八月は急ブレーキ

 八月の第一週の金曜日。スマホを片手に持った恋人が砂噛の家を訪ねてきた。駅から走ってきたのか、息を切らした水森をソファに座らせて、砂噛は問いかけた。
「どうだった?」
 息を整えた水森は、スマホの画面を見せながら、満面の笑みを見せた。
「合格してました!」
 
 水森が春先からずっと勉強してきた資格試験。その試験結果が今日出たのだ。
 砂噛も試験日程や合否発表の日付けは把握していたが、こちらから聞くことはできていなかった。変に緊張させても申し訳ないし、落ちていた場合は一人になりたいかもしれないという気遣いだったが、杞憂だったようだ。
 こちらの退勤に合わせてわざわざ家まで来たということは、おそらく合否の発表以外にも、水森はしたいことがある、と砂噛は踏んでいた。二人の間で取り決めたこと。合格するまで手を出さない、という約束が今日を持って無くなる。
 砂噛も、それを意識していた。だが、合格したから、はい、手を出します、というのはいささかがっつきすぎではないか、と言葉にできずにいた。本音を言えば、今すぐにでも押し倒してしまいたいと思うのだが、現実はそうもいかない。
「先輩、もう、なんでもできますね」
 晴れ晴れと笑う恋人の顔は達成感に満ち溢れている。水森の目にそういった欲は全く見られない。なんでもって、意味わかってんのかこいつ。
 ソファに並んで座ったまま、水森がこちらににじり寄ってくる。
「……おい」
「せっかくだから、ね?」
「待て、焦んな」
 どこまでを想定してる?それがわからず、恋人を静止すると、水森は不満げに口を尖らせた。
「いいじゃないですか、キスくらい」
 なんだキスだけか。思わず落胆してしまい、慌てて砂噛は邪念を振り払った。水森を止めているつもりが、自分の方がその気になっていた。
 そんな気持ちを全て隠し、聞き分けのいい大人のふりをして、砂噛は頷いて見せた。
「わかった、キスだけな」
 水森の表情が一気に明るくなる。嬉しそうに何度も頷く様子を見ながら、砂噛は恋人の頬に手を添えた。
「ほら、目、閉じろよ」
「はーい」
 素直に閉じられた瞼を確認して、砂噛は水森に口付けた。軽く、触れる程度で離した後、柔らかい唇が名残り惜しくなって、もう一度触れる。
 ようやくここまで来たんだ。そう思うとなんだか感慨深かった。
「先輩、砂噛先輩」
「好きです」
「好き、大好き」
 触れるだけのキスの合間に、水森がつぶやく。感極まったといった様子で、拙い語彙で伝えられる言葉は、彼の本音であることは明白だった。首に縋りつくように抱きつかれ、何度もキスをねだられる。
 繰り返される愛の言葉に、砂噛の頭は痺れていった。もう、なんの我慢もしなくていいはずだ。変な見栄で大人ぶってしまったが、本当はもっと。
 児戯のような触れ合いがもどかしくなって、砂噛は恋人の後頭部に手を伸ばした。
 そのまま、ぐっと力を入れて、頭を固定する。合わせた唇を少し離し、下唇を甘噛みすると、驚いた恋人が体を捩ろうとするがそれを許さずに、唇の弾力を数回楽しんだ。それでも、足りないなと感じてしまい、開いている口に舌を差し込む。
 先ほどよりも大きく動いた身体を逃すまいと、背中にも手を回し、物理的に距離を取れないようにする。無遠慮に押し入った水森の口内は熱く、そのことがより砂噛を興奮させた。
 上顎を舌で撫ぜるようにたどると、びくりと体が跳ねるのを感じた。面白くなって、何度かゆっくりと往復するように舌を動かすと、水森の手が砂噛の背中を叩いた。
 仕方なく唇を離すと、涙目の水森と目が合った。何か言いたげだが、うまく言葉にできないのか、口を開いては閉じる、を繰り返している。涙に濡れるその瞳は、戸惑いと快楽で揺れており、砂噛の嗜虐的な部分をくすぐった。
 背中に回した手をそのままに、体重をかけていくと、砂噛と水森はソファに倒れ込んだ。ちょうど目に入った恋人の耳が、真っ赤に染まっているのが愛おしく、欲望のままに舌を這わせた。
「っ……」
 水森の口から吐息が漏れる。何かに耐えるようなそれに気を良くし、砂噛はそのまま首元までキスを降らす。わざとリップ音を出すと、自分の下の恋人が小さく震えた。
 早く、この後輩の全てが欲しい。そんな考えが砂噛の心を占めていく。背中に回していた手を腰に這わせる。直接肌に触れたくなり、シャツをたくしあげようとした時だった。
「嘘つき……」
 小さいが、確かに抗議の声が聞こえた。砂噛が体を起こすと、目に涙を溜めた後輩がこちらを弱々しく睨みつけている。
「キスだけって、言ったのに」
 その言葉を受けて、砂噛はようやく我に返った。
 
  
 と、言ったことがあったのが、先週の金曜日である。砂噛はあの後、どうやって水森を家に帰したか覚えていない。思い返そうにも、その直前までの水森の恥ずかしげな表情や控えめな吐息が頭を占めて、答えに辿り着けないのだ。
 なんとか理性を取り戻しあれ以上のことをしなかったのは、我ながらがんばったと思っているが、水森に次会うのが怖かった。
 がっついて押し倒すとか、十代か俺は、と砂噛は自分の行動を思い返すたび、羞恥に苦しんだ。だが、どうしても我慢できなかったのだ。素直に愛を伝えてくる様子は可愛らしかったし、こちらの与える刺激に初心な反応を示す様は、嗜虐心を煽った。
 もし、あのまま続けていたら、きっと相手が泣いてもやめられなくなっていた。そう思うとぞっとしてしまう。
 怖がらせたことへの罪悪感と、嫌われたかもという恐怖で、休日は悶々と過ごした。すぐにでも謝りたい、という気持ちと、本音を聞くのが怖いという臆病さが拮抗し、結局何も行動は起こせなかった。
 その分、月曜日の恐怖といったらなかった。水森の夏休みが始まったこともあり、最近は朝から出社していることは知っていた。顔を合わせた瞬間怯えられたらどうしよう。そんな気持ちでいっぱいだった。
 憂鬱な気持ちでドアを開くと、まさに気まずいと思っていた相手とばっちり目があってしまう。
「あ……、おはようございます」
「……おはよう」
 普段であれば、ぱっと明るい顔を見せて挨拶してくれる後輩。それが、今日は気まずそうに目を逸らしながら、小声で呟いている。その表情に怯えは見られないが、どう見ても先週のことを引きずっている。
 砂噛は改めて、過去の己の行いを悔いた。なんであんなことしてしまったんだ。正直仕事どころではない。
 だが、仕事をしている水森を連れ出すわけにもいかないことは砂噛も理解している。メールで謝罪するのは何か違う気がして、なんとか二人きりになる機会を伺いながら、その日の仕事を進めていった。
 
 昼休みになって、ようやくその機会に恵まれた。部屋を出ていこうとする水森を捕まえて、話がしたいと告げると水森は逡巡したもののやがて頷いた。
 適当な会議室に連れ込んで、向かい合って座る。一見すると面談のようだが、話す中身は仕事とは全くない恋人としてのことだ。褒められたことではないのは重々承知しているが、今だけは見逃してほしい、と砂噛は誰に対するでもなく言い訳をした。
 恋人は、しきりに座り直したり、指を組んだりと落ち着かない様子だ。自分を襲った相手と密室にいるのが怖いのかもしれない、と思い至り砂噛は絞り出すように謝罪の言葉を口にした。
「悪かったよ……」
「え?」
「この前の週末、本当に申し訳ないことをしたと思っている」
 ああ、と合点がいった顔で、水森は頷いている。そして、少し目を伏せて暗い声でこう答えた。
「オレのほうこそ、ごめんなさい」
 何に対する謝罪かわからずにいると、水森は言葉を重ねた。
「なんでもできますね、なんて言いながら途中で止めちゃって」
「いや……怖がらせた、オレが悪いだろ」
「でも、オレ、ちゃんと覚悟してたつもりだったのに」
 堂々巡りだ。お互いに自分が悪いと言って譲らない。砂噛が静かに息を吐くと、水森がびくりと肩を揺らした。
「とにかく、お前は悪くないから」
 そう言い切ると、恋人は納得していない顔でこちらを見てくる。だが、砂噛はそれを無視して「奢ってやるから昼飯に行こう」と立ち上がった。これ以上の反論を聞く気はなかった。
 その後の食事は、会話も弾まず、地獄のような雰囲気だった。
 

1/4ページ
スキ