過去にあった嫌な感情を炙り出されたような、そんな感覚だった。
それを打ち破ったのは、穂村の声だった。
「昨日振りです、鈴木様。水森さんの記憶、返して貰いましょうか」
「穂村さん……」
聞こえてきた声に、水森は目を開けた。穂村は、鈴木と呼ばれた男の肩を、後ろから掴んでいる。彼女の髪の色は、会社で見た時とは異なり銀に輝き、赤い角のようなものが生えていた。
「……記憶なくても、庇うんだな」
「砂噛さん!」
いつの間にか近くにいた砂噛が、鈴木と水森の間に入るように移動する。穂村と砂噛で挟み撃ちにする形である。
絶対絶命のはずだが、それでも男は余裕の笑みを浮かべ、スマホを操作し始めた。
「課長!避けて!」
鉄が叫んだ数瞬後、穂村は後ろへと飛んだ。数拍遅れて、男がスマホを穂村に向けるが、狙いが外れたらしく、舌打ちをすると逃げて行った。
「この……!」
「待って!」
追いかけようとする砂噛を止めたのは、鉄だった。
「課長。覚えた。忘れないうちに馬喰姉んとこ連れてって!」
「ああ、よくやったな」
息も絶えだえで目が血走っている鉄は明らかに力を酷使していた。それでも、自身の役割を果たすために、何とか意識を留めていた。
「鉄を連れて先に戻る。水森さんのことは頼んだ」
穂村は砂噛にそれだけ言うと、鉄を抱えて会社へと、文字通り跳んで帰って行った。
残された砂噛は、へたり込む水森に合わせるようにしゃがんだ。
「おい、大丈夫か?」
「あ、はい。平気で……」
そこまで言って、水森は頭を押さえた。急に、刺すような頭痛が彼を襲った。
「うぐっ……!」
くぐもった声を上げて、水森は地面に倒れた。意識が朦朧としてくる。
「おいっ、水森!」
薄れていく意識の中で、砂噛の声が遠くに聞こえた。
これは、夢だな、と水森は薄暗い視界の中で思った。
水森の夢は、いつも色彩が暗い。人によって、夢の中の色味というものが異なっており、完全にモノクロの者もいれば、極彩色の夢を見る者もいる、というのは聞いたことがある。彼の夢はモノクロまでいかないが、どこか全体的に色味が欠けていた。たまに、覚醒前に夢と気がつくと、薄暗い世界にげんなりするほどだった。
色味がかけた世界で、水森は一生懸命掃除をしていた。どこか見覚えのある部屋だったが、自分の部屋ではない。一体ここがどこで、なぜ自分は掃除機をかけているのか、全く理解できなかったが、不思議と嫌な気分はしなかった。
早く帰って来ないかな、と水森はうきうきした。そして次の瞬間、誰が?と疑問に思う。どうも、夢の中の設定がすんなり頭に入って来ない。その場その場の感情だけ先走ってしまい、自分なのに自分じゃない、そんな感覚に陥る。
ガチャリと、ドアの開く音がした。この部屋の主が帰ってきた、と水森は理解する。高揚する気持ちに動揺しつつ、水森の口は勝手に動いた。
「先輩……」
自分の声で水森は目を覚ました。妙な夢を見ていた気がするが、何も思い出せなかった。先輩とは、誰のことだろうか。
「お前……」
横から声がして、水森は視線だけそちらに向ける。見ると、砂噛がベッドの脇に座っていた。随分驚いた顔をしている。
「えっと、ここ会社ですよね?」
水森は慌てて身体を起こした。気を失う前の頭痛は消えていた。砂噛が会社の医務室まで運んでくれたのだろう。
無言のままの砂噛を訝しんで、水森は首を傾げた。何か変なことを言っただろうか。
次の瞬間、身体に強い衝撃を受け、水森は倒れかけた。背中に回る腕に、自分が抱きしめられていると一拍遅れて気がついた。
「水森……!」
強い力で抱きしめられたこともそうだが、水森が一番驚いたのは砂噛の声音である。必死な声がどこか震えていて、砂噛が泣いているのでは、水森は疑った。
「砂噛、さん?」
水森が、おずおずと声をかけると、勢いよく身体を離される。砂噛の目に涙はなかった。逆に、砂噛が驚いたようにこちらを凝視していたが、すぐに動揺を顔から消した。
「すまん……無事で良かった」
嘘はないが、また、何か隠された気がした。だが、水森はそれどころではなかった。抱きしめられた衝撃か、心臓がばくばくとうるさかった。
その後、医療班の診察を受けることとなり、砂噛が出ていくまで、胸の高鳴りは治らなかった。
昨日は、信じられないことばかりだった。気がついたら、見覚えのないオフィスにいて、上司だと名乗る美人に「お前の記憶は改竄されている」と急に言われたのだ。発言の内容には驚いたが、その言葉に嘘はなく、続けて話をされた外星人の存在についても、同様になんの臭いもしなかった。
信じざる終えない状況だったが、記憶を改竄されていると言われても、水森には身に覚えがないのだ。自分の記憶に欠けたところはなく、強いて言えば本屋のバイトに行く回数が、ある時期を境に急に増えたくらいだ。たしか、相澤が転校したくらいの時期だ。
美人な上司は、それが改竄で、本当は保険会社の調査員になっていた、と言っていた。嘘を見抜く能力のことも知られていた。自分がなぜそんなことを始めたのか、全く理解はできなかったが、ただ、この人は自分に今まで嘘をついたことがないんだろうな、と思った。
同僚と紹介されたのがギャルだったので、ちょっと疑いたくなったが、こちらも嘘をつくことはなかった。記憶のない水森を明るく笑い飛ばす姿を見て、少し緊張がほぐれた。二人ともいい上司に、いい先輩なんだろうな、と感じたが気を許すことはできなかった。嘘はなくても、自分の記憶にないことを、すんなりとは受け入れがたかった。
それだけでもキャパオーバー気味だったのに、また外星人が襲ってくる可能性が高いと言われた。え、オレ、結構やばい状況?と水森が内心冷や汗をかいていると、こいつが守ってくれるから、と砂噛を紹介された。
砂噛への第一印象は、やたら顔の良い人だな、だった。先ほどの上司やギャルといい、この会社は顔採用なのか?と、水森は割と失礼なことを考えていたが、それは表に出さずにヘラヘラ笑って挨拶した。よく分からないが、守ってもらえるというのなら、多少は愛想よくした方がいいかな、という打算もあった。
先輩だというその男から返されたのは、苦虫を噛み潰したような表情だった。
砂噛が起きて来たのは六時過ぎてからだった。守ってくれるらしいが、寝てて大丈夫なのか、と水森は訝しんだ。
「おはようございます」
「おはよう。やたら早く起きてたな」
砂噛の言葉に、水森は反射的に謝った。
「え、ごめんなさい。うるさかったですか?」
「いや、気配で分かる。気にすんな」
何でもないことのように言われ、どうやらちゃんと守られていたらしい、と水森は認識を改めた。
初対面の時の印象は最悪だったが、昨晩の会話で、砂噛も戸惑っていたのだと分かった。あれ以降、砂噛の態度も軟化しているように感じる。
なんだ、ちょっといい人じゃん、と水森の砂噛に対する好感度が少し上がった。
「砂噛さん、生活能力ないですよね?」
食パンを焼いただけの朝食を食べながら、水森は言った。本当に、焼いただけなのだ。バターもジャムもない。
昨日、というかこの部屋に来て、空のペットボトル落ちているの見た時から思っていたが、この部屋の主に家事の能力はない。昨晩飲んだビールの缶も洗わずに流しに放ってあったので、水森が今朝処理をした。
「……困ったことはない」
「いや、人来たとき困るでしょ、彼女とか」
砂噛は気まずげに目を逸らした。昨晩、恋人の話題を出したときもそうだったが、どうもこの話題の時だけ砂噛の返答は歯切れが悪い。嘘はついていないが、何か隠されていると感じる。
「……その恋人だよ」
「え?」
「部屋片付けてたの」
しぶしぶ、と言った様子で砂噛が言った。
「同棲してるんですか?」
だとしたら自分はかなりお邪魔虫では?と水森は心配になったが、していない、とあっさり否定された。
ただ、昨日砂噛が部屋を汚していくペースを見るに、相当高頻度で恋人が掃除していたな、と水森は推測した。
「えっと、つまり遊びにくるたびに恋人に部屋掃除させてるんですか?」
「そうなるな」
そうなるな、て。水森の中で上がったばかりの砂噛への好感度が下がった。
「家政婦かなんかだと思ってます?」
「違う!」
急に強く否定されて、水森は驚いてしまった。その様子を見て、砂噛は「怒鳴って悪かった」と謝罪する。
「家事をやってくれるのは助かっているが、別にそれ目当てじゃない」
まるで、恋人本人に言うかのように、真剣に見つめられ、気づくと水森は「わかりました」と頷いていた。
恋人がとっても愛されている、と言うことが伝わり、水森は、ちょっといいな、と思ってしまった。こんなに真剣に愛されるってどんな気分なんだろう、と。
「でも、次来る時彼女さんびっくりしませんか?オレ居たら」
「……お前が居る間は来ない予定だ」
嘘はない。だが何か隠されているな、と水森は感じ取り、それ以上追求しなかった。
今日は日曜日であるが、砂噛は出社するらしい。大変ですね、と言ったら、お前も来るんだよ、と呆れたように返される。曰く、脳の検査が今日もあるとのことで、会社に連れて行かれた。
検査が終わると、砂噛の姿はなく、代わりに昨日会ったギャルの先輩が待っていた。
「あ、水森だ。おつー」
「えっと、ギャルの……」
「ウチは鉄な」
今日の昼の護衛だから、よろぴく、とピースされる。内心、この人が護衛って大丈夫か、と思ったが口には出さずに、水森はピースを返した。
「ん、お前ちょっと犬っぽくなった?」
「人間ですが?」
「例えだよ!おんなじリアクションしやがって」
鉄の全力のツッコミにやや引きつつ、水森は、すみませんと謝った。当の鉄は、あまり気にしておらず、一人ごとのようにぶつぶつ呟いている。
「あれかな、ドラ男に絆されたんか。あの、仏頂面に……」
「ドラ男?」
「あ?ああ、さっきまで一緒にいたっしょ?」
どうやら砂噛のことらしい、と水森は理解した。由来は不明だが、あだ名で呼ぶくらいには二人は仲が良いのだろう。
鉄曰く、砂噛は昼は別件の用があるという。ちょっと残念だな、と感じ、水森は自分の感情の動きを意外に思った。昨日は警戒していたはずなのに、もう砂噛を信用してしまっている。自分はこんなに簡単に人を信じる人間だっただろうか?
考えこんでいる水森に、鉄は心配そうに声をかけた。
「ドラ男との生活、問題ない?あいつ何もできないっしょ、家事関係」
その口ぶりから、鉄が砂噛の部屋の惨状を知っていることが感じ取れた。
「え、鉄さんが砂噛さんの彼女なんですか?」
「んな訳あるか!」
鉄の剣幕に水森は気圧される。
「あいつの恋人に聞いたんだよ!」
怒鳴り過ぎて、鉄は肩で息をしている。よほど勘違いされたのが嫌だったらしく、顔を歪めている。
「部屋めっちゃ汚いし、料理も洗濯もできないから、自分が全部やってるって」
「それ、結構負担じゃないですか?」
純粋に、水森は疑問に思った。一緒に住んでもいないのに、そこまでしてやれるものなのだろうか?
「いや、楽しそーだったよ。ダメダメすぎてかわいーって言ってた」
成人男性に可愛いという感性は理解できなかったが、どうやらただのノロケらしい。
「どっちかっていうと、ドラ男が受け入れたことの方が意外だった」
「家事をですか?こだわりないって言ってましたよ」
「あいつ、こだわりっていうか、一切興味がないんだよ、生活に」
だから、恋人ができる前も、特にハウスキーパー等雇わなかったという。生きていければいい、という最低限の暮らしをしていた。それが、恋人によって変えられた。そして、その変化を砂噛は受け入れたのだ。
「すげー愛だよな」
「そ、そうですね」
聞いていて、なんとなく居心地が悪かった。え、オレここまで聞いちゃっていいのか、という罪悪感がある。ただ、砂噛の彼女というのがどんな人物か俄然興味が出てきた。好奇心には勝てず、水森は問いかけた。
「砂噛さんの彼女ってどんな人なんですか?」
「ドラ男の恋人?うーん……」
鉄は、ちょっと考えこんだ後、大真面目な顔で述べた。
「子犬だな」
相変わらず例えはよく分からなかったが、守ってあげたい感じでかわいいのかな、と水森は解釈した。
ずっと会社も気が滅入るから、昼ごはん外行こーぜ、と水森は半ば強引に外に連れ出された。
コーヒーチェーンでサンドウィッチをテイクアウトし、河原へと向かう。夏も終わり、ピクニックという気候でもないこの時期、河原には人気がなかった。
「あの、狙われてるのに外出ていいんですか?」
「狙われてるからだし」
水森からコーヒーを受け取りながら、鉄は答えた。
「どういう……」
水森の問いかけに答えず、鉄は髪をかき上げた。耳に見える白い耳栓を外して行く。おそらく、自分の耳に光る、ピアスと同種の機械であると水森は推測した。
「仲間もいない、戦闘能力も低い。そんな奴、わかりやすいくらいの隙がないと、出てこねーってこと」
会社では見せなかった、鋭い表情を鉄がしている。その様子に、自然に水森の緊張感も高まった。
「ほら、来たよ!」
鉄が指さすほうには、パーカー姿の男がいた。年齢は、二十代後半だろうか。スマホを片手にきょろきょろと周りを見回している。
「いや、アレ道に迷っただけじゃ」
「水森、黙ってろ。雑音になる」
鉄の真剣な声に、水森は口を閉じた。雑音とは何か、そもそもあの男が本当に外星人なのか。色々聞きたかったが、聞ける雰囲気ではなかった。
なんだかなぁ、と思いながら、パーカー男を見ていると、目が合った。男は水森を視認すると、ニタリと笑った。加虐的で、高圧的な笑みに、水森はぞわりとした。
こちらに近づいてくる男に、水森は逃げるべきか迷った。鉄は先ほどから微動だにしない。何かに集中するように目を閉じて、脂汗を流している。流石に置いて行くわけにはいかないが、本能があの男にこれ以上近寄られたらまずいと叫んでいる。
男がこちらまで後数メートルという距離まで近寄ったところで、水森は鉄の前に庇うように躍り出た。直前まで迷ったが、嘘のないこの先輩を見捨てられなかった。
来る、と感じ、水森は思わず目を閉じた。何か、過去にあった嫌な感情を炙り出されたような、そんな感覚だった。
それを打ち破ったのは、穂村の声だった。
「昨日振りです、鈴木様。水森さんの記憶、返して貰いましょうか」
「穂村さん……」
聞こえてきた声に、水森は目を開けた。穂村は、鈴木と呼ばれた男の肩を、後ろから掴んでいる。彼女の髪の色は、会社で見た時とは異なり銀に輝き、赤い角のようなものが生えていた。
「……記憶なくても、庇うんだな」
「砂噛さん!」
いつの間にか近くにいた砂噛が、鈴木と水森の間に入るように移動する。穂村と砂噛で挟み撃ちにする形である。
絶対絶命のはずだが、それでも男は余裕の笑みを浮かべ、スマホを操作し始めた。
「課長!避けて!」
鉄が叫んだ数瞬後、穂村は後ろへと飛んだ。数拍遅れて、男がスマホを穂村に向けるが、狙いが外れたらしく、舌打ちをすると逃げて行った。
「この……!」
「待って!」
追いかけようとする砂噛を止めたのは、鉄だった。
「課長。覚えた。忘れないうちに馬喰姉んとこ連れてって!」
「ああ、よくやったな」
息も絶えだえで目が血走っている鉄は明らかに力を酷使していた。それでも、自身の役割を果たすために、何とか意識を留めていた。
「鉄を連れて先に戻る。水森さんのことは頼んだ」
穂村は砂噛にそれだけ言うと、鉄を抱えて会社へと、文字通り跳んで帰って行った。
残された砂噛は、へたり込む水森に合わせるようにしゃがんだ。
「おい、大丈夫か?」
「あ、はい。平気で……」
そこまで言って、水森は頭を押さえた。急に、刺すような頭痛が彼を襲った。
「うぐっ……!」
くぐもった声を上げて、水森は地面に倒れた。意識が朦朧としてくる。
「おいっ、水森!」
薄れていく意識の中で、砂噛の声が遠くに聞こえた。
これは、夢だな、と水森は薄暗い視界の中で思った。
水森の夢は、いつも色彩が暗い。人によって、夢の中の色味というものが異なっており、完全にモノクロの者もいれば、極彩色の夢を見る者もいる、というのは聞いたことがある。彼の夢はモノクロまでいかないが、どこか全体的に色味が欠けていた。たまに、覚醒前に夢と気がつくと、薄暗い世界にげんなりするほどだった。
色味がかけた世界で、水森は一生懸命掃除をしていた。どこか見覚えのある部屋だったが、自分の部屋ではない。一体ここがどこで、なぜ自分は掃除機をかけているのか、全く理解できなかったが、不思議と嫌な気分はしなかった。
早く帰って来ないかな、と水森はうきうきした。そして次の瞬間、誰が?と疑問に思う。どうも、夢の中の設定がすんなり頭に入って来ない。その場その場の感情だけ先走ってしまい、自分なのに自分じゃない、そんな感覚に陥る。
ガチャリと、ドアの開く音がした。この部屋の主が帰ってきた、と水森は理解する。高揚する気持ちに動揺しつつ、水森の口は勝手に動いた。
「先輩……」
自分の声で水森は目を覚ました。妙な夢を見ていた気がするが、何も思い出せなかった。先輩とは、誰のことだろうか。
「お前……」
横から声がして、水森は視線だけそちらに向ける。見ると、砂噛がベッドの脇に座っていた。随分驚いた顔をしている。
「えっと、ここ会社ですよね?」
水森は慌てて身体を起こした。気を失う前の頭痛は消えていた。砂噛が会社の医務室まで運んでくれたのだろう。
無言のままの砂噛を訝しんで、水森は首を傾げた。何か変なことを言っただろうか。
次の瞬間、身体に強い衝撃を受け、水森は倒れかけた。背中に回る腕に、自分が抱きしめられていると一拍遅れて気がついた。
「水森……!」
強い力で抱きしめられたこともそうだが、水森が一番驚いたのは砂噛の声音である。必死な声がどこか震えていて、砂噛が泣いているのでは、水森は疑った。
「砂噛、さん?」
水森が、おずおずと声をかけると、勢いよく身体を離される。砂噛の目に涙はなかった。逆に、砂噛が驚いたようにこちらを凝視していたが、すぐに動揺を顔から消した。
「すまん……無事で良かった」
嘘はないが、また、何か隠された気がした。だが、水森はそれどころではなかった。抱きしめられた衝撃か、心臓がばくばくとうるさかった。
その後、医療班の診察を受けることとなり、砂噛が出ていくまで、胸の高鳴りは治らなかった。
