海の日は試験期間
七月の第三月曜日。海の日と言う名の祝日は、海に行けと急かしているように感じるが、あいにく明日予定している試験のせいでそれどころではなかった。よりにもよって、暗記系の科目が三つ重なっている。外には綺麗な青空が広がっているのに、自分は部屋の中で勉強というのが辛い。
さすがに今週末は砂噛の家に行って勉強するような余裕はなかった。大学でのゴタゴタもあり、試験勉強が滞っていた、というのもあるが割と水森は切羽詰まっていた。それでも、三連休を消費した甲斐があって、ようやく希望が見えてきた。
必修科目については割と真面目に授業を受けているし、一般教養は試験時間内にレポートのようなものを書かされるだけだ。意外と厄介なのが語学で、第二言語(水森はフランス語を選択した)の単位は卒業に必ず必要で、一年の前期に落とすと、二年以降の必修科目との兼ね合いで非常に時間割を組みにくくなる。こちらについては友人の伝手で過去問を手に入れてはいるが、基本的な単語やら文法やらは覚えなくてはならない。
それにも、ようやく目処がついた。あとは、明日の朝大学で少し目を通すくらいで問題ないだろう。単位を落とすことはないはずだ。
よし、とノートを閉じて、水森は身支度を始めた。勉強は終わりだ。せっかくの三連休、少しだけでも恋人に会いたい。その一心で今朝、砂噛を夕食に誘った。恋人の返事は「別にいいけど」というそっけないものだったが、水森はこの約束を励みに今日の勉強を進めてきた。
私服で会うなんて、何度もしているし、今更服に悩むなんて、と思わないでもない。それでも水森は、出かけるギリギリまでどんな服装にするか悩み、結局おろしたてのTシャツを選んだ。そんなことをしていたものだから、待ち合わせの場所に着いたのは、時間ギリギリだった。
恋人はすでに到着していて、駅前のベンチに座っている。赤く染まり始めた空の下、眩しそうに目を細めているのが見えた。
姿を見つけただけで、嬉しくなってしまう。つい先日、会ったばかりなのに、こんなにも新鮮に喜びを覚える。ああ、自分はこの人のことが好きなんだ、と改めて感じながら水森は砂噛の元へと駆け寄った。
◇◇◇
夕方十七時という、夕食には少し早い時間に入ったのは、沖縄料理の店だった。昼は定食を出し、夜は居酒屋になるタイプの店で、今の時間の客足はまばらだ。
「お前、飲める年齢でもないくせに、よくここ選んだな」
「だって、この前SNSで見たラフテーって料理食べたくて」
呆れたように話す砂噛に、水森は反論した。目当ての料理は、明らかにつまみとしてメニューに載っているが気にしない。締めのご飯ものと、あと何品か頼めば、食事として成り立つだろう。
「先輩、お酒飲みます?」
「やめとく。流石に時間早いし」
嘘、とまでは言わないが、本音じゃないな、と感じた。気を遣ってくれているのだと感じて、水森は嬉しくなった。
「なんだ、楽しそうだな」
「だって、デートですもん」
「デートね。食事だけだがな」
皮肉な口調とは裏腹に、砂噛は真剣にメニューを見ている。なんだかんだ、楽しんでくれているようだ。
誘って良かった。そう素直に感じながら、水森もメニューに目を落とした。
酒は注文していなくても、お通しがでてくるのが居酒屋らしい。シンプルに盛られただけの海ブドウをつつきながら、注文した他の料理がくるまで取り止めのない話をぽつぽつとする。二人は、恋人である前に仕事仲間だ。仕事の話題が多いのは常であったし、その話題が出てきたのは、ごく自然な流れだった。
「お前が担当してた顧客、鉄に担当変わってたな」
「あー……、はい」
水森は曖昧に頷いた。業務内容は課の中で共有されるので、砂噛も担当者の変更や、面談の日程などは把握している。だが、細かい話は特に伝えてはいなかった。
「まぁ、いろいろありまして」
本当に、いろいろあった。思い出すだけでも疲れるような、そんな顛末だった。
鉄に惚れたと公言した男は、本気だった。鉄に言われるがまま、泣いている恋人に謝罪(というか土下座)をし、その場に呼び出した鉄のギャル友達とも(二、三回殴られた後)和解した。
目の前で見せられた、ひどい絵面に水森はMESの起動も忘れていた。印象操作をしなかった結果、周りにはギャラリーができ、気がつけば輪になるように人に囲まれていた。ギャルに詰められ土下座する男子大学生なんて、滅多に見れるものではない。みんな授業なんてそっちのけで、好奇心に満ちた目を向けてくる。
そんな周囲を気にせずに、男は恋に溶けた目をして鉄を一心に見つめている。対する鉄は彼女にしては珍しく、表情の削ぎ落とされた顔をして、男を見下ろしていた。
「ウチ、軽い男マジでNだから」
夏にも関わらず、水森は寒気を感じた。もはや蚊帳の外になってしまった、男の彼女も隣で青ざめている。分かる、怖いよな、と水森は同情した。一方で、男は打たれ強かった。というよりもむしろ、鉄の言葉に喜んでいる節がある。なんだろう、何か開けてはいけない性癖の扉が開いている気がする。
「あなたのためなら、ボクは変われます!見ていてください」
「お前をずっと見とくほど、ウチ、暇じゃないんだけど」
それから「水森」とこちらにう呼びかけてくる。急なことに、水森はびくりと飛び上がった。
「はい、すみません!」
「……何でお前が謝ってんの。コイツの担当、ウチがやるよ」
「え、いいんスか?」
正直、助かる。水森は相変わらずこの男のことが苦手だし、今となってはなんだか気持ち悪ささえ感じている。そんな厄介な相手から離れられるのは嬉しいが、面倒ごとを押し付けているようで申し訳なさも感じてしまう。
「コイツの性根、ウチが叩き直してやんよ」
鉄は不機嫌なまま吐き捨てるように言った。友人を傷つけられたこと、先ほどまでの身勝手な言動、全てが彼女にとって不快なのだろう。だが、彼女は関わりを断たずに、正しい方向に導くという。おせっかいといえばそれまでだが、彼女の正義感と義憤からなる行動に、水森は感動した。言動は荒っぽいと思うが。
「おい、面談は月一だけど、隠れて遊ぼうなんて考えるなよ。水森も見てるからな」
「はい、もちろんです!」
いや、多分もう大学では遊べないだろうな、と水森は周囲を見渡した。ギャルに責められて興奮している男の姿を、大学の面々は面白そうに眺めている。中には動画を撮っている者もいて、今、この場にいない人にも拡散されるだろう。幸い、周囲に人だかりができてからは、外星の話は出ていないので、印象操作や記憶改竄の必要性はなさそうだ。つまり、男の醜態だけ、ただひたすら拡散されることになる。
この様子を見て、男と遊びたいと思う人は、いないだろう。水森の隣に立つ女性も、汚いものを見るような目で男のことを見ている。
「あの……まだ未練あります?」
「いえ、もう別れます」
嘘の妊娠を仄めかしてまで繋ぎ止めようとした相手に対して、女はドライに言い放った。完全に冷めたようだ。
おっかないな、と口には出さずに水森は感じた。
「いろいろってなんだよ?」
砂噛の問いかけに水森は回想から意識を戻した。どこまで言ったものか。口に出してしまうと、バカバカしいオチなのだが、ここに行き着くまでに水森は大層悩まされたし、あの女の人も泣いていた。笑い話にして消費するのも違う気がする。
「えーっと……顧客の性格上の問題を改善するのに、鉄先輩が必要、みたいな」
「意味わかんねぇけど。まぁ、課長がOK出してんだから、オレがどうこう言う話じゃないな」
ゴニョゴニョと濁すと、砂噛はそれ以上深くは聞いてこなかった。もともとそこまで興味がないのか、それとも、こちらの意図を汲んだのか。いずれにせよ追及が止んだことに、水森は胸を撫で下ろした。
◇◇◇
運ばれてきた料理をあらかた食べ終えてしまい、残るはウーロン茶のみになった。これを飲み終わったら、お開きだろう。
水森がちびちびとグラスを傾けていると、「そういえば」と砂噛の方から話しかけられた。向こうのグラスはすでに空だ。
「お前、最近ずっと大学にかかりきりだけど、資格の方の勉強進んでんのか?」
「うっ……」
それを聞かれると、自信を持って頷けない。この時期試験があることは分かっていたので、先月割と力を入れて勉強していたが、端から忘れていっている気がする。事故時の保険適用についての制度が入っていた場所に、今はフランス語の単語が入っている。そんな感覚だ。
急に言葉に詰まった水森を見て、砂噛は呆れたように眉をゆがめた。
「テクニックがどうのって言う前に、受かるようにしろよ」
「わ、分かってますよ」
受からなければ、そういうことは出来ない。加えて、自身のみならず、砂噛の社内評価にも影響が出てしまう。ただの資格試験だったはずなのに、なんだかいろんなものが乗っかってきてしまった。
「大学の試験終わった一週間後に、資格試験っス」
「八月頭だったな」
水森は頷いた。試験が終わって、周りが遊びほうける中、自分だけが勉強を続けると思うと今からうんざりする。その一方で、一週間で抜けてしまった知識を覚え直すことができるのか、と不安にもなった。
沈んだ顔でため息をつくと、元気づけるつもりなのか「なんか適当に選べ」、と砂噛からデザートメニューを手渡される。アイスクリームを選んで、注文を終えると、砂噛の方から話しかけられた。
「……試験終わるまでは会えないな、さすがに」
「そう、ですね」
資格試験に向けた追い込みは、一人で行いたい。切羽詰まると、イライラすることもあるし、そんな様子で恋人に当たりたくもなかった。いつも、休日に会っていたので、それを二、三回スキップするだけの話だ。それだけだとはわかっているが、寂しさを感じてしまう。
それは、目の前に座る恋人も同じようだった。デザートのアイスクリームが届いても、二人の会話は弾むことはなかった。
◇◇◇
店から出てもまだ外は明るい。流石に日は沈んだようだが、まだ空には明るさが残っていた。
明日は平日だ。水森は学校で試験だし、砂噛も仕事がある。もともと、食事の約束しかしていなかったので、ここで解散だ。
次にプライベートで会うのは、資格試験が終わった後になる。仕事で顔を合わせるかは分からないが、こんな風にのんびり話す時間はないだろう。そう思うと、名残惜しいような、寂しいような。過ごした時間が楽しいほど、別れが辛くなってしまう。
「先輩」
「なんだよ」
特に何を言いたい、というわけでもなく、呼びかけてしまった。怪訝そうな顔の恋人からは、自分が感じているような感傷は読み取れない。こんな時は、何かわかりやすい言葉が欲しくなってしまう。さすがに往来で「好きって言って」などとは言えず、水森は別のことを口にした。
「なんか、応援の言葉ください」
「ねだるような言葉じゃないだろ」
砂噛は苦笑しながらも、少し考えるように腕を組んだ。がんばれ、とかシンプルな言葉が来るかな、と思っていたので、恐縮してしまう。どんな言葉が来るのか緊張しながら待っていると、砂噛が口を開いた。
「まぁ、あれだけやってたんだ。お前なら大丈夫だろ」
応援と言っていいのかわからない言葉だった。だが、これまでずっと、水森の勉強に付き合ってくれていた恋人から、と考えると信頼と言っていい言葉だ。単純なもので、先ほどまでの寂しさや不安は消えて、全てうまくいく気がしてきた。
「ありがとうございます。オレ、がんばるんで!」
水森は、満面の笑みを恋人に返した。
長かった試験までの準備期間も終わる。八月に入ったら、いよいよ本番だ。恋人の信頼に応えるためにも、受かろう、絶対に。水森は改めて決意した。
さすがに今週末は砂噛の家に行って勉強するような余裕はなかった。大学でのゴタゴタもあり、試験勉強が滞っていた、というのもあるが割と水森は切羽詰まっていた。それでも、三連休を消費した甲斐があって、ようやく希望が見えてきた。
必修科目については割と真面目に授業を受けているし、一般教養は試験時間内にレポートのようなものを書かされるだけだ。意外と厄介なのが語学で、第二言語(水森はフランス語を選択した)の単位は卒業に必ず必要で、一年の前期に落とすと、二年以降の必修科目との兼ね合いで非常に時間割を組みにくくなる。こちらについては友人の伝手で過去問を手に入れてはいるが、基本的な単語やら文法やらは覚えなくてはならない。
それにも、ようやく目処がついた。あとは、明日の朝大学で少し目を通すくらいで問題ないだろう。単位を落とすことはないはずだ。
よし、とノートを閉じて、水森は身支度を始めた。勉強は終わりだ。せっかくの三連休、少しだけでも恋人に会いたい。その一心で今朝、砂噛を夕食に誘った。恋人の返事は「別にいいけど」というそっけないものだったが、水森はこの約束を励みに今日の勉強を進めてきた。
私服で会うなんて、何度もしているし、今更服に悩むなんて、と思わないでもない。それでも水森は、出かけるギリギリまでどんな服装にするか悩み、結局おろしたてのTシャツを選んだ。そんなことをしていたものだから、待ち合わせの場所に着いたのは、時間ギリギリだった。
恋人はすでに到着していて、駅前のベンチに座っている。赤く染まり始めた空の下、眩しそうに目を細めているのが見えた。
姿を見つけただけで、嬉しくなってしまう。つい先日、会ったばかりなのに、こんなにも新鮮に喜びを覚える。ああ、自分はこの人のことが好きなんだ、と改めて感じながら水森は砂噛の元へと駆け寄った。
◇◇◇
夕方十七時という、夕食には少し早い時間に入ったのは、沖縄料理の店だった。昼は定食を出し、夜は居酒屋になるタイプの店で、今の時間の客足はまばらだ。
「お前、飲める年齢でもないくせに、よくここ選んだな」
「だって、この前SNSで見たラフテーって料理食べたくて」
呆れたように話す砂噛に、水森は反論した。目当ての料理は、明らかにつまみとしてメニューに載っているが気にしない。締めのご飯ものと、あと何品か頼めば、食事として成り立つだろう。
「先輩、お酒飲みます?」
「やめとく。流石に時間早いし」
嘘、とまでは言わないが、本音じゃないな、と感じた。気を遣ってくれているのだと感じて、水森は嬉しくなった。
「なんだ、楽しそうだな」
「だって、デートですもん」
「デートね。食事だけだがな」
皮肉な口調とは裏腹に、砂噛は真剣にメニューを見ている。なんだかんだ、楽しんでくれているようだ。
誘って良かった。そう素直に感じながら、水森もメニューに目を落とした。
酒は注文していなくても、お通しがでてくるのが居酒屋らしい。シンプルに盛られただけの海ブドウをつつきながら、注文した他の料理がくるまで取り止めのない話をぽつぽつとする。二人は、恋人である前に仕事仲間だ。仕事の話題が多いのは常であったし、その話題が出てきたのは、ごく自然な流れだった。
「お前が担当してた顧客、鉄に担当変わってたな」
「あー……、はい」
水森は曖昧に頷いた。業務内容は課の中で共有されるので、砂噛も担当者の変更や、面談の日程などは把握している。だが、細かい話は特に伝えてはいなかった。
「まぁ、いろいろありまして」
本当に、いろいろあった。思い出すだけでも疲れるような、そんな顛末だった。
鉄に惚れたと公言した男は、本気だった。鉄に言われるがまま、泣いている恋人に謝罪(というか土下座)をし、その場に呼び出した鉄のギャル友達とも(二、三回殴られた後)和解した。
目の前で見せられた、ひどい絵面に水森はMESの起動も忘れていた。印象操作をしなかった結果、周りにはギャラリーができ、気がつけば輪になるように人に囲まれていた。ギャルに詰められ土下座する男子大学生なんて、滅多に見れるものではない。みんな授業なんてそっちのけで、好奇心に満ちた目を向けてくる。
そんな周囲を気にせずに、男は恋に溶けた目をして鉄を一心に見つめている。対する鉄は彼女にしては珍しく、表情の削ぎ落とされた顔をして、男を見下ろしていた。
「ウチ、軽い男マジでNだから」
夏にも関わらず、水森は寒気を感じた。もはや蚊帳の外になってしまった、男の彼女も隣で青ざめている。分かる、怖いよな、と水森は同情した。一方で、男は打たれ強かった。というよりもむしろ、鉄の言葉に喜んでいる節がある。なんだろう、何か開けてはいけない性癖の扉が開いている気がする。
「あなたのためなら、ボクは変われます!見ていてください」
「お前をずっと見とくほど、ウチ、暇じゃないんだけど」
それから「水森」とこちらにう呼びかけてくる。急なことに、水森はびくりと飛び上がった。
「はい、すみません!」
「……何でお前が謝ってんの。コイツの担当、ウチがやるよ」
「え、いいんスか?」
正直、助かる。水森は相変わらずこの男のことが苦手だし、今となってはなんだか気持ち悪ささえ感じている。そんな厄介な相手から離れられるのは嬉しいが、面倒ごとを押し付けているようで申し訳なさも感じてしまう。
「コイツの性根、ウチが叩き直してやんよ」
鉄は不機嫌なまま吐き捨てるように言った。友人を傷つけられたこと、先ほどまでの身勝手な言動、全てが彼女にとって不快なのだろう。だが、彼女は関わりを断たずに、正しい方向に導くという。おせっかいといえばそれまでだが、彼女の正義感と義憤からなる行動に、水森は感動した。言動は荒っぽいと思うが。
「おい、面談は月一だけど、隠れて遊ぼうなんて考えるなよ。水森も見てるからな」
「はい、もちろんです!」
いや、多分もう大学では遊べないだろうな、と水森は周囲を見渡した。ギャルに責められて興奮している男の姿を、大学の面々は面白そうに眺めている。中には動画を撮っている者もいて、今、この場にいない人にも拡散されるだろう。幸い、周囲に人だかりができてからは、外星の話は出ていないので、印象操作や記憶改竄の必要性はなさそうだ。つまり、男の醜態だけ、ただひたすら拡散されることになる。
この様子を見て、男と遊びたいと思う人は、いないだろう。水森の隣に立つ女性も、汚いものを見るような目で男のことを見ている。
「あの……まだ未練あります?」
「いえ、もう別れます」
嘘の妊娠を仄めかしてまで繋ぎ止めようとした相手に対して、女はドライに言い放った。完全に冷めたようだ。
おっかないな、と口には出さずに水森は感じた。
「いろいろってなんだよ?」
砂噛の問いかけに水森は回想から意識を戻した。どこまで言ったものか。口に出してしまうと、バカバカしいオチなのだが、ここに行き着くまでに水森は大層悩まされたし、あの女の人も泣いていた。笑い話にして消費するのも違う気がする。
「えーっと……顧客の性格上の問題を改善するのに、鉄先輩が必要、みたいな」
「意味わかんねぇけど。まぁ、課長がOK出してんだから、オレがどうこう言う話じゃないな」
ゴニョゴニョと濁すと、砂噛はそれ以上深くは聞いてこなかった。もともとそこまで興味がないのか、それとも、こちらの意図を汲んだのか。いずれにせよ追及が止んだことに、水森は胸を撫で下ろした。
◇◇◇
運ばれてきた料理をあらかた食べ終えてしまい、残るはウーロン茶のみになった。これを飲み終わったら、お開きだろう。
水森がちびちびとグラスを傾けていると、「そういえば」と砂噛の方から話しかけられた。向こうのグラスはすでに空だ。
「お前、最近ずっと大学にかかりきりだけど、資格の方の勉強進んでんのか?」
「うっ……」
それを聞かれると、自信を持って頷けない。この時期試験があることは分かっていたので、先月割と力を入れて勉強していたが、端から忘れていっている気がする。事故時の保険適用についての制度が入っていた場所に、今はフランス語の単語が入っている。そんな感覚だ。
急に言葉に詰まった水森を見て、砂噛は呆れたように眉をゆがめた。
「テクニックがどうのって言う前に、受かるようにしろよ」
「わ、分かってますよ」
受からなければ、そういうことは出来ない。加えて、自身のみならず、砂噛の社内評価にも影響が出てしまう。ただの資格試験だったはずなのに、なんだかいろんなものが乗っかってきてしまった。
「大学の試験終わった一週間後に、資格試験っス」
「八月頭だったな」
水森は頷いた。試験が終わって、周りが遊びほうける中、自分だけが勉強を続けると思うと今からうんざりする。その一方で、一週間で抜けてしまった知識を覚え直すことができるのか、と不安にもなった。
沈んだ顔でため息をつくと、元気づけるつもりなのか「なんか適当に選べ」、と砂噛からデザートメニューを手渡される。アイスクリームを選んで、注文を終えると、砂噛の方から話しかけられた。
「……試験終わるまでは会えないな、さすがに」
「そう、ですね」
資格試験に向けた追い込みは、一人で行いたい。切羽詰まると、イライラすることもあるし、そんな様子で恋人に当たりたくもなかった。いつも、休日に会っていたので、それを二、三回スキップするだけの話だ。それだけだとはわかっているが、寂しさを感じてしまう。
それは、目の前に座る恋人も同じようだった。デザートのアイスクリームが届いても、二人の会話は弾むことはなかった。
◇◇◇
店から出てもまだ外は明るい。流石に日は沈んだようだが、まだ空には明るさが残っていた。
明日は平日だ。水森は学校で試験だし、砂噛も仕事がある。もともと、食事の約束しかしていなかったので、ここで解散だ。
次にプライベートで会うのは、資格試験が終わった後になる。仕事で顔を合わせるかは分からないが、こんな風にのんびり話す時間はないだろう。そう思うと、名残惜しいような、寂しいような。過ごした時間が楽しいほど、別れが辛くなってしまう。
「先輩」
「なんだよ」
特に何を言いたい、というわけでもなく、呼びかけてしまった。怪訝そうな顔の恋人からは、自分が感じているような感傷は読み取れない。こんな時は、何かわかりやすい言葉が欲しくなってしまう。さすがに往来で「好きって言って」などとは言えず、水森は別のことを口にした。
「なんか、応援の言葉ください」
「ねだるような言葉じゃないだろ」
砂噛は苦笑しながらも、少し考えるように腕を組んだ。がんばれ、とかシンプルな言葉が来るかな、と思っていたので、恐縮してしまう。どんな言葉が来るのか緊張しながら待っていると、砂噛が口を開いた。
「まぁ、あれだけやってたんだ。お前なら大丈夫だろ」
応援と言っていいのかわからない言葉だった。だが、これまでずっと、水森の勉強に付き合ってくれていた恋人から、と考えると信頼と言っていい言葉だ。単純なもので、先ほどまでの寂しさや不安は消えて、全てうまくいく気がしてきた。
「ありがとうございます。オレ、がんばるんで!」
水森は、満面の笑みを恋人に返した。
長かった試験までの準備期間も終わる。八月に入ったら、いよいよ本番だ。恋人の信頼に応えるためにも、受かろう、絶対に。水森は改めて決意した。
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